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信州の鎌倉が賑やかな時代

2019-09-27 04:28:38 | Weblog

 別所温泉の北向き観音堂は南向きの善光寺に向き合い、現世のご利益をi祈り、善光寺では来世の成仏を祈るそうです。一方だけでは片手落ちと言われています。私は善光寺はまだです。そのうち妻に引かれお参りします。

 北条時宗の弟が出家し、善光寺に隠遁し、その子が上田の領主になり、北向き観音堂周辺を再整備。別所温泉が信州の鎌倉と言われました。鎌倉から離れた北国街道の湯宿にお目こぼしがあり、賑やかな観音堂周辺だったと思います。

 関ヶ原の戦いで家康は東海道経由。秀忠が別動隊を指揮し、中山道経由で関ヶ原を目指しました。真田昌幸は豊臣方につき、城に立てこもり、秀忠の大軍の攻撃にも城は耐え、秀忠軍は関ヶ原に行けませんでした。

 武田家が亡ぶ前、徳川北条連合軍が上田城を攻め、負けました。2度も徳川を退けたわけです。千曲川のために難攻不落と言われますが、不思議です。鉱物資源、別所温泉、善光寺、真田家代々などの歴史が力になったのか。

 家康は関ケ原の戦の後に、かつての恨みからか上田城を壊し堀も埋め、真田信繁(幸村)を九度山に蟄居させました。幸村は大阪夏の陣に参戦し、配下と共に討ち死にしました小説や漫画では落ち延びた十勇士、猿飛佐助、幸村が好きでした。

 豊臣家が滅び、兄の真田信幸は徳川から3万石を与えられ、与力大名になったそうです。真田昌幸は豊臣と徳川に両天秤をかけた策士と言われますが、私には単に信幸、幸村の信念のようにも思えます。

 真田家は後に松代に移され、仙石氏が上田に入り、城の一部も再建しました。仙谷氏も国替えされ、松平家が領主大名になり、徳川家に忖度したのか、城を再建しませんでした。二の丸門の櫓と堀の極一部だけがあり、城の全貌は分かりません。

 お百姓は搾り取られ、冷夏や日照り、浅間山の大噴火、相次ぐ大災害大飢饉。信州人は食うや食わず、ザリガニ、蜂の子、桑の実を食べました。牛や馬の放牧があれば被差別もあり、江戸時代に漫画誌ガロのサスケに似た地区もあったはず。

 神社仏閣は寺社奉行が管轄。徳川幕府が禁止しても岡場所が全国の人気神社仏閣にあり、精進落で賑わいました。別所温泉も精進落としで繁盛したと下種は思ってしまいます。水飲み百姓が飢えたら、女衒が跋扈したでしょう。今は良い時代です。

 真田家の栄枯盛衰の歴史をウィキでも読めます。江戸時代中期に仙台の旗本になり、後に大名となり、幕末まで存続したとあります。上田観光は真田丸で人気になりました。十勇士が好きだった私はゆっくり見るつもりでしたが、駆け足でした。


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