創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

終活し暇に任せて考えて

2020-03-27 04:17:57 | Weblog

 おはようございます。

 成城学園の母の館の名の通り、お母さん方の寄付で建ち、正面の天井から求むる所第一義の澤柳先生の自筆額。式の会場に行く跳ねて歩く写真、母の館の舞台で他人をのぞき込む写真など70年前の入学式を思い出しました。

 敗戦直後の初等科は随時随所楽しまざる無し、個性尊重の理念。保健室、図書館、音楽室、職員室、クラス教室などが平屋で分散。何をして遊ぼうかと私は毎日考えながら登校しました。

 当時公立は午前午後の2部制。成城生は羨ましいと言われました。当時の担任、後の校長は特別な時代と、野球部総監督になった同級生は子供を入れ後悔したと言いました。昔は個の自由と集団の規則がバランスしていました。

 数学と英語を受験勉強し、他教科は早慶東理に不要のため手抜きし、記念受験の東大に合格。自分がびっくり。喜んで野球部に入り、本郷で1年間球拾い。成績評価はほとんど可。野球を諦め退部。1年間勉強に集中しました。

 東理の志望の数学、物理は諦め、機械工学科を志望し、自動制御と応用数学以外の機械工学講義は転寝の時間になりました。悪友からジャン荘に誘われました。堅物と3欲は紙一重と分かった良い経験でした。

 勉強家の多い自動制御研究室と質実剛健の鉄鋼や熱力学の研究室が恒例の対抗野球。私が投げほとんど三振させられ、初めて勝ったと教授が大喜び。歓迎会でもお酌をしてくれました。度々、祖師谷まで車に同乗しました。

 諦めた野球部のお陰で研究室の先輩方にも可愛がられました。我流で書いた卒論の工場の自動化と、修論のクレーン自動制御の計算機シミュレーションも先輩方や友人のお陰で何とか出来上がりました。

 計算機は黎明期でした。数社と共同研究でき、先生の勧めを断り、国産愛好家は富士通を志望。会社訪問で出会った中村師匠に口説かれシステム部に配属。声の大きい班長が多く、会社が嫌になりました。

 師匠にも言わず、中原工場に行き、人格者、岩井麟三さんに頭を下げ、OCRと小型機を企画開発。岩井さんが飛ばされ私は辞表を提出。シャープの佐々木専務に拾われ、浅田電卓博士が商品企画として私を採用しました。

 浅田さんが副社長に祭り上げられ、佐々木さんが柏に窓際席を創ってくれました。幸運でした。大学に興味があり、女子大非常勤講師を兼務し、色々経験し、色々な人や仕事を知りました。

 当時、バブル景気前夜。大団地が宅地開発中。野原があり娘と野球小僧相手の野球を楽しみました。妻がバドミントンを始めると、一緒に市民クラブを作り、毎週日曜日に初心者一家でバドし、平日夜も時々しました。

 ヨイヨイはもう走れませんし、シャトルも空振りしますが、愛犬が喜んで走るボールを投げられます。クラブ会員の子供とシャトルや靴下で野球します。アホな野球が結果オーライ。何でも楽しめばそうでしょう。南無大師金剛遍照。

 今日はここまでにします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 発達心理学の教えの通り | トップ | 趣味が運んでくれた運 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事