人間って変われる。経験が人を変える…だけではなくて。 | 子育てママの心を照らす 運河駅のサロン〜with ease in 流山

子育てママの心を照らす 運河駅のサロン〜with ease in 流山

流山市で、特に子育て中のイライラに効く、
おうち整体の施術と指導、ここセラ講師をする
たかはしくみ(くみちゃん)のブログ。

ママが自分自身で心と体をメンテナンスできる、
”生き方アップデート”のノウハウを授けています。

同じ話を聴いていても

子どもを持って親になると、

初めて分かることってたくさんありますよね。


  • それまでは子どもが嫌いだったのに、自分が親になったら赤ちゃんが可愛く見えるようになった…とか、
  • 親の立場に立って、親の気持ちが初めて分かった
  • こんな思いをして育ててたのか!と衝撃を受けた

のように。


いくら他人から話を聞いても、

それで分かるのって

耳から入る情報と

言葉で表現された範囲のことだけです。


赤ちゃんの可愛らしさを知らない人に、

言葉を尽くして説明したって、

その人が想像できる「赤ちゃん」は、

本人が経験したデータから

頭の中で組み合わせたもの。




何かを伝えようとする時って
その人の経験と想像力に頼るしかないんですよね。


ですから、

同じ話を聞いていても、

人によって反応が違う…ということが起きます。


それは別に、同じ話を聞いていて

泣いたAさんが優しくて、

泣かなかったBさんは冷酷だとか、

そういうことではありません。


人生経験から学んできたものがそれぞれ違う、それだけの話です。


ひとつ目。縁起を知ると感想が変わる。

しかし同じ人間が短い期間で同じ話を聞いても反応が変わるということが、稀にあります。


何を隠そう私の話なんですが(笑)


経験した事から想像して分かる…
という事はつまり、頭で考えるだけでなく
実際自分でやってみるほど、


知ってるつもりでいたことを
1から考え直したりし
意識して重ねていくほど、
「他人の話でも自分の事のように感じられる」人になるということです。


縁起について思いを馳せるというのは、
そういうことなんですね。


自分という果が生じるまで
どういう縁があったのか、
実際経験することは出来なくても、
詳細に思い浮かべれば浮かべるほど、
その縁の重さと
ありがたさが見えてきます。


CMで見かける大企業があります。

社長さんの名前しか知らない
立場からすれば、
会社名を聞いて思い浮かぶのは
製品の良し悪しや、
ラインナップや、
CMに出ているタレントさんの
イメージくらい。


商品を買ったら
サポートがあるのは当たり前で、
修理に取りにきてもらったり、
保証期間があるのも当然と思っています。


ですが、実際は
企業がそこまで大きく
成長できたのは、
その会社に勤める数千人の一人ひとりが
無数の選択をし続けてきたからこそです。


創業時、舵取りを誤ったら
他の企業にとって変わられた選択も
あったでしょうし、
仲間割れの危機も
あったかもしれません。


製品の修理に来てくれる
子会社の社員さんだって、
別の人生があったかもしれません。


あなたのイメージの
元になったCMも、
全く別のコンセプトで
売り出し方が違ったら、
商品を買おうとする顧客層も変わります。
そしたらそれを手にしていません。
CM製作に関わる多くの会社や
スタッフやタレントもいます。


そういうことを考えると、
いつ次の選択を誤って
会社が倒産するかわからない、
赤字になってサポートが
出来なくなるかもしれない、
その舵取りを間違えずに
いま商品を提供していること自体が
実はすごい事だ!と気づきます。


「知ったつもり」で
「会社名」という枠の中に
入れてしまうと、
そういった血の通う情報が
シャットアウトされてしまいます。


自分につながる、お父さんお母さんの人生。
おじいちゃんおばあちゃんの人生。
あの時ああじゃなかったら…
あの時ああだったから…
無数の選択があった、
その1つ1つが今の自分につながっている。


そういうことを感じ取るほど、
「心の感受性」が豊かになって、
当たり前のことが減っていきます。


だから同じ話を聞いて、以前は泣かなかった人が今度は泣くようになるんです。


ふたつ目。自分と他人を分けて見ると、経験の差を超えられない

しかし、そうやって思いを馳せて分かることも、結局自分の経験の範疇からは出られません。


「わかったつもり」にしか過ぎないということです。


では、「わかったつもりにならない」というのはどういうことでしょうか?


先日開催された「こころセラピスト講座 宇宙の法則編」3、4回目の講座は「唯心」「諸行無常」でした。



この4回目の講座、以前の私は「ふーん」って感じで聞いていました。
同じ話は3回くらい聞いて、3回とも「ふーん」でした。


それが、去年4回目聞いた時から
「死刑囚の歌人」の話と「周梨槃特」の話で号泣するようになってしまったんです。

掃除をするお坊さん

で、「な何だこれは?何が私に起きたの?」と色々考えてみたところ…。
どうも諸法無我の道理が入っているか入っていないかで違うっぽいんですね。


「諸法無我」には色々な原理があるんですが、
その中の1つが「愛の原理」
自分はない、と分かると、「誰もがみんな自分みたいなもん」になるんですね。


これすごく言葉で説明しにくいんですが、
(ブッダの何がすごいって、これを口で説明してみんなを導いたところ)
「あの人はああいう性格だから」 とか、
「それはあなただから出来るんでしょ」とか、
分けて評価したり差別したりする感覚が無くなるんですよ。


だから、周梨槃特の話も島秋人の話も、全部自分の話に聞こえるというか…。


いま私が私でいるのはほんと、
たまたまであって、
私は周梨槃特でもあるし、島秋人でもあるんです。


そう思ったらもう平静に話が聞けないです。
ふーん、なんて心持ちには戻れません。


「エゴや執着を手放し続けたら、無感情無感動な人間になってしまうんじゃ?」
そういう質問が、そのここセラの講義の途中でありました。


そんな心配全然要らないということが
分かると良いなあと思いながら書いたのが、
今回のブログです。