<保科正之像>ほしなまさゆき
少年期を高遠で過ごした名君の銅像です
保科正之と聞けば、会津藩を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。正之は二代将軍・徳川秀忠のいわば「隠し子」として生まれ、保科氏の養子となり、多感な少年期を高遠で過ごしました。
<保科正之とお静>
左の女性は保科正之の生みの親であるお静です。地蔵が3体並んでいますが、これはお静(浄光院)が正之の幸せを願って江戸の寺に寄進した石仏と同じ形のものとのことです。
秀忠の正室はあの有名なお江ですね。その嫉妬を恐れ、お静は実家、そして武田信玄の娘である見性院・信松尼の支援を受け、無事に正之(幼名は幸松)を出産しました。
正之が7歳の時に、見性院の世話で保科家の養子となります。保科家は武田の旧臣。武田家滅亡後は徳川家に仕えて、高遠藩主となりました。実母が見守るなか、正之は高遠で育ちました。
<参考>
高遠城の南曲輪跡に設置されている説明板です。本丸の南に位置する曲輪です。やがて藩主となる保科正之が、幼少のころ母と居住したところと言われています。
江戸から遠ざかっていた正之ですが、のちに秀忠の実子、そして三代将軍・家光の実弟として認められます。正之は兄・家光に対して、あくまで家臣という立場を貫き、この謙虚さが家光に好かれ側近に取り立てられました。高遠藩主、山形藩主を経て、会津の初代藩主となりますが、その一方で、将軍家を支える役割も担っています。
幕府の中枢となった保科正之の活躍を列挙したらきりがありませんが、個人的に印象に残っているのは、1657年3月2日の明暦の大火への対応です。
時の将軍は第4代の家綱でした。しかし17歳とまだ若く、将軍の指南役である保科正之が、実質的に復興の指揮をとりました。明暦の大火は江戸城天守のみならず、城下町の大半を焼いたといわれる大災害です。これに対し正之は、天守再建より民の暮らしを優先させることを決断します。威厳を必要とする将軍家、そしてそれに服従の姿勢を示そうとする大名たち、その微妙な雰囲気の中で、正論を堂々と唱えられたのは、保科正之だけだったのではないでしょうか。江戸城に天守が無いことは、保科正之の民を思う気持ちの現れだと私個人は思っています。
最後に
保科正之は会津藩松平家の祖とされる人物ですが、正之本人は松平を名乗っていません。自身を育てた保科家の名を、変えることはありませんでした。松平への改名は、正之が亡くなったあとの話です。
■訪問:保科正之像
(お静の方・保科正之像)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・現地説明文(石碑)
・伊那谷ねっとニュース2009/4/5
(保科正之公像完成)
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=23690
2024年04月20日
2024年04月14日
進徳館(伊那市)高遠城内に設けられた藩校
高遠城跡を探索したあと、高遠藩の藩校跡に立ち寄りました。
<進徳館>しんとくかん
城跡の一部と言ってよい場所にあります。
城址敷地内に藩校の建物が現存しているのは珍しいそうです。
こちらは先生用の玄関
ここが教室ですね。えっと、その奥は……
和室はみんな応接間に見えてしまうので、玄関に掲示されていた間取り図でもう一度確認したいと思います。
そういうことなんですね
進徳館開校は1860年といいますから、すでに江戸末期です。藩主は第8代の内藤頼直でした。三の丸で空き家となっていた家老の屋敷を、学問所として利用したようです。明治となり、高遠県学校を経て1873年(明治6年)には廃校。学校として機能したのは13年ほどでした。
こちらは学生専用の出入り口。高遠藩では、藩士の子は全員出席させたそうです。学校として存在した期間は短いですが、5百人を超える人材がここで学びました。
他藩と同様に、高遠藩も財政は窮迫していました。しかし、優秀な人材の育成に重きを置いた結果が、進徳館だったのでしょう。
■訪問:進徳館
[長野県伊那市高遠町東高遠]2007
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■参考
・現地説明板・ 間取り図
・Wikipedia:2024/4/14
・伊那市HP(進徳館)
https://www.inacity.jp/shisetsu/kankoshisetsu/shintokukan.html
・おいでな伊那HP(進徳館)
https://inashi-kankoukyoukai.jp/locate/%e9%80%b2%e5%be%b3%e9%a4%a8/
<進徳館>しんとくかん
城跡の一部と言ってよい場所にあります。
城址敷地内に藩校の建物が現存しているのは珍しいそうです。
こちらは先生用の玄関
ここが教室ですね。えっと、その奥は……
和室はみんな応接間に見えてしまうので、玄関に掲示されていた間取り図でもう一度確認したいと思います。
そういうことなんですね
進徳館開校は1860年といいますから、すでに江戸末期です。藩主は第8代の内藤頼直でした。三の丸で空き家となっていた家老の屋敷を、学問所として利用したようです。明治となり、高遠県学校を経て1873年(明治6年)には廃校。学校として機能したのは13年ほどでした。
こちらは学生専用の出入り口。高遠藩では、藩士の子は全員出席させたそうです。学校として存在した期間は短いですが、5百人を超える人材がここで学びました。
他藩と同様に、高遠藩も財政は窮迫していました。しかし、優秀な人材の育成に重きを置いた結果が、進徳館だったのでしょう。
■訪問:進徳館
[長野県伊那市高遠町東高遠]2007
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■参考
・現地説明板・ 間取り図
・Wikipedia:2024/4/14
・伊那市HP(進徳館)
https://www.inacity.jp/shisetsu/kankoshisetsu/shintokukan.html
・おいでな伊那HP(進徳館)
https://inashi-kankoukyoukai.jp/locate/%e9%80%b2%e5%be%b3%e9%a4%a8/
2024年04月13日
絵島囲み屋敷(伊那市)大奥女中筆頭が幽閉された高遠藩の屋敷
高遠城址公園近くの「絵島囲み屋敷」を訪問しました。
<絵島囲み屋敷>
綺麗に管理された屋敷ですが、これは大奥女中筆頭だった絵島が長きに渡って幽閉された建物。見取り図を基に復元したものです。
幽閉に至る理由は?
■ 江島生島事件 ■えじまいくしま
事件が起きたのは1714年。将軍が第7代・徳川家継の時代です。家継の生母・月光院に仕えていた絵島(江島)は、主人の名代として前将軍・家宣の墓参りの帰りに、人気歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を見物。これだけなら問題にならなかったかもしれませんが、役者を交えての宴会、そして大奥の門限を破ってしまい、大問題となってしまいました。
これにより、旗本だった兄には死罪の処分が下され、役者を含めて流罪も多数、処分された関係者は千数百名にも及ぶことになりました。
現代人の感覚ではちょっと厳し過ぎますが、大奥の風紀を乱すということは、当時それくらい大問題だったのでしょう。絵島は人気役者である生島新五郎との密会を幕府から疑われ、拷問も受けています。いま風に言えば大スキャンダルだったようです。
絵島は本来なら死罪のところを、減じての島流しとされ、更に月光院の嘆願により、高遠藩へのお預けで落ち着いたそうです。時の将軍の生母をもってしても、そこまでが精一杯だった。それくらい大奥を揺るがす問題だったのですね。この時絵島は34歳。以降27年間、高遠城下の屋敷に幽閉されました。
<屋敷>
屋敷そのものはある程度の広さです。ただ、常に藩の監視下におかれ、絵島は屋敷内の一室に閉じ込められていたそうです。現地での説明(音声ガイダンス)を聞く限りでは、絵島の食事は朝夕二度で一汁一菜、着る物は木綿のみだったようです。他にも、いろんなことが制約だらけのなかで暮らしていたようです。
喰うには困らない?
とも言えますが、旗本の家に生まれ、大奥の筆頭女中にまでなった方ですからね…
<絵島の間>
絵島が過ごした部屋です。格子は現在の住宅なら防犯用ですが、これは逃亡防止用。牢と言えなくもない。高遠藩の措置が厳しいというより、逃げられてしまっては、幕府に面目が立たないということなのでしょう。
絵島は大奥のことを語ることもなく、お経などを読んで時を過ごしたとされています。その清らかな態度により、高遠藩主からも一目置かれたとのことです。
私は大奥について詳しくはないのですが、小説やドラマの影響からか、嫉妬やら内部の権力争いが激しいというイメージです。絵島の背負った罪、真実はどうだったのでしょうね?
<屋敷入口>
しばらくののち(1722年)、藩主・内藤頼卿による幕府への赦免嘆願により、絵島は屋敷周辺の散歩などは認められるようになったそうです。監視されていることに変わりはありませんが、少しだけよかったですね。また、高遠城へ登城し、城内の女性たちにしつけの指導をする機会も与えられたとのこと。しっかりとした、信用される女性だったのでしょうね。
■訪問:絵島囲み屋敷
(高遠歴史博物館)
[長野県伊那市高遠町東高遠]457
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■参考
・現地音声ガイダンス
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠に残る絵島囲み屋敷)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=900
<絵島囲み屋敷>
綺麗に管理された屋敷ですが、これは大奥女中筆頭だった絵島が長きに渡って幽閉された建物。見取り図を基に復元したものです。
幽閉に至る理由は?
■ 江島生島事件 ■えじまいくしま
事件が起きたのは1714年。将軍が第7代・徳川家継の時代です。家継の生母・月光院に仕えていた絵島(江島)は、主人の名代として前将軍・家宣の墓参りの帰りに、人気歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を見物。これだけなら問題にならなかったかもしれませんが、役者を交えての宴会、そして大奥の門限を破ってしまい、大問題となってしまいました。
これにより、旗本だった兄には死罪の処分が下され、役者を含めて流罪も多数、処分された関係者は千数百名にも及ぶことになりました。
現代人の感覚ではちょっと厳し過ぎますが、大奥の風紀を乱すということは、当時それくらい大問題だったのでしょう。絵島は人気役者である生島新五郎との密会を幕府から疑われ、拷問も受けています。いま風に言えば大スキャンダルだったようです。
絵島は本来なら死罪のところを、減じての島流しとされ、更に月光院の嘆願により、高遠藩へのお預けで落ち着いたそうです。時の将軍の生母をもってしても、そこまでが精一杯だった。それくらい大奥を揺るがす問題だったのですね。この時絵島は34歳。以降27年間、高遠城下の屋敷に幽閉されました。
<屋敷>
屋敷そのものはある程度の広さです。ただ、常に藩の監視下におかれ、絵島は屋敷内の一室に閉じ込められていたそうです。現地での説明(音声ガイダンス)を聞く限りでは、絵島の食事は朝夕二度で一汁一菜、着る物は木綿のみだったようです。他にも、いろんなことが制約だらけのなかで暮らしていたようです。
喰うには困らない?
とも言えますが、旗本の家に生まれ、大奥の筆頭女中にまでなった方ですからね…
<絵島の間>
絵島が過ごした部屋です。格子は現在の住宅なら防犯用ですが、これは逃亡防止用。牢と言えなくもない。高遠藩の措置が厳しいというより、逃げられてしまっては、幕府に面目が立たないということなのでしょう。
絵島は大奥のことを語ることもなく、お経などを読んで時を過ごしたとされています。その清らかな態度により、高遠藩主からも一目置かれたとのことです。
私は大奥について詳しくはないのですが、小説やドラマの影響からか、嫉妬やら内部の権力争いが激しいというイメージです。絵島の背負った罪、真実はどうだったのでしょうね?
<屋敷入口>
しばらくののち(1722年)、藩主・内藤頼卿による幕府への赦免嘆願により、絵島は屋敷周辺の散歩などは認められるようになったそうです。監視されていることに変わりはありませんが、少しだけよかったですね。また、高遠城へ登城し、城内の女性たちにしつけの指導をする機会も与えられたとのこと。しっかりとした、信用される女性だったのでしょうね。
■訪問:絵島囲み屋敷
(高遠歴史博物館)
[長野県伊那市高遠町東高遠]457
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■参考
・現地音声ガイダンス
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠に残る絵島囲み屋敷)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=900
信長に屈しなかった信玄五男(高遠城の戦い)仁科盛信の最期
<高遠城>たかとお
信州高遠城跡です。この城を拠点に、織田信長の侵攻に最後まで抵抗した武田の武将がいました。
■ 仁科盛信 ■にしなもりのぶ
仁科五郎盛信は武田信玄の五男。勝頼の異母弟です。四男の勝頼が諏訪氏を継承して諏訪四郎勝頼を名乗ったの同じく、信濃国安曇郡の仁科氏を継承しました。信玄亡きあとは、本家に戻って当主となった勝頼に従い、武田親族衆として活躍しました。
長篠の戦いでの壊滅的な敗北を機に、武田の勢力は徐々に衰え始めます。追い打ちをかけるように、織田信長が甲斐・信濃・駿河など、武田の領内に侵攻(甲州征伐)。武田家臣団の離反や逃亡が相次ぎまました。明らかに旗色が悪いなか、仁科盛信は高遠城に籠城し、最後まで抵抗を続けました。
ここからは、現地説明板の一部を引用させて頂きます。『』内は原文の転記です。
「高遠城の戦い(古戦場跡)」と題した説明文
『伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の侵攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。』
大軍を率いる織田信忠は、僧を使者にして降伏を促したようですが、籠城する武田軍には、まったくそのつもりはなかったようですね。その後も奮闘しますが、やはり数的不利は如何ともし難い状況でした。説明文の続きを引用させて頂くと『三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。』とのことです。
副将として入城していた小山田昌成を含め、多くの犠牲者を出しながら、高遠城は落城しました。そして盛信自身も自害。壮絶な最期です。
激しい戦いのあった城跡は、今では公園として整備され、桜の名所として知られています。高遠の桜が濃い色をしているのは、討ち死にした城兵の血を吸っているためとも伝えられています。
仁科盛信の自害に続き、兄の勝頼も天目山で自害となりました。これにより、戦国大名としての武田氏は滅びました。
高遠城は兄・勝頼が諏訪氏を継承した際に城主を務めた城でもあります。歴代城主に兄弟で名を連ねたわけですね。武田の勢力拡張期には攻めの城、逆に押し込まれた際には守りの城として機能しました。
説明板に記されていた『要害は必ず兵禍を被る』という言葉が忘れられません。この場合の「兵」はいくさのことですね。戦略の要となるような城は、決まって戦禍に巻き込まれる。そう受けとめました。
仁科盛信終焉の地です
■訪問:高遠城
(高遠城址公園)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考及び出典
・現地説明板(高遠城址公園)
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
信州高遠城跡です。この城を拠点に、織田信長の侵攻に最後まで抵抗した武田の武将がいました。
■ 仁科盛信 ■にしなもりのぶ
仁科五郎盛信は武田信玄の五男。勝頼の異母弟です。四男の勝頼が諏訪氏を継承して諏訪四郎勝頼を名乗ったの同じく、信濃国安曇郡の仁科氏を継承しました。信玄亡きあとは、本家に戻って当主となった勝頼に従い、武田親族衆として活躍しました。
長篠の戦いでの壊滅的な敗北を機に、武田の勢力は徐々に衰え始めます。追い打ちをかけるように、織田信長が甲斐・信濃・駿河など、武田の領内に侵攻(甲州征伐)。武田家臣団の離反や逃亡が相次ぎまました。明らかに旗色が悪いなか、仁科盛信は高遠城に籠城し、最後まで抵抗を続けました。
ここからは、現地説明板の一部を引用させて頂きます。『』内は原文の転記です。
「高遠城の戦い(古戦場跡)」と題した説明文
『伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の侵攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。』
大軍を率いる織田信忠は、僧を使者にして降伏を促したようですが、籠城する武田軍には、まったくそのつもりはなかったようですね。その後も奮闘しますが、やはり数的不利は如何ともし難い状況でした。説明文の続きを引用させて頂くと『三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。』とのことです。
副将として入城していた小山田昌成を含め、多くの犠牲者を出しながら、高遠城は落城しました。そして盛信自身も自害。壮絶な最期です。
激しい戦いのあった城跡は、今では公園として整備され、桜の名所として知られています。高遠の桜が濃い色をしているのは、討ち死にした城兵の血を吸っているためとも伝えられています。
仁科盛信の自害に続き、兄の勝頼も天目山で自害となりました。これにより、戦国大名としての武田氏は滅びました。
高遠城は兄・勝頼が諏訪氏を継承した際に城主を務めた城でもあります。歴代城主に兄弟で名を連ねたわけですね。武田の勢力拡張期には攻めの城、逆に押し込まれた際には守りの城として機能しました。
説明板に記されていた『要害は必ず兵禍を被る』という言葉が忘れられません。この場合の「兵」はいくさのことですね。戦略の要となるような城は、決まって戦禍に巻き込まれる。そう受けとめました。
仁科盛信終焉の地です
■訪問:高遠城
(高遠城址公園)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考及び出典
・現地説明板(高遠城址公園)
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
2024年04月07日
遅い春の高遠桜(高遠城址公園)
桜で有名な信州の城跡を訪ねました。
<高遠城址公園>たかとお
長野県の高遠城跡です。旧上伊那郡高遠町、現在は伊那市です。
高遠の桜の見頃は普通なら4月。関東の感覚よりやや遅めです。そのことを意識して事前に訪問日を決めました。
ところが…
<本丸跡>
今年(2024年)の春は寒気の影響を受け、関東でも桜の開花が足踏み状態でした。よって高遠の「天下第一の桜」も、私が訪問した4月上旬は開花したばかり。人は大勢いましたが……
満開からはほど遠い状態でした
ちなみに
<パネル>
こちらは公園内に設置されている巨大パネル。記念撮影用です。満開の日に晴れていれば、こんな感じなのでしょう。
まぁもともと城好きですので、高遠城の実物を見れただけで充分です。
<案内板>
高遠城は地形の険しさを利用した城です。縄張りそのものは比較的シンプルで、ここまで登ってきてしまえば、城内は楽に散策することができます。
<遺構>
穏やかな公園ですが、曲輪と曲輪を分断する堀切はいかにも城らしく、築城・改修に膨大な人力がつぎ込まれたことが想像できます。
この城は諏訪氏一門である高遠氏の拠点から始まり、戦国時代には甲斐武田の支配下となりました。その武田が織田軍と激突した場所でもあり、江戸時代になってからも存続しました。廃城は明治になってからです。つまり、長い長い歴史が刻まれた城跡なのです。
そんな城跡の桜です
高遠の桜はタカトオコヒガンザクラという固有種だそうです
ほころび始めた蕾をまざまざと見つめる機会なんて滅多にない。この赤くなった蕾が先から割れて桜の花となるわけですね。開花のきっかけは春の暖かさですが、冬の寒さに晒されなければ桜は咲きません。当たり前のことが、何だかとても新鮮でした。
日本百名城の桜です
ということで
開花したばかりの高遠桜のご紹介となりました。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/4/7
・伊那市HP
(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
<高遠城址公園>たかとお
長野県の高遠城跡です。旧上伊那郡高遠町、現在は伊那市です。
高遠の桜の見頃は普通なら4月。関東の感覚よりやや遅めです。そのことを意識して事前に訪問日を決めました。
ところが…
<本丸跡>
今年(2024年)の春は寒気の影響を受け、関東でも桜の開花が足踏み状態でした。よって高遠の「天下第一の桜」も、私が訪問した4月上旬は開花したばかり。人は大勢いましたが……
満開からはほど遠い状態でした
ちなみに
<パネル>
こちらは公園内に設置されている巨大パネル。記念撮影用です。満開の日に晴れていれば、こんな感じなのでしょう。
まぁもともと城好きですので、高遠城の実物を見れただけで充分です。
<案内板>
高遠城は地形の険しさを利用した城です。縄張りそのものは比較的シンプルで、ここまで登ってきてしまえば、城内は楽に散策することができます。
<遺構>
穏やかな公園ですが、曲輪と曲輪を分断する堀切はいかにも城らしく、築城・改修に膨大な人力がつぎ込まれたことが想像できます。
この城は諏訪氏一門である高遠氏の拠点から始まり、戦国時代には甲斐武田の支配下となりました。その武田が織田軍と激突した場所でもあり、江戸時代になってからも存続しました。廃城は明治になってからです。つまり、長い長い歴史が刻まれた城跡なのです。
そんな城跡の桜です
高遠の桜はタカトオコヒガンザクラという固有種だそうです
ほころび始めた蕾をまざまざと見つめる機会なんて滅多にない。この赤くなった蕾が先から割れて桜の花となるわけですね。開花のきっかけは春の暖かさですが、冬の寒さに晒されなければ桜は咲きません。当たり前のことが、何だかとても新鮮でした。
日本百名城の桜です
ということで
開花したばかりの高遠桜のご紹介となりました。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考
・Wikipedia:2024/4/7
・伊那市HP
(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
2024年03月29日
リニューアル祗園城(小山市)城山公園
<城山公園>
こちらは北関東の名族・小山氏の居城として知られる祇園城跡です。現在は城山公園として整備されています。
<思川>おもいがわ
祇園城は思川を望む高台に築かれた山城です。
<観晃橋>
思川に架かる観晃橋
<公園内>
曲輪跡です。舗装された道が妙に綺麗ですね?
画像は工事が終了した直後に撮影したのです。公園のリニューアル工事はまだ続いていましたが、一部が公開されている状態でした。
<リニューアル前>
工事前の祇園城です。城のなごりが漂い、これはこれで魅力的でした。ただ、やや薄暗い雰囲気だったことは否めません。市民からはあまり評判が良くなかったようです。公園施設そのものの老朽化もあり、大規模な修繕工事が施されることになりました。
深い歴史の刻まれた場所ですが、今はあくまで市民のための公園です。小さな子供も含めて、安心して利用できる方が良いですね。
<堀切跡>
本丸と二の丸の間の堀切り跡です。むかしは草木が生い茂り、見通しが悪かったのですが、今では思川の河原がはっきりと見えます。
<結城道>
堀切の底は結城道と呼ばれた古道の一部。河原にはかつて舟付場があったとされています。この堀切は本丸の防衛施設であると同時に、人やモノの移動をスムーズする交通の役割も担っていたことになります。整然とし過ぎて、城好きとしてはちょっとだけ寂しいですが、リニューアル後の方が、この堀切が果たしていた役割が分かりやすいですね。
<曲輪の説明>
上段曲輪かぁ。こういう説明は嬉しいですね。
ということで
リニューアル祗園城のご紹介でした。
<土塁跡>
公園の隅の土塁がなんだか愛おしい
■訪問:祇園城
(城山公園)
[栃木県小山市城山町]
■当ブログ祇園城の過去記事■
名族小山氏波乱万丈の城跡
『→記事へすすむ』
工事中の夏(祇園城跡)
『→記事へすすむ』
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こちらは北関東の名族・小山氏の居城として知られる祇園城跡です。現在は城山公園として整備されています。
<思川>おもいがわ
祇園城は思川を望む高台に築かれた山城です。
<観晃橋>
思川に架かる観晃橋
<公園内>
曲輪跡です。舗装された道が妙に綺麗ですね?
画像は工事が終了した直後に撮影したのです。公園のリニューアル工事はまだ続いていましたが、一部が公開されている状態でした。
<リニューアル前>
工事前の祇園城です。城のなごりが漂い、これはこれで魅力的でした。ただ、やや薄暗い雰囲気だったことは否めません。市民からはあまり評判が良くなかったようです。公園施設そのものの老朽化もあり、大規模な修繕工事が施されることになりました。
深い歴史の刻まれた場所ですが、今はあくまで市民のための公園です。小さな子供も含めて、安心して利用できる方が良いですね。
<堀切跡>
本丸と二の丸の間の堀切り跡です。むかしは草木が生い茂り、見通しが悪かったのですが、今では思川の河原がはっきりと見えます。
<結城道>
堀切の底は結城道と呼ばれた古道の一部。河原にはかつて舟付場があったとされています。この堀切は本丸の防衛施設であると同時に、人やモノの移動をスムーズする交通の役割も担っていたことになります。整然とし過ぎて、城好きとしてはちょっとだけ寂しいですが、リニューアル後の方が、この堀切が果たしていた役割が分かりやすいですね。
<曲輪の説明>
上段曲輪かぁ。こういう説明は嬉しいですね。
ということで
リニューアル祗園城のご紹介でした。
<土塁跡>
公園の隅の土塁がなんだか愛おしい
■訪問:祇園城
(城山公園)
[栃木県小山市城山町]
■当ブログ祇園城の過去記事■
名族小山氏波乱万丈の城跡
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工事中の夏(祇園城跡)
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2024年03月23日
足柄城のなごり
駿河と相模の堺となる足柄峠。ここに築城された山城を訪ねました。
<足柄城跡>あしがらじょう
静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境です。城は旧東海道の足柄古道に沿いに築かれました。
足柄城は西相模に進出した大森氏が、街道を押さえるために築いたと考えられています。のちにこの地方に台頭した小田原北条氏の氏綱や氏康によって改修されたと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていないようです。
1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、駿河と相模の堺に位置するこの城が重要視され、翌年から数年の間に大規模な改修が行われました。
<足柄峠>
国境の峠ですから、重きをおかれるのは当然ですね
甲斐武田が滅んだのちも、小田原北条氏にとって足柄は重要な防衛ラインでした。次なる脅威は豊臣秀吉です。一族の氏光を城番として大規模な改修を施しました(1587年)。
北条氏光は、三代目当主・氏康の子ということになりますが、氏康の弟の子を養子としたという説が有力のようです。いずれにせよ、一族の中心に位置する武将です。
そして1590年
豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。北条氏光は足柄城に守将として入り、国境防衛に当たりました。周辺には支砦群も築かれていたそうです。しかし、小田原城の重要拠点のひとつである山中城(三島市)落城の知らせが届き、北条氏光は退却。北条家臣の依田大膳亮が引き続き足柄城に留まりましたが、井伊直政の攻撃をうけて開城。城はそののち廃城となりました。
■ 訪問記 ■
<足柄城址碑>
道路(足柄道)沿いの城址碑を撮影。背後は石垣ではありません(念のため)。階段を登ればそこはもう城ですが、その前に道の反対側をご紹介しておきます。
<小郭>
ここは道路を挟んで城とは反対側の小郭です。区画の隅の盛り土は土塁のなごりと思われます。この小規模な曲輪により、足柄城は尾根を開削した切通を挟み込むような構造になっています。
<城本体へ>
では小郭から城の本体へ
その前に
足柄城の大まかな構造を確認しておきます
<案内図>
設置してあった案内図です。現地でかろうじて字が読める程度なので、画像だと見えにくいですね。曲輪の配置だけも分かるように図解させて頂きます。
↓
簡素過ぎて恐縮です。尾根の要所要所を平らに造成し、それぞれを堀切で仕切る連郭式の縄張りです。この日は、明神郭を除く主要な郭を探索。聖天堂付近から切通しとなっている道(足柄道)を経由して一の郭へ進み、二の郭・三の郭という順で城内を見て回りました。
<一の郭>
かなり広い曲輪です。この山城の主郭=本丸ですね。真っ平に造成したような感じは無く、起伏が目立ちますので、大きな建物が建ち並ぶような感じではなかったのでしょう。
<玉手ヶ池>
一の郭の隅にある池の跡。私の訪問時には水が枯れていましたが、かつては「底知らずの池」などと言われていたそうです。この標高で水が湧き出るポイントがあるのは貴重ですね。籠城する兵の強い味方だったことでしょう。足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫が池の呼び名の由来となっています。
<足柄峠の碑>
足柄城を象徴する景色です。ここが足柄峠の頂上地点。城兵もここから富士の姿を見つめていたわけですね。
<二の郭へ>
二の郭へ移動してから振り返って堀切を撮影。木の陰になってよく見えませんが、普通の空堀ではなく、尾根を完全に断ち切った堀切の跡です。左手の土橋については詳細不明ながら、少なくともの上部は、公園として整備する際に造成したものでしょう。
<二の郭>
城内でもっとものどかな場所でした。富士山を独り占めできるベンチもあります。
<堀切>
二の郭と三の郭の間の堀切。今度はスケールが伝わるように、同行した友人が映っている画像にしました(顔は加工済)。城が現役の頃は、もっと深く、そして急こう配だったのでしょう。
<堀切>
逆に三の郭の友人が二の郭側を撮影した画像です。この堀切に土橋はありません。左手の階段で、一旦の堀の底へ降りてから三の郭へ向かいます。
<堀の底>
ちょっと見えにくいですが「空堀跡」と記されていました。
<三の郭>
一の郭・二の郭同様に西側の富士山が良く見えます。下には足柄道が通っていますので、まさに街道を押さえるための城です。
ここまでは公園として比較的綺麗に整備されています。ここから先、山を下りながら体感する四の郭以降は、いかにも城好きが喜びそうな景色が続きます。
<四の郭>
<四の郭井戸跡>
<空堀跡>
<空堀跡>
かなり高低差があり、竪堀も施されているように映ります。尾根を断ち切っているので「堀切」と呼びたいところですが、かなり幅広いため、普通に「空堀」と呼んだ方がしっくりしますね。次の五の郭も含め、城を拡張した北条氏による造成でしょう。
<五の郭>
<空堀跡>
凄い…
■足柄城のなごり■
足柄城は駿河と相模の境となる足柄峠の古道を取り込むように築かれました。拡張を繰り返し、防衛施設としてピークとなったのは豊臣軍襲来に備えた1590年でしょう。そしてその後まもなく廃城。都市開発の波に飲み込まれることもなく、当時の痕跡がいまでも多く残されています。
遺構のひとつひとつに、当時の人たちの思惑が込められています。風雪にさらされ原形は留めていなくても、そこには人の思いが漂っています。一の郭から始まり、先に進むほどそれを感じることができました。
天候にも恵まれ
良い探索となりました。
--------■ 足柄城 ■--------
別 名:霞城
築城者:大森氏(推定)
築城年:不明(1392年?)
城 主:大森氏・北条氏
改修者:北条氏綱・北条氏康
廃城年:1590年(天正18)
[静岡県駿東郡小山町足柄峠]
[神奈川県南足柄市矢倉沢]
お城巡りランキング
■参考及び出典
現地説明板・立札
(足柄峠城址公園)
Wikipedia:2024/3/23
<足柄城跡>あしがらじょう
静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境です。城は旧東海道の足柄古道に沿いに築かれました。
足柄城は西相模に進出した大森氏が、街道を押さえるために築いたと考えられています。のちにこの地方に台頭した小田原北条氏の氏綱や氏康によって改修されたと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていないようです。
1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、駿河と相模の堺に位置するこの城が重要視され、翌年から数年の間に大規模な改修が行われました。
<足柄峠>
国境の峠ですから、重きをおかれるのは当然ですね
甲斐武田が滅んだのちも、小田原北条氏にとって足柄は重要な防衛ラインでした。次なる脅威は豊臣秀吉です。一族の氏光を城番として大規模な改修を施しました(1587年)。
北条氏光は、三代目当主・氏康の子ということになりますが、氏康の弟の子を養子としたという説が有力のようです。いずれにせよ、一族の中心に位置する武将です。
そして1590年
豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。北条氏光は足柄城に守将として入り、国境防衛に当たりました。周辺には支砦群も築かれていたそうです。しかし、小田原城の重要拠点のひとつである山中城(三島市)落城の知らせが届き、北条氏光は退却。北条家臣の依田大膳亮が引き続き足柄城に留まりましたが、井伊直政の攻撃をうけて開城。城はそののち廃城となりました。
■ 訪問記 ■
<足柄城址碑>
道路(足柄道)沿いの城址碑を撮影。背後は石垣ではありません(念のため)。階段を登ればそこはもう城ですが、その前に道の反対側をご紹介しておきます。
<小郭>
ここは道路を挟んで城とは反対側の小郭です。区画の隅の盛り土は土塁のなごりと思われます。この小規模な曲輪により、足柄城は尾根を開削した切通を挟み込むような構造になっています。
<城本体へ>
では小郭から城の本体へ
その前に
足柄城の大まかな構造を確認しておきます
<案内図>
設置してあった案内図です。現地でかろうじて字が読める程度なので、画像だと見えにくいですね。曲輪の配置だけも分かるように図解させて頂きます。
↓
簡素過ぎて恐縮です。尾根の要所要所を平らに造成し、それぞれを堀切で仕切る連郭式の縄張りです。この日は、明神郭を除く主要な郭を探索。聖天堂付近から切通しとなっている道(足柄道)を経由して一の郭へ進み、二の郭・三の郭という順で城内を見て回りました。
<一の郭>
かなり広い曲輪です。この山城の主郭=本丸ですね。真っ平に造成したような感じは無く、起伏が目立ちますので、大きな建物が建ち並ぶような感じではなかったのでしょう。
<玉手ヶ池>
一の郭の隅にある池の跡。私の訪問時には水が枯れていましたが、かつては「底知らずの池」などと言われていたそうです。この標高で水が湧き出るポイントがあるのは貴重ですね。籠城する兵の強い味方だったことでしょう。足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫が池の呼び名の由来となっています。
<足柄峠の碑>
足柄城を象徴する景色です。ここが足柄峠の頂上地点。城兵もここから富士の姿を見つめていたわけですね。
<二の郭へ>
二の郭へ移動してから振り返って堀切を撮影。木の陰になってよく見えませんが、普通の空堀ではなく、尾根を完全に断ち切った堀切の跡です。左手の土橋については詳細不明ながら、少なくともの上部は、公園として整備する際に造成したものでしょう。
<二の郭>
城内でもっとものどかな場所でした。富士山を独り占めできるベンチもあります。
<堀切>
二の郭と三の郭の間の堀切。今度はスケールが伝わるように、同行した友人が映っている画像にしました(顔は加工済)。城が現役の頃は、もっと深く、そして急こう配だったのでしょう。
<堀切>
逆に三の郭の友人が二の郭側を撮影した画像です。この堀切に土橋はありません。左手の階段で、一旦の堀の底へ降りてから三の郭へ向かいます。
<堀の底>
ちょっと見えにくいですが「空堀跡」と記されていました。
<三の郭>
一の郭・二の郭同様に西側の富士山が良く見えます。下には足柄道が通っていますので、まさに街道を押さえるための城です。
ここまでは公園として比較的綺麗に整備されています。ここから先、山を下りながら体感する四の郭以降は、いかにも城好きが喜びそうな景色が続きます。
<四の郭>
<四の郭井戸跡>
<空堀跡>
<空堀跡>
かなり高低差があり、竪堀も施されているように映ります。尾根を断ち切っているので「堀切」と呼びたいところですが、かなり幅広いため、普通に「空堀」と呼んだ方がしっくりしますね。次の五の郭も含め、城を拡張した北条氏による造成でしょう。
<五の郭>
<空堀跡>
凄い…
■足柄城のなごり■
足柄城は駿河と相模の境となる足柄峠の古道を取り込むように築かれました。拡張を繰り返し、防衛施設としてピークとなったのは豊臣軍襲来に備えた1590年でしょう。そしてその後まもなく廃城。都市開発の波に飲み込まれることもなく、当時の痕跡がいまでも多く残されています。
遺構のひとつひとつに、当時の人たちの思惑が込められています。風雪にさらされ原形は留めていなくても、そこには人の思いが漂っています。一の郭から始まり、先に進むほどそれを感じることができました。
天候にも恵まれ
良い探索となりました。
--------■ 足柄城 ■--------
別 名:霞城
築城者:大森氏(推定)
築城年:不明(1392年?)
城 主:大森氏・北条氏
改修者:北条氏綱・北条氏康
廃城年:1590年(天正18)
[静岡県駿東郡小山町足柄峠]
[神奈川県南足柄市矢倉沢]
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■参考及び出典
現地説明板・立札
(足柄峠城址公園)
Wikipedia:2024/3/23
2024年03月18日
山の頂上付近の湧水池(足柄城)玉手ヶ池
足柄峠に築かれた山城の頂上付近には、かつて地下水が脈々と湧き出る池がありました。
<玉手ヶ池>
画像の奥が池の跡とされています。ここは足柄城の一の郭(主郭)の東隅。山麓、又は中腹ならともかく、標高の高い山のほぼ頂上です。
<現地の立札>
近くの立札に『史跡と伝説』と題した説明が記されています。せっかくですので、以下に転記させて頂きます(『』内が原文)。
『この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ干天の慈雨とされたと云われ干日続きには遠近の村人達が雨乞いに来たものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか。』
ちょっと私にとっては分かったよう分からないような感じでしたが、参考になりました。池の底が小田原に通じている?ファンタジーのセンスがないのか、想像が膨らみませんでした。ただ、これは昨日今日の話ではなく、古い言い伝えです。この山に刻まれた歴史やら、関わった人たちの思惑が込められているのだと受け止めることにしました。
<池跡>
私の訪問時は水がありませんでした。しかし立札の説明文から推定する限り、むかしはここから水が湧いていたのでしょう。池の名は足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫から付けられたものとのこと。とりあえず池跡と思うことにしますが、井戸跡とも言われているようですね。
<一の郭>
一の郭の池とは別に、足柄城には三の郭から四の郭の中間に井戸跡があります。地下の構造までは分かりかねますが、足柄城の築かれた山には、地中に溶け込んだ雨水の通り道が、地表近くに確保されていたのでしょう。
<玉手ヶ池のなごり>
籠城する城兵たちにとって、湧水ポイントが頼もしい存在であったことは言うまでもありませんね。
■訪問:玉手ヶ池跡
(足柄峠城址公園)
[静岡県駿東郡小山町竹之下]
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■参考及び出典
現地立札
<玉手ヶ池>
画像の奥が池の跡とされています。ここは足柄城の一の郭(主郭)の東隅。山麓、又は中腹ならともかく、標高の高い山のほぼ頂上です。
<現地の立札>
近くの立札に『史跡と伝説』と題した説明が記されています。せっかくですので、以下に転記させて頂きます(『』内が原文)。
『この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ干天の慈雨とされたと云われ干日続きには遠近の村人達が雨乞いに来たものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか。』
ちょっと私にとっては分かったよう分からないような感じでしたが、参考になりました。池の底が小田原に通じている?ファンタジーのセンスがないのか、想像が膨らみませんでした。ただ、これは昨日今日の話ではなく、古い言い伝えです。この山に刻まれた歴史やら、関わった人たちの思惑が込められているのだと受け止めることにしました。
<池跡>
私の訪問時は水がありませんでした。しかし立札の説明文から推定する限り、むかしはここから水が湧いていたのでしょう。池の名は足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫から付けられたものとのこと。とりあえず池跡と思うことにしますが、井戸跡とも言われているようですね。
<一の郭>
一の郭の池とは別に、足柄城には三の郭から四の郭の中間に井戸跡があります。地下の構造までは分かりかねますが、足柄城の築かれた山には、地中に溶け込んだ雨水の通り道が、地表近くに確保されていたのでしょう。
<玉手ヶ池のなごり>
籠城する城兵たちにとって、湧水ポイントが頼もしい存在であったことは言うまでもありませんね。
■訪問:玉手ヶ池跡
(足柄峠城址公園)
[静岡県駿東郡小山町竹之下]
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■参考及び出典
現地立札
2024年03月09日
足柄峠の関所跡(足柄道)古代東海道における東国の出入り口
古くは官道として利用された足柄道の関所跡を訪ねました。
<足柄之関>あしがらのせき
ここは律令国家の時代の東海道で、駿河と相模の堺です。
<足柄峠の標柱>
標高759mですか。高さ云々より道の傾斜の方に気をとられます。
<説明板>
「古代の足柄の関」と題した説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます。『』内は原文の写しです(転記ミスありましたらすみません)。
『足柄の関は昌泰二年(八九九)、足柄坂に出没する強盗団、僦馬の党を取り締まるために設けられた。関の通行には相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要だった。関の設置された場所や規模、関の停廃の時期などは分かっていない。
「源平盛衰記」に治承四年(一一八〇)のこととして、土屋宗遠が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」と見える。また、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅経が、「とまるべき せきやはうちもあらはにて 嵐ははげしあしがらの山」(「明日香井和歌集)と詠んでいることから、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にはその残骸が残っていたことがわかる。
峠付近の路傍から採取された四千年前の縄文土器片が語るように、この峠道の歴史は古く、鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。また、歌枕として 関・峠ともに、多くの歌に詠まれている。』
僦馬(しゅうば)の党とは、本来の生業は運送ですが、ここでは強奪も行った武装集団という意味に受け取ってよいと思います。要するに、足柄峠付近は物騒だったわけですね。関所はこれを取り締まるべく設けられました。説明文にもある通り、通行するには相模国司、つまり相模の役人が発行する手形が必要でした。
<おじき石説明板>
こちらの説明板によれば『旅人がこの石に手をついておじぎをし、手形を差し出した』とのこと。
<おじぎ石>
石とは?他にないのでこれのことですよね。このままだとしたら、おじぎというより、膝をつかないと手形を差し出せそうにありません。「お役人さま〜お願いしますだ〜」という感じだったのでしょうか?
こういった手形のチェックに加えて、関所の役人は先述の通り物騒な連中を取り締まらなければなりません。足柄峠の関所の規模は不明のようですが、足軽なども含めて20名ほどが詰めていたと推定されています。それなりの人数ではありますが、人里離れた山奥で、冬はかなり寒かったでしょうし、あまり楽な仕事とは思えませんね。
説明文には、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人・土屋宗遠が足柄の関を通ったことも紹介されています。少なくとも、鎌倉時代初期にはまだ関所があったのでしょう。また、動乱ともなれば峠に臨時の関が設けられたとのことも記されています。足柄峠がいかに重要な場所だったか伝わってきます。
<足柄城小郭跡>
右側の斜面の上は、のちの時代に築かれた足柄城の小郭となっています。足柄城も、この地を押さえるために築かれた城です。
江戸時代の東海道は箱根峠を通るため、関所としては箱根の方が有名ですよね。ただ、ここ足柄峠にはもっともっと古い関所があった。現地を訪ねてみて、東国の出入り口であることの重みを知ったような気がします。
関所の厳密な場所は分かっていないそうですが、この付近であったことは間違いなさそうです。
最後に
関所跡近くの有難い場所を紹介して終わりにします。
<聖天さん>しょうでんさん
こちらは関所跡近くの足柄山聖天堂です。浅草聖天・生駒聖天と並んで「日本三大聖天尊」に数えられているとのこと。どんな願いも叶えてくれる霊験あらたかな聖天様は、地元の方に「聖天さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
<金太郎>
聖天堂で撮影した金太郎さん。まさかり担いで熊に跨っていました。僦馬の党も蹴散らせそうな出で立ちです。伝説はいろいろありますが、金太郎が源頼光と出会って家来となるのは、ここ足柄峠です。
ということで
足柄峠の関所跡のご紹介でした
■訪問:足柄の関跡
(足柄峠付近)
[静岡県小山町竹之下] 3649
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■参考及び出典
現地説明板
Wikipedia:2024/3/9
<足柄之関>あしがらのせき
ここは律令国家の時代の東海道で、駿河と相模の堺です。
<足柄峠の標柱>
標高759mですか。高さ云々より道の傾斜の方に気をとられます。
<説明板>
「古代の足柄の関」と題した説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます。『』内は原文の写しです(転記ミスありましたらすみません)。
『足柄の関は昌泰二年(八九九)、足柄坂に出没する強盗団、僦馬の党を取り締まるために設けられた。関の通行には相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要だった。関の設置された場所や規模、関の停廃の時期などは分かっていない。
「源平盛衰記」に治承四年(一一八〇)のこととして、土屋宗遠が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」と見える。また、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅経が、「とまるべき せきやはうちもあらはにて 嵐ははげしあしがらの山」(「明日香井和歌集)と詠んでいることから、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にはその残骸が残っていたことがわかる。
峠付近の路傍から採取された四千年前の縄文土器片が語るように、この峠道の歴史は古く、鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。また、歌枕として 関・峠ともに、多くの歌に詠まれている。』
僦馬(しゅうば)の党とは、本来の生業は運送ですが、ここでは強奪も行った武装集団という意味に受け取ってよいと思います。要するに、足柄峠付近は物騒だったわけですね。関所はこれを取り締まるべく設けられました。説明文にもある通り、通行するには相模国司、つまり相模の役人が発行する手形が必要でした。
<おじき石説明板>
こちらの説明板によれば『旅人がこの石に手をついておじぎをし、手形を差し出した』とのこと。
<おじぎ石>
石とは?他にないのでこれのことですよね。このままだとしたら、おじぎというより、膝をつかないと手形を差し出せそうにありません。「お役人さま〜お願いしますだ〜」という感じだったのでしょうか?
こういった手形のチェックに加えて、関所の役人は先述の通り物騒な連中を取り締まらなければなりません。足柄峠の関所の規模は不明のようですが、足軽なども含めて20名ほどが詰めていたと推定されています。それなりの人数ではありますが、人里離れた山奥で、冬はかなり寒かったでしょうし、あまり楽な仕事とは思えませんね。
説明文には、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人・土屋宗遠が足柄の関を通ったことも紹介されています。少なくとも、鎌倉時代初期にはまだ関所があったのでしょう。また、動乱ともなれば峠に臨時の関が設けられたとのことも記されています。足柄峠がいかに重要な場所だったか伝わってきます。
<足柄城小郭跡>
右側の斜面の上は、のちの時代に築かれた足柄城の小郭となっています。足柄城も、この地を押さえるために築かれた城です。
江戸時代の東海道は箱根峠を通るため、関所としては箱根の方が有名ですよね。ただ、ここ足柄峠にはもっともっと古い関所があった。現地を訪ねてみて、東国の出入り口であることの重みを知ったような気がします。
関所の厳密な場所は分かっていないそうですが、この付近であったことは間違いなさそうです。
最後に
関所跡近くの有難い場所を紹介して終わりにします。
<聖天さん>しょうでんさん
こちらは関所跡近くの足柄山聖天堂です。浅草聖天・生駒聖天と並んで「日本三大聖天尊」に数えられているとのこと。どんな願いも叶えてくれる霊験あらたかな聖天様は、地元の方に「聖天さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
<金太郎>
聖天堂で撮影した金太郎さん。まさかり担いで熊に跨っていました。僦馬の党も蹴散らせそうな出で立ちです。伝説はいろいろありますが、金太郎が源頼光と出会って家来となるのは、ここ足柄峠です。
ということで
足柄峠の関所跡のご紹介でした
■訪問:足柄の関跡
(足柄峠付近)
[静岡県小山町竹之下] 3649
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現地説明板
Wikipedia:2024/3/9
タグ:足柄道
源義光ゆかりの石(足柄峠)新羅三郎義光吹笙之石
むかし難所と呼ばれた足柄峠には、源義光ゆかりの石があります。
<源義光ゆかりの石>
ここは神奈川と静岡の県堺の山中です。厳密に言うと石は峠の静岡側にあります。
<説明板>
石のそばに説明板が設置されています。引用も交えながらご紹介させて頂きます。『』内は原文のままです(転記ミスありましたらすみません)。
まず義光について
『八幡太郎義家の弟、三郎義光は琵琶湖の畔り三井寺の近くの新羅の森で元服したから新羅三郎義光と云っていた。戦乱の世にあっても風雅の心を失わず、笙は時の名人豊原時元に学んだ。』
河内源氏2代目棟梁・源頼義の長男が八幡太郎義家、義光は三男です。笙(しょう)は竹を縦に束ねたような雅楽の楽器ですね。義光はその道の名人から教えを受けていたようなので、みやびな世界に精通した人物だったのでしょう。
つづきは要約します。
清原武衡らの朝廷に対する反乱を鎮圧するために、八幡太郎義家が奥州へ向かいました(後三年の役)が、激しく抵抗されて義家は苦戦。これを聞いた義光は、兄を救援するために京を出ます。
『数十騎の兵をつれて逢坂山を越え、日を重ねて足柄峠に露営したのは寛治元年の仲秋の名月であった。』
寛治元年は1087年です。説明板に記載はありませんが、義光の出陣は認められておらず、朝廷に無断で陸奥国へ向かったそうです。これにより官職を失っています。一大決心で京を出たわけですね。
その途上、足柄の山中に陣営を構えた義光は、自分に付いてきた笙の師匠の子である豊原時秋を呼びよせます。
『「よく聞かれよ、我は御尊父より笙の秘曲を授り、これを後世に伝うべく託された、然るにこの度戦場に赴く上は生死の程も計り難い、我死なばこの道はすたれ先師の志をも空しうする。只今これより相伝の秘曲を伝授すれば貴殿はこれより京へ引き返しこの道を守られよ。」と輸しこの大石の上に坐り伶人豊原時秋に笙の奥儀を伝えた。』
伶人、つまり雅楽を職とする時秋は、幼くして父と死別したため、その曲を知らなかったようです。義光は自分が戦いでこの世を去ってしまえば、曲の伝承者が絶えてしまうことを惜しみ、この地で時秋に曲を授けたというお話です。時秋は義光の思いと亡き父の秘曲を受けとり、京に引き返しました。
いい話ですね。
<吹笙之石>すいしょうのいし
長くなりましたが、秘曲を伝授する時に義光が腰かけたのがこの大きな石と伝わります。この故事にちなみ、毎年9月の第二日曜日に足柄峠笛まつりが開催されているそうです。
■訪問:新羅三郎義光吹笙之石
[静岡県駿東郡小山町竹之下]
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■参考
Wikipedia:2024/3/9
南足柄市HP「足柄峠」
https://www.city.minamiashigara.kanagawa.jp/kankou/spot/ashigara_touge.html
<源義光ゆかりの石>
ここは神奈川と静岡の県堺の山中です。厳密に言うと石は峠の静岡側にあります。
<説明板>
石のそばに説明板が設置されています。引用も交えながらご紹介させて頂きます。『』内は原文のままです(転記ミスありましたらすみません)。
まず義光について
『八幡太郎義家の弟、三郎義光は琵琶湖の畔り三井寺の近くの新羅の森で元服したから新羅三郎義光と云っていた。戦乱の世にあっても風雅の心を失わず、笙は時の名人豊原時元に学んだ。』
河内源氏2代目棟梁・源頼義の長男が八幡太郎義家、義光は三男です。笙(しょう)は竹を縦に束ねたような雅楽の楽器ですね。義光はその道の名人から教えを受けていたようなので、みやびな世界に精通した人物だったのでしょう。
つづきは要約します。
清原武衡らの朝廷に対する反乱を鎮圧するために、八幡太郎義家が奥州へ向かいました(後三年の役)が、激しく抵抗されて義家は苦戦。これを聞いた義光は、兄を救援するために京を出ます。
『数十騎の兵をつれて逢坂山を越え、日を重ねて足柄峠に露営したのは寛治元年の仲秋の名月であった。』
寛治元年は1087年です。説明板に記載はありませんが、義光の出陣は認められておらず、朝廷に無断で陸奥国へ向かったそうです。これにより官職を失っています。一大決心で京を出たわけですね。
その途上、足柄の山中に陣営を構えた義光は、自分に付いてきた笙の師匠の子である豊原時秋を呼びよせます。
『「よく聞かれよ、我は御尊父より笙の秘曲を授り、これを後世に伝うべく託された、然るにこの度戦場に赴く上は生死の程も計り難い、我死なばこの道はすたれ先師の志をも空しうする。只今これより相伝の秘曲を伝授すれば貴殿はこれより京へ引き返しこの道を守られよ。」と輸しこの大石の上に坐り伶人豊原時秋に笙の奥儀を伝えた。』
伶人、つまり雅楽を職とする時秋は、幼くして父と死別したため、その曲を知らなかったようです。義光は自分が戦いでこの世を去ってしまえば、曲の伝承者が絶えてしまうことを惜しみ、この地で時秋に曲を授けたというお話です。時秋は義光の思いと亡き父の秘曲を受けとり、京に引き返しました。
いい話ですね。
<吹笙之石>すいしょうのいし
長くなりましたが、秘曲を伝授する時に義光が腰かけたのがこの大きな石と伝わります。この故事にちなみ、毎年9月の第二日曜日に足柄峠笛まつりが開催されているそうです。
■訪問:新羅三郎義光吹笙之石
[静岡県駿東郡小山町竹之下]
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■参考
Wikipedia:2024/3/9
南足柄市HP「足柄峠」
https://www.city.minamiashigara.kanagawa.jp/kankou/spot/ashigara_touge.html