インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

あれ?また投稿ができる

2024-04-22 13:03:58 | 日記

2024.4.22(月)

驚いた!

またブログが更新できる。

なぜ?

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音って不思議なエネルギー

2022-02-14 15:48:39 | 日記

あ~、ショック

今書いて、アップしようとした瞬間、

「自動保存された記事データを復元しました。破棄する」という項目があったので

自動保存分はいらないと思い、「破棄する」を押したら

アップしようとした記事まで消えてしまった

調べてみましたが、復元は不可能であるようです

ショックで言葉を失いました

怒りもわきません

今日はアップするのを止めようかと思いましたが

何せ久しぶりのブログ

一服して、蜂蜜をなめなめ、気を取り直して再チャレンジ

でも1本目のようにはいかないなあ

ガックシ

 

ということで、元来誰にも負けないほど超一流の「ナマケモノ」の私

もはや気力が残っておりませんが

ちょこっとだけ書いてみます

 

そうでなくても、私、毎日眠たくてしょうがない

一日中寝ていられるくらいです

若い時からそうだから持病です

誰にも負けないくらいの怠け者

よく退職まで仕事ができたものだと感心します

今も再任用で働いていますが

週3日の勤務ですので

持病が悪化してきて大変です

 

私の人生哲学(大げさ)は

やりたいことをする

いいな、と思ったらそれを実行する

それでみんなが喜んでくれるなら言うことなし

という大変軽いものです

私はいつも自分に問います

「どうしたい?」

「これでいいなと思う?」

「その仕事、誰のためにやる?」

「それでみんなが喜ぶ?」

そんな感じで仕事をしてきましたし、これからも同じです

 

ところが仕事はそれでよかったのですが

大変な問題があります

こと自分のことになると

「何がしたい?」

「うん、まず寝たいな」

「じゃ、そうするか」

というテンポ良い会話がされ、実行されるわけです

大変です

こんな感じで、グータラな毎日が過ぎます

毎日、時間の過ぎるのが速いことったらありゃしません

「俺、毎日歯磨きばかりしてない?」

そんな感じです

それでいて、そんな自分を許していますから

(自己評価、自画自賛タイプ)

めったなことに反省もしません

「それで~いいのだ~」(バカボン)

という声まで聞こえてきます

めでたい!

今自分で書きながら、呆れています

 

そんな私でも時間に追われることがあります

(当然です)

数日以内に原稿提出!

室長に睨まれる

焦りが湧いてくるわけですが

なぜかいつも「できる」

と信じているんです

 

そこで焦った私は音楽の力を借ります

今、モーツアルトを聞いていますが

その音楽に乗るようにしてブログを書いています

緊急に仕上げなければいけない仕事の時は

ヘビーメタルです

アップテンポのリズムが「ナマケモノ」の体と脳を動かします

これはもう驚くほどです

やる気が起きるというより、勝手に動き出すという感じです

ネットで早碁を打つ時もヘビーメタルかハードロックです

気持ちが積極的・攻撃的になって、頭の回転も早まります

何だ呆けたかと思っていたら、私の脳みそもちゃんと動くではないか

と嬉しくなります

 

このように音楽にはものすごい力があります

量子物理学(まるで理解できないんだけどね)的には

もやもやとした量子の霧のなかに音の波動が流れることで

きれいな波が生じているんじゃないかなと感じています

それをエネルギーとして受けて

私が動く

そんな感じがします

「私」は空っぽの箱(肉体という受信機だけ)だと思いますので

何らかのエネルギーを周囲から受取って生きている

音楽はそのエネルギーを周囲の空間に作り

私はそのエネルギーの波動に調和させることで

身体も脳も動き出すイメージです

 

あ、音と言えばこんな動画があります

https://www.youtube.com/watch?v=nAHaxBFoIkk&t=1s

ユーチューブからの転載です

不思議な現象です

現代技術では不可能とも言われる大石を使った建築物が世界中にありますが

この技術を使ったのではないかとよく言われます

大阪城の「蛸石(たこいし)」なんて岡山からどうやって運んだんでしょう

戦前までこの技の使える人がいたともいいます

今はもう伝承者はいないんでしょうね

 

今日は、音の不思議の話でした

(追)

写真は、徳之島町花徳(けどく、キドゥ)から南の方角を写したものです

小さい丘がポツンとありますが、宮城山(みやぎやま、ニャーギ)と言って

鹿児島県で一番低い山です。標高は58.4mです。

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近況

2021-10-03 11:27:18 | 日記

花徳(けどく)の黒畦   小島全体にポットホールが見られる

 

1年ぶりにブログアップ

昨年、アメリカ大統領選があってからの世界情勢の変化に圧倒され

ひたすら情報収集と分析ばかりしていた

この間に退職

この後の生活環境の激変にびっくり

退職するとはこういうことなのだなと実感した次第

仕事は引き続きやっているが

責任者からすべての権限がなくなり

責任を失い

給料も1/4以下へ

モチベーションの維持が大変

仕事が世のため人のためになると思えばこそ

対価はいらぬ  この仕事に携われていることだけで十分幸せだ

と思うが

見返りがないというのは、これほどやる気を削ぐことなのかと驚いた

 

職員のときは

残業代などいらぬと心から思い

好きなだけ仕事をさせてもらえれば十分だった

 

それでも退職して月々に生活費が赤字になる中

モチベーションを維持できるか

というとかなり厳しいものがある

 

他の市町村で親しくしていた退職組に呼びかけて

飲み会を開きたいのは山々だけども

新型コロナの風評被害甚だしく

それさえできぬ

じっと耐えつつ、世の人々の笑顔のみを楽しみに

仕事にいそしむ

(なんだか啄木みたいになってきた)

 

 

ワクチンを打つという自殺行為をやめさせようと

幾度となく職場で、自宅で

注意喚起を行ってきたが

その危機感のない反応に呆然とするばかり

すでにワクチン接種者多数につき

注意喚起はむしろ害悪

つとめて明るく振舞い

今更ワクチン接種害を気にし始める者たちに

大丈夫ですよ

と声をかけ、不安を取り除くのが精いっぱい

 

 

歴史を預かる部署でもあるので

歴史の大変革をライブで見る大チャンス到来と

他の職員にも

昨年来静かに、時に激しく進行中の世界的大革命を

共に実感してほしい

歴史を目の当たりにできる喜びを共に味わってほしい

と思い

世界の流れ、動きを少しでも話したものなら

胡散臭そうに咎められる

 

 

ああ、歴史上に現れる大変革とは

同時代を生きる庶民にとってはこの程度

せいぜい噂話でしかない

何ら実感を伴わないものである

これも事実、現実

 

どうりで、御一新があったときの島の記録に

何の感慨もなく書き残されているわけだ

彼らは、徳川様が島津様がいなくなり

代わりにおっかない官吏がやってきた

何かよくわからないが、武士に代わって警官や税務署がやってきた

言うことを聞かないと大変だ

牢屋にぶち込まれるぞ

 

その程度でしかない

新たな世に何の疑問も抱かず

ころころ変わる制度に翻弄され、食べ物にも困りながら

その日その日を生き抜くのみ

これが「歴史」の真実だったわけだ

 

それが知れただけでも収穫かもしれない

この人類史上まれな大変革を

今起きている

と実感しながら生きるか

何も知らずに生きるか

どちらが幸せなのかはわからない

ただ私は実感しながら生きるほうを選びたい

それで十分なのかもしれない

 

ツィッター上では、日々最新情報が飛び交い

こちらからも気づいたことを発信している

そこには大変な緊迫感がある

ユーチューブやツィッター社による妨害も頻繁に起こる

そうした日々の動きに一喜一憂しながらも

徐々にトランプ大統領らによる「大革命」が成功しようとしていることに感動を覚える

 

願わくば、もっと多くの人たちとこの大変革を実感してもらいたい

せめて日本人の10%でも・・

 

 

 

 

冒頭の写真は、徳之島町花徳の黒畦という場所にある奇岩です

離れ島になっていますが、反対の岸も同様の地形になっていて

全体にポットホールがあいています

東海岸に多いメランジュ岩石もむき出しです

国内でもここでしか見られない奇岩・奇景だと思います。

世界自然遺産に登録された徳之島ですが、実はそれ以外にも珍しい風景が見られます

 

緊急事態宣言もマンボウも終了しました

偽物の「新型コロナ騒動」も終わりです

マスクやワクチンも

追って終了するでしょう

 

そろそろ旅をされてみてはいかがでしょう

 

10月からは全てが変わります

私たちは自分の「意志」を大事にし

自分らしく生きることです

幸せは自分でつかむもの

価値観をしっかりと自ら作り上げ

自分で考え、正しいと思ったことは実行する

自分の人生の全てを自分が決定して生きる

そういう生き方が重要になってくると思っています

 

 

久しぶりにブログを書いたら、止まらなくなりそうです

また折々書いてみます

(本当は昨日病的に眠かった話を書くつもりだったんだけどね

※画像貼り付けに失敗していたので、修正して再アップしました

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「新型コロナ」に一言

2020-09-29 20:59:16 | 日記

「新型コロナ」

皆さんは本当のところどう思っているんでしょう。

私の本音を言うと、全く問題視していません。

ところが、このことを言うとみな怪訝な顔をします。

なぜ怪訝な顔をするのでしょう。

 

新型コロナにかかって重病化したり、亡くなったりした人が周囲にいるでしょうか?

いないでしょう?

 

1~3月ごろは確かに危険でした。

武漢の様子を見聞きするにつれ、このウイルスはただ者ではない。

殺人兵器だと確信しました。

絶対に必要になると思いましたので

1月のうちに「防護服」と「ゴーグル」まで購入したほどです。

ところが5月頃から「?」と感じさせられる事例が

ちらほらと見受けられ始め

6月になると「何かおかしい」と思うようになりました。

 

もともと「武漢ウイルス」と呼んでいた頃は

殺人を目的とした「人工ウイルス」に間違いありませんでした。

武漢の火葬場が1箇所で数千人焼却した、との報告や

中華人民共和国全体で、携帯電話契約が2千万件減少した、といった情報は

「人類の危機」と言っても良い緊急事態であることを示していました。

 

しかし、「武漢人工ウイルス」は、

作られた当初こそ、インフルエンザ以上の感染力と

10%を超えるほどの重病化率と、3%近い致死率を誇りましたが

感染を繰り返すごとに劣化し、

今やよほどの接触感染でない限り、他人に移ることもありませんし、

感染したとしてもほとんど無症状です。


もともと日本国内の重症患者の半数以上は外国人でした。
(厚生労働省の発表では、国籍不明となってましたが)

死者の数も同様です。

それでも最近は、亡くなる人もすっかり減りました。

今では、亡くなった人のうち

新型コロナに感染していたことがわかった人は、

無理やり「新型コロナ死亡者」としてカウントしているくらいです。

 

参考までに言っておきますが、

毎年国内で病気や老衰で亡くなる人の数は140万人弱です。

毎月12万人近くが亡くなっている計算です。

この中には当然ながら新型コロナ感染者もいて、

それを新型コロナ死亡者としてカウントしているわけです。

ちなみに2018年度のインフルエンザによる国内死亡者数は、3325人です。

これは医師の診断書による、純粋にインフルエンザによる死者数です。

ところが、新型コロナの死者数は現時点で1548人です。

無理やりカウントした分も含めてです。

 

このように実際の数値や経緯をみていると

毎年流行するインフルエンザのほうがよほど恐ろしい。

実際、私も幾度か罹ったことがあります。

中でも20年前にインフルエンザになったとき

(このころはタミフルのような特効薬がなかった)

1ヶ月以上も味覚嗅覚がなくなり、腰がまっすぐ立たなくなったほどでした。

ところが現在の新型コロナはどうかというと、

風邪の症状(軽い熱程度)が一部の人に出る程度。

 

おかしな話だと思いませんか。

それなのに「新型コロナ」に対し異常な反応する世の中。

 

 

そこまでして「新型コロナは危険だ」とアピールするのは何故でしょう。

 

まずは、マスコミが毎日報道していることが原因でしょう。

そして、次は政府。

政府は単に人々の批判を怖れているのでしょうね。人気商売だから。

もう一つ、WHOあたりの「一儲けしよう」と企んでいる人たち。

世界的な製薬会社がワクチン開発を終えるまで、騒ぐ必要があるんでしょう。

彼らは、「安全宣言」なんか出たら商売チャンスを失いますから、

そのような動きを発見すれば、あらゆる手段を使って封じるはずです。

ワクチンが開発された段階で、ダンマリするのが目に見えるようです。

 


では、我々国民はなぜ騒ぐのでしょう。

むろんマスコミが盛んに「危険な新型コロナ」

を叫んでいることが大きいのですが、

データだけ見れば、なんら騒ぐ必要のない病氣であることは一目でわかります。

それでも、行楽地、遊園地などで

「危険ですね。施設を閉めましょう」

なんて言っている。

 

ぼんやりとそのようすを眺めていると、

どうやら彼らは病気が怖いのではなくて

新型コロナ対策をしないで感染者が出た場合、

世間の批判を浴びるのではないかと、

ひどく怖れているのがわかります。

彼らは決まって、

「何か言われたらどうする!風評被害を受けるんだぞ」といいます。

病気が怖いんじゃないんです。

口やかましい人たちが、非難してくるのが怖いんです。


これは、日本中がそうなんじゃないのかと思います。

実に情けない話です。

 

1月~3月のころは、

私は、早くみんなにも周知しなければと情報伝達に努めましたが、

「危険な状況だ」と強く主張するたびに呆れた顔をされました。

ニヤニヤされたり、ぼんやりとした反応が返ってきたものです。

「君は大げさだね」と言われたこともあります。

それでも2ヶ月にわたって周囲に注意喚起を呼びかけました。

もう少しで変人扱いされそうでした。

 

今度は逆です。

もう「終わった」のです。

そういうと今度は「なんて無責任なことを言うんだ」と批判されます。

嫌な顔や軽蔑した顔で見られることもあります。

人間関係が壊れてしまいそうなので、そこはバランスをとりますが

できるだけ私の意見が「常識」になるまで、発言は続けたいと思っています。

まあ、聞きはしませんがね。


それにしても、

ホテルが倒産しようと、商売人が苦しもうとどうなろうと

出張禁止、飲み会禁止、旅行者の流入禁止

馬鹿馬鹿しいことです。

どうしてこれほど人間というものは愚かしいのか、、

国から「安全宣言」が出されるまで、

意味もなく怖がり続けるつもりのようです。

「恐怖心」という感情が優先して、何も見えなくなってしまうのでしょう。

 

 

いずれ、日本国が滅びるとしたら、ここら辺が原因になりそうな気がします。

とにかくこの国は、議論が成立せず、理屈が通用しづらい体質を持っている。

より良い結論や考え方を得ようと思い、議論しようとしても、

反論を「批判」と受け止め、感情をこじらせる人がほとんどです。

 

 

強烈なほどの「同調圧力体質」。

       ⇔「異論」を言わない。疑問が湧かない。

お上の言う事を「上意下達」的に絶対視する。

       ⇔ 自分で考えない。疑問が湧かない。

「情」で動く。

       ⇔ 思い込みやすい。騙されやすい体質。日本は女性中心社会なのかもしれない。

「長いモノ(大勢)に巻かれる」ことを当然視する。

       ⇔「イジメ」もこれが大きな原因。同調圧力に弱い証拠。

 

 

一人の小さな意見でも

声に出して、

世の中に発信し続けなくては何も変わらない。

黙っていちゃ何も変わらない。

そう思いましたので、本日は小言を書きました。

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浮気性?

2020-08-10 00:03:24 | 日記

(秋利神ダム:本文トハナンノカカワリモアリマセヌ)  

 

私、最近不安なことがあります。
もしかすると、私は変なのかもしれません。
というのも
「浮気性」のようなのです。

これが男女関係だけではなく、車の好みだってそうです。
軽自動車も好きですし、スポーツ仕様の車も好きです。
貨物車タイプだって好きです。
全部、それぞれに良い特徴があって、
実際に乗ると気に入ってしまいます。

先ほど、「くるくる寿司」に行きましたが、
そこでも同じ寿司は2皿食べません。
必ず違うものにします。
「おいしい!」
と思っても、次は違うものを取ります。
他の料理でもそうです。
お気に入りの料理があっても、
やむを得ない事情のときでない限り、2回連続は食べません。


女性の好みもそうです。
いろいろと詭弁を弄して自分に弁解してみるのですが、
やはり不安が残ります。

やはり「いけないこと」なのではないだろうか、と。

たぶん「浮気性」な自分を楽しんでいるんです。
男性も女性も、いろんなタイプが好きなんです。

誤解を招きそうなので、断っておきますが、
ゲイとかオカマとかという意味ではありません。
基本的に「人間」が好きなんだと思います。

 

例えば男性の場合は、凝り性や変わり者が特に好きなようです。
話をすると実に面白い。
発想がユニークで、かつ物識りな人が多いです。

一方で、「知ったかぶり」をする人や「自慢」や「偉ぶる」人は
嫌いなので、すぐに離れるようにしています。
まあ、ほとんどの人はこういったタイプは嫌いでしょうけど。。
大体は、少し話をするとわかりますよね。
「あー、この人とは語り合えないな」と。


私、男性と話すときと同じように、女性とも話します。
じっと目を見ながら、
会話のキャッチボールを楽しみます。
じっと目を見るのは、
女性は、感情をこじらせるとややこしいので、
反応を観察するためです。

女性との会話は、基本的に「そうね」と同意するようにしていますが、
チャンスを観ては、からかいます。
そこで笑いが生まれれば、「よし!」と思います。
垣根が一つ取り外せたような気がして、そうせずにいられないのです。
そうやって反応を見て楽しみます。

 

生真面目な子、大変頭の回転のよい子、人生経験豊富な女性、
寡黙な人、おしゃべりで明るい人、研究者、などなど
いろんなタイプの人がいます。
そんな様々なタイプの女性を捕まえては、
仕事のこと、悩み事、人生観、男女(夫婦)関係、女性の本音
といったことを聞くのですが、
こちらが初めから胸襟を開くので
割合に皆スムーズに本音トークをしてくれます。
大いに笑い、時には感心したり、驚いたり、
その反応は本音ではないな、と感じたら、からかったりします。

 

女性との会話の場合、男性とは違った楽しさがあります。
独特の親密感とでもいいますか。
それだけに男と女ですから、
間違うとややこしいことになりかねませんので、
注意は必要です。
そのリスクはあるのですが、
人間と人間の間に垣根を作るのが嫌いなので、
とにかくいろんなタイプの女性との会話を楽しんでいます。
たまには「こりゃ、やばいかな」と思うこともありますが、
そこはそれ「自己責任」ということにしています。
幾度か覚悟が必要かな、と思ったこともありますが、
ま、幸い一度も「事故」は起きていません。

 

そういう感じで、どうも私には「好み」というものはないような気がします。
「この人と会話するのは、自分がさらけ出せて楽しいなあ」
と思う人には、どんどん気軽に話しかけます。
それで、相手が笑顔を見せてくれたら
それだけで、こちらも幸せな気分になります。

 

こんなことを女房に話したら、ひっぱたかれるかもしれません。
今のところ、女房には面白かった話はしますが、
他人を信用しないたちなので、他人に本音を見せるのを嫌いますので、
様子見程度の話で止めています。
夫婦というものは、一緒に暮らす関係上、
行きずりの会話のようなものができませんから、
実に難しい関係と言えます。

なぜ、他人同士のときには楽しく会話ができるのに
夫婦になるとそうはいかなくなるんでしょうね。
他人ではなくなるからでしょうか。

 

 

私みたいなタイプは、世の中そんなにはいないかもしれません。
変わり者のうちでしょうね。
本人としてはあんまり自覚症状はありませんが。。

 

私の人生哲学(ちと大げさかな)は

「人生は大いに楽しむべし」です。

何と言っても命は短いです。
オギャー、と生まれて死ぬまで、
私たちは、何をする為に生まれたのでしょうね。

「人生観」「真理」「哲学」「悟り」
こういったことを求めることができるのは人間だけです。
他の動物たちには与えられていない。

私たちは、苦しみ、病み、悩み、老い、死への怖れ
そんなことのために生きているわけではありません。

生まれるのは一度きり、死ぬのも一度きり、
人間という肉体を授かり、その肉体を使って、短いながらも生きることができる。
そして大いにその生を活かす。
それだけ。

では、どうすれば生を活かすことができるか。
それには、「自他の区別」をなくすこと。

そのためにすべき第一は、自分へのこだわりをなくすこと。

すべての苦しみ、怒り、病気(先天性等自然のものを除く)
といった不調和は、ほとんどが自己へのこだわりや我が侭が原因です。

「自分」にこだわり続ける限り、
宇宙全体の波動と自分の小宇宙との調和は不可能です。

古来から良い生き方をしたかったら
「公を最大とし、私を最小とする」
ことと言われています。
「自利利他」
ともいいます。

「自利」がなくなれば、あとは他者の利があるのみです。
当然、他者と自分との境も漠然としたものとなります。
すると楽しいと感じたかったら、他者を楽しませるに限るわけです。
実は、そこにこそ本物の幸せがあるように思います。


もっとも、相手が「我利我利」ではこの気持ちを味わうことができません。
ですから、そのような相手は避けるようにします。
「我利我利」の方の顔を見てみてください。
苦しそうで、不満だらけな顔をしているでしょう?
残念ながら多くの場合、「我利我利」に凝り固まった人には、
「利他」といった考え方は理解できないように思います。
できるだけ近寄らないほうが良いでしょう。

また、数は少ないですが、
なんでも他人のせい、社会のせいにする「ひねくれ者」もいます。
いわゆる「人でなし」もいます。
そういった人たちも相手にしないことです。

 

私たちの身体自体が「宇宙」です。
夜空に星々が瞬いている広大な空間も「宇宙」です。
同じものです。
あるのは波動と調和だけではないでしょうか。
そこに不協和音を起こすのが私たちの「欲」です。

「虚」と「実」もないかもしれません。

あるいは「時」も不確かです。

「過去」はあるようであり、無いようであり、
「未来」もあるようであり、無いようでもある。
唯一、車窓の風景のように「今」だけが存在している。
しかし、それは虹のようにつかみどころがない。

そういう感覚です。

私自身は、「過去も現在も未来も同時にある」と考えています。
亡くなったご先祖たちは、みなそれぞれの時代を私の今と同時進行で生きている、
そんな気がするのです。
私の過去だってそうです。20歳のときの私は、今20歳を生きている。
そう思います。


自分の欲から離れると、そこには明るい世界が広がっています。
周囲を暗くしていたのも自分だったと気づきます。

あるままに観て、受け止める。
それ以上、そこに自分のフィルターを入れない。
そうすれば、無用な怒りや怖れ、悩みといったものは生まれません。
ただただ、元気よく、明るく、ポジティブに生きればいい。
周囲の人たちから暗い影を取り払い、すべて明るい気で満たすことができれば、
最高の人生と言える。
そのように思います。

 

 

それとこれとテーマの「浮気性」が何の関係があると言うのじゃ!
と怒られそうですが、
上の人生観が強まるにつれて、「浮気性」的症状が強まってきているのは事実のようで、、、
いったい、これはどう考えればよいのやら。。
人生観としては、正しいと思うのですが、現実の行動がどうも問題があるようです。

困ったものです。

 

 

途中で、内容ががらりと変わったにもかかわらず、ここまで読んでくれた貴方。すごいです。

ついでに、下のバナーまで押してくれたら、と欲張るのは「我利我利亡者」と呼ばれても仕方がないかもしれません。

 

お口直しに「亀津の海」を御覧ください。

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いやーな予感

2020-08-03 21:24:24 | 日記

私の住む徳之島はここ数日靄がかかって視界不良です。

「さあ夏だ。青と緑の徳之島を撮りまくるぞ。」

と思ったら、いきなりこれです。

なんでも気象庁でも原因がわからないそうです。

 

原因不明の霧で視界低下 奄美群島で広く発生か」(南海日日新聞)

https://news.yahoo.co.jp/articles/1d445148a87218743a92c064b1cefac8b4f7c0be

 

ところが、急に視界が悪くなった7月30日。

(実はその少し前からなんとなくモヤモヤとした空気ではありましたが、30日の煙り方は飛行機が欠航したほどでした)

なんと、小笠原近くの西之島が大噴火したというではないですか。

しかもその後も噴火し続けているらしいです。

https://www.youtube.com/watch?v=7xSzVm1SY5M  ※これ必見です。

(画像は海上保安庁撮影)

この噴煙が微粒子となって、高気圧の縁に沿って奄美諸島一帯に流れ込んでいる可能性は大だと思います。


(本日の風の流れ「Windyから」)


木曜日か金曜日辺りには、気圧配置が変わりそうなので、

もしその時にこのモヤが消えたなら、

ほぼ間違い無く、このモヤは西之島の噴煙だったということです。

 

奄美諸島から西之島まで約1500キロは離れているでしょうか。

もし、この靄が西之島の噴火を原因とするものならすごいことです。

 

ところで、

リンク先の西之島噴火の動画を見ればわかりますが、

この噴火の仕方はかなり「異常」です。

普通の噴火は、ドカーンと上がったらしばらくプスプス噴火するものの、それっきりです。

ところが西之島の噴火は、爆発し続けているという感じです。

 

小笠原は本土から遠いから、特に関係ないと思うかもしれませんが、

富士山だって同じフィリピン海プレートにあります。

西之島のような噴火が

どこか陸地、あるいは近海で起きる可能性は十分考えられます。

 

「近年、フィリピン海プレートの動きが活発化している」

との指摘がされています。

 

例えば、2019年1月7日にはインドネシアでマグニチュード7.0、

2019年12月15日にはフィリピンで同6.8という大地震が起きています。

最近、日本でも6月に浅間山周辺で群発地震がしつこく続きましたし、

岐阜長野県境でも地鳴りや群発地震が続きました。

同じ6月に、三浦半島一帯で「ゴムか何かが焼けたような」、

「にんにくのような」臭いが広がって、話題となっていました。

その2週間ほど前には、東京湾の深さ20kmほどで1日に6回も地震が起きています。

千葉や茨城などでも大きめの地震が続けざまに起きています。

また沖縄近海、中でも与那国島周辺(かつて「明和の大津波」が起きた)では、

かなり規模の大きい地震が複数回起きていて、

その頻度は近年になく増えているようです。

 

2ヶ月ほど前ですが、立命館大学環太平洋文明研究センターの高橋学特任教授が、

ここ数年のうちに「首都直下」あるいは「南海トラフ」

あるいはこれらが合わさった巨大地震が起きると予想しています。

 

土木学会(JSCE)の試算では、この一体型の巨大地震が起きた場合、

最大1410兆円の被害が想定されているようです。

日本のGDPの約3倍です。

自然の力は強烈で圧倒的です。

 


そんなことも必ず起こるのだと、心の片隅に置きながら、

我々は、それでもポジティブに毎日を暮らしているわけです。

「命短し、恋せよ乙女」であります。

(この無常観溢れたセリフ、もしかすると日本人にしか通用しない表現かもしれません。)

 

日本に生まれて、日本で生きる。

それは必然的に

自然に対する「人間の無力」感を味わうことを意味し、

一方で自然から、「四季の美しさ」や「癒し」、「恵み」や「感謝」を受け取る。

日本人が根っこに持つ「やさしさ」は、ここから生み出されるんでしょうね。

 

 

いささか支離滅裂ではありますが、

本日仕事中に、煙る亀津の町の風景を眺めながら、ふと不安になりましたので、

ブログに記録しておきます。

 

最後にさわやかな画像を貼っておきますね。

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夏真っ盛りの徳之島

2020-07-30 23:03:32 | 日記

(写真 金見)

 

なんと8ヶ月ぶりのブログアップ。

どどーんと、今回は夏真っ盛りの徳之島を写真で紹介(というほどでもないか)。

7月、長かった梅雨明けを待って(今年は異常気象だった。。)

「マービックミニ」というトイドローンを使って、

島内の海岸を中心に幾度か撮影をしてみました。

 

このトイドローンは、本体価格4万と言う低価格なのに、

ジンバル機能もついて美しい動画が撮れます。

「お値段以上」です。

ここに載せている写真は、

動画撮影したものを切り取って使っていますが、十分に美しい。

一個人が、このような空からの画像を撮れるなんて夢のようです。

 

ちょっと前までは、個人でセスナ機を持っているか、

何かの事業のついででなければ「空撮」なんて不可能でした。

 

ドローンで見る徳之島は、ずっと住んでいる島なのに、初めて見る風景ばかりです。

(よく発達したサンゴ礁)

 

かなり以前から、この美しい海を目指してダイバーたちが徳之島にやってきます。

リピーターが多いと聞きます。

私なぞ、このドローン映像を見て(自分で撮っておいて言うのもなんだが)

なるほど魅力的な海だ、と合点しました。

それほど、島の人はこの海に無頓着なんです。


このほか、1月から3月には、鯨ウォッチャーも数多く訪れます。

なんでもこの近辺の海は、特に鯨がよく見られる注目の海域なのだそうです。

しかも一緒に泳いだり、タッチしたりできるのだとか。

 

今年の2月など、私の職場からはほぼ毎日、

それも複数回鯨を見ることができましたから、

「ふーん、今日も鯨が泳いでいるな」と

自分が観て楽しむだけで、

まさか鯨ウォッチングが特別なことだとは思いもしませんでした。

 

また、先日はこんなこともありました。

ドローンを手に手々海岸(徳之島北部)に出かけたとき、

観光客が浜からやってきて、

「今もぐってきた!沖に向かって遠浅になっていて最高だった!カメもいたし、海蛇も見れた。」

と嬉しそうに報告してくれました。

彼は、とても海をもぐるような格好ではなかったのですが、

シュノーケルと水中眼鏡だけは持っていたのでしょう。

もしかすると我慢できずに飛び込んだのかもしれません。

 

たしかにサンゴ礁の入り江状になった箇所などは波もなく、

数メートル下の海底に光が注いでいる様子を見ていると、

海に飛び込みたい!という誘惑に襲われ、むずむずします。


そういう場所は、絶好の釣りのポイントでもあります。

よくブダイなどの大物も釣れます。

 

大潮になると、海に隠れているかなり沖合いのリーフにまで足を伸ばせます。

そんな日は、釣をする人、

貝やその他の生き物を採集する人達が(じいちゃん、ばあちゃんが多い)

広いリーフ内に点在しているのが見られます。

 

大概の人は、漁をするためのチェックポイントが決まっています。

リーフの入り江や窪みには、一つ一つ名前がついていて

それで漁をする人たちは、話が通じるそうです。


島に住んでいるものにしか味わうことができない楽しみです。

島人だけが、豊かな自然の恵みを受けられるわけです。

地元にいると、当たり前のことですが、

実際は、なんとも贅沢なことです。

(花崗岩の海岸線)

 

奄美群島内でも特に徳之島は、島の規模も大きく、

海岸せんにはリーフがよく発達し、

北部は花崗岩がむき出しとなった奇岩群があり、

井之川岳、天城岳、犬田布岳という3つの高い山を持つ、

など自然がバラエティに富んでいて、見る者をあきさせません。

このため地質や生き物を研究する

幾人もの学者さんたちが、徳之島に移住されています。

 

最近は、テレビ朝日のスペシャル番組で

徳之島空港脇の海中洞穴から古代の土器が発見される様子が放送されたように、

数万年前から人類が住み着いていたことがわかっていて、

たいへん古い歴史を持つ島でもあります。

 

私もいろんな分野の方々と付き合いがありますので、

歴史のことなどを自分でも調べたり、まとめたりすることがありますが、

実に謎深き島と言えると思います。


何もかもが「ごちゃ混ぜの島」ともいえます。


その何でもありの多様性こそが

この島の魅力であると言えるかもしれません。

 

 

また、折々この島の魅力を紹介してみたいと思います。

それではおやすみなさい。

 

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嫌いなこと

2019-12-09 17:32:54 | 日記

ツィッターばかりやって、ブログの更新ができません。

なんだか人格まで変わってしまいそうです。

珍しくブログをアップしたと思ったら、メソメソしています。

こりゃ、今回は駄文だからなるべく読まないほうがいいかもしれません。

私の気持ちを整理するために私のために書いたものです。

不愉快な気持ちになるやもしれませんので、

もしうっかり読んでしまった方は、

無理を承知で「読まなかった」ことにしてくださいね。。

 

 

以前、

歳をとったせいか悩み事がありません、

と書きました。

確かに「悩み事」はほとんどないのですが、

どうも「嫌いなこと」があることがわかりました。

 

世の中では、近々「クリスマス」という行事があります。

毎年なぜか12月になると気分が暗くなるんですが、

どうもこのクリスマスが嫌いなようです。

理由があるに違いないと探してみるのですが、

子供の頃からの記憶をたどってみても

トラウマになるような経験はありません。

嫌々ながらもごく普通のクリスマスを毎年過ごしてきました。

 

では、何が嫌にさせるのかと考えてみましたが、

よくわかりません。

ただし、子供の頃からあまり好きではなかったような気がします。

もちろんサンタのプレゼントは好きでしたが。

 

いろいろわが身を振り返ってみますと、

どうやら、皆でお祝いをしたり、

儀式を行ったりするのが嫌いなようです。

クリスマスの後に続く「お正月」はもっと嫌いです。

このほか「卒業式」、「入学式」、「体育」や「体育祭」、

「お盆と盆踊り」、「町の祭り」、ありとあらゆる「式典」、

「講演会」、大人数の「飲み会」など。

でも不思議なことですが

「学芸会(文化祭)」と「遠足(修学旅行)」は嫌じゃないようです。

 

こうやって書き出して見ると、共通点があります。

「参加させられている」

ものばかりです。

ちなみに小人数の「飲み会」は大好きです。

「参加している」感があるからでしょうか。

 

もちろん、これらの行事が無くなればいい、

と思っているわけではありません。

好きな人は大いにやって結構なのです。

ただ参加は願い下げなんです。

 

ちなみにこれらの行事を「取材」するのも嫌いです。

そういう依頼があると私、大変不機嫌になります。

自分でも困ったものだと思いますが、

心の底から「拒否」してしまいます。

 

でも世の中、これらの行事は「拒否」を赦しません。

数日前から鬱々とした気持ちに襲われた挙句、

身体を引きずるようにして参加せざるを得ないわけです。

何とか自分なりに楽しい気持ちを作ろうと頑張るわけですが、

泣きそうになります。

飛び出していきたくなります。

 

今ふと、

小学生の頃、運動会で全体踊りがあって、

ウデをフリフリしながら、

「何で僕は腕をこのようにフリフリしているのだろう」

と考えていたことを思い出しました。

一々こんな感じです。

ですから一つも楽しくありません。

 

唐突ですが、

実は、西郷隆盛さんも似たところがあったようです。

人間が大好きなのに、

徳之島に流罪で滞在している期間、

どんなに普段親しくしている人からの誘いであっても、

祭りなど人が集まる席には参加しなかったそうです。

「楽しい祭りなのにどうしてあんなに嫌がるのだろう」

と島の人たちは不思議がったという記録があります。

 

幕末に奄美の民俗をたくさん書き残し、

島の人たちと大いに親交を深めた名越左源太という人も

祭に参加しようとはしなかったといいます。

他にも意外といるのかもしれません。

 

私だけではない、

というのは心強いのですが、

だからと言って行事を拒否することもできません。

ほんの少しでも顔を出して、

逃げ出すほかないわけです。

時には、完全に自己喪失状態を作って参加することもあります。

もともと自分がどこにあるのかわからないような男ですから、

周りの人は全く気が付かないようです。

 

面倒クサイ奴だな、と思う人は幸いな方です。

「世の中の不幸は、すべて自分の欲望やこだわりから生まれる」

ことは十分承知していますが、

この拒否反応だけはどうにもコントロールができません。

よく周囲の人から呆れた顔をされます。

それでも本当に何とかならないものだろうか、

と私は真剣なのです。

 

元来の物ぐさ者なので、それも原因の一つなのでしょう。

だからと言って、

世の中のかかわりから離れて隠遁生活するのも嫌です。

私、人と話しをしたりお付き合いをしたりするのは好きなので。

とてもじゃないがそんな生活はできません。

我が侭なんでしょうか。

淡白なところは自他共に認めるところではありますが。。

 

世の中には「行事好き」な人も多くて、

やたらと「行事」を作りたがります。

とても良いことをしたと思っているようです。

このため

世の中に「行事」が減ることも、無くなることもありません。

でも私は、この「行事」のことを考えると気が滅入ってしまうのです。

 

何はともあれ、嫌でも「行事」はやってきます。

当面、クリスマスと正月を「淡々と」乗り切ることにしましょう。

その後のことは、その後のこと。

始まる寸前まで忘れているしかなさそうです。

 

とりあえず

「強制された、主体性の持てない『行事』」

という意識が、私の中にあるのはわかりました。

 

そういえば私(またも唐突)、

仕事などで他人に「強制」したことがありません。

激しく「協議」はしますが、「強制」はしません。

これは、私が本能的に嫌いなことだったようです。

「強制」できないのは私の弱点だと思っていたのですが、

こりゃあ、直すのはとてもじゃないが無理ということでしょう。

それにしたって、世の中を生きる限りは「行事」があるわけで。

何か良い方法があったらいいのだけど。

 

 

本日は、愚痴ってばかりのお恥ずかしい話で失礼しました。

 

「何言ってんの。俺だってそうだよ。」

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「礼」

2019-10-19 13:44:25 | 日記

 

今日は「礼」について

ちと最近感じるものがあるので書いておきます。

「礼」などというと

とても高尚なことのように思うかもしれないですが、

これは私が日常経験する中で感じたことだから、

全く世俗的なものです。悪しからず。

 

 

私は、元来「礼」という言葉が嫌いで、

「形にこだわってどうするんだ。こんなもの格好つけのくそったれだ」

と思っていました。というか今も思っているかも。。

 

私が感じる人間の持つべきもっとも大事な態度は、

論語で言えば「仁」、

仏教的には「慈愛」

の心であると思っています。

そこには「分け隔て」る感覚はありませんし、

人間というものは

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、

「天の下に平等」

な存在であると確信しています。

 

社会にはさまざまな組織があります。

組織内には、ヒラにはヒラに課された仕事があり、

係長には係長の、課長には課長の、

社長や町長にはその役割があるわけです。

いずれの場合も一生懸命やらなければいけない。

言うなればその役職は、「業務分掌」としてのものです。

係や係長は事務に遺漏があってはならないし、

その分野のスペシャリストでなければならない。

課長は課内の事務が滞りなく進んでいるか、

トラブルは起きていないか、

職員がストレスに苦しんでいないか、

そんなことを観て全体をマネージメントする。

社長や町長は、細かな仕事など知らないし、できなくても良い。

各事業の大まかな進捗状況さえわかっていればそれで良い。

組織全体が明るく元気であるように心がけ、

社内にトラブルがあれば情報を共有してやり、

組織の長として折にふれ職員に声かけをする。

組織として将来あるべき姿を示すのも重要な仕事です。

 

よって組織の長は、

最も「人徳」が求められる職務であると言えます。

「決してエリート社員を社長に任じることがあってはいけない」

と言われるのもこのためです。

求められるのは全体をまとめる「徳」であって、

誰よりも仕事ができる、ことではないわけです。

このように仕事や役職に上下はなく、

単に任せられた仕事内容が違うだけのことです。

いずれの職務にしろ一生懸命やれば、それで合格点なわけで、

特段偉いわけでもないし、

ヒラだからと畏まりすぎる必要もない。

これを誤解して

「俺は管理職だから偉いのだ」

と思う「小人」が多いので困るわけです。

「どこが偉いのだ。その職分をしっかり果たしている顔か鏡をよっく見てみやがれ。」

と言いたくなってしまう。

 

さてと、ちょっと熱くなってしまいましたが、

然し、こういった人たちがいることも現実です。

私の場合、地位的にどんな偉い方であろうと、

どんなに貧しい生活をしていようと

「いろんなことに興味を持って、生き生きと暮らしている人」

であれば、一切の区別はありません。

一方で

「マウンティングしようとする人」

「人を利用しようとする人」

「上に媚、下を侮蔑する人」

は大っ嫌いです。

「そんな人いるの?」

と思った人は、それだけで十分恵まれていると思います。

悲しいことですが、意外なほどいるものです。

そんな人に会った時は、通常その場をすぐに立ち去るのですが、

そうできない場合は、

「そのひん曲がった根性を叩き直してやりたい」

と思いながら会話してしまうので、

冷たい目を向け、やや険が立ってしまいがちです。

 

それはそうとして、

社会の中には「自己に対する敬意」

を求めてくる者も少なからずいるわけで、

どうもこういった人たちと私は、人間関係がうまく行かないようです。

相手にとっても、その私の表情が気に食わないんだろうと思います。

価値観の相違といいますか、

「幸せ」の求め方が違うと言いますか、、

 

私の仕事の仕方は

「誰のためにやるのか」、

そして

「その目的を知り、最大限の効果を提供する」こと。

そこに関わる人たちの人間関係を円滑にし、

胸襟を開いて(オープンな環境で)、

共に造る感覚を大事にします。

それ以外のことは瑣末な問題に見えるのです。

 

ところが、私にとって

「小さな取るに足らない」ようなことでも、

拘られて困ることがままあります。

そんな時は謝った上ですぐに忘れるようにするんですが、

どうもそこに「不遜さ」があるらしいんです。

もっとも一番の「不遜さ」は、

普段から相手の役職に対する「礼儀」が

不足していることに問題があるようなのです。

ほとんどのいわゆる「偉い方」とは大変円滑に関係を保てるんですが、

どうも封建的といいますか、

「礼儀」を重視する方はやはりおられます。

どうも表情にそのような「不愉快さ」が表れる人はいますので、

「こりゃ、悪かったかな」

と時々思うわけです。

 

 孔子は

「人にして仁ならずんば礼を如何。人にして仁ならずんば楽を如何」

というように「仁」(博く人を愛し慈しむ心)を

人間としての最高の徳と見なしているにも関わらず、

一方で「礼」の重要性も説いています。

「礼」というのは「謙虚さを現す形」と理解していますが、

これが社会においては必要だと説いているのです。

 

この「礼」を

私、だいぶ疎かにしていたのかもしれません。

「己は無であり、他者あってこその己」

という意識が強く、

自らの欲や拘りからはだいぶ解放されましたが、

それだけではいけないようで、

不本意ながら、

「不遜」とか「軽視」「上から目線」と誤解されたのでは、

これまた無用の長物。

こんな誤解はないほうがよい。

 

 「不遜」という言葉が度々出てますが、

「奢れば即ち不遜」

というように「不遜」とは「贅沢をし傲慢になること」を指すようです。

私にはまるでそのような「不遜」な気持ちはまるでないつもりです。

が、

よっく自分を省みて見ると、どこかしらで

「何でそんな小さなことに拘るのか」、

「もしかして偉そうにしたいタイプ?」

なんて咄嗟に思っているかもしれません。

どうも世の中のすべてのトラブルは

人間関係から生まれますので、

これからはもっと謙虚に生きるよう、心がける必要がありそうです。

何せ組織の中にいて仕事を任されている以上、

これをやり遂げることが第一要件となります。

喧嘩するのは簡単ですが、

それでチングァラ(島口:ご破算)になっても困ります。

 

 「智に働けば角が立つ。

 情に竿さば流される。

 意地を通せば窮屈だ。

 兎角に人の世は住みにくい。」

いやまさにこの通り。こんなことを言うところを見ると

夏目漱石もだいぶ人間関係に苦しんだんでしょう。

それでも

「人や人んな(ちゅやちゅんな:人は人の中)」

でしか生きられませんから、

人間である以上「無人島の一人暮らし」をするわけにもいきません。

 

ここはひとつ「謙虚さ」も身につける必要がありそうです。

この歳になって、こんなことを言うのもお恥ずかしい限りではあります。

でもどうすればよいのやら。

 

演技派じゃないもの。

相手によっては「かしこまった顔」をしなくちゃいけません。

軽口なんかたたいちゃいけません。

でも、もう歳取ってくると誰を見てもつい軽口を言ってしまうんです。

よく若い人が

「年寄りの決め付け」

「年寄りの暴言」

なんてこと言いますが、すでにかなり仲間入りしています。

うーん。どうしよう。

 

 論語に

「子、大廟(たいびょう)に入りて事ごとに問う。或る人の曰く、孰(たれ)かすう人の子を礼を知ると謂うや。大廟に入りて事ごとに問う。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」

(孔子が周公の墓所に行った際に式の仕方について一つ一つ尋ねた。すると、『誰だあの田舎者が礼に詳しいといっていたやつは。何も知らないではないか』と陰口を言われた。孔子はこれを聞いて『このように慎むことも礼ですよ』と答えた。)

とあります。

普段から「仁」こそ最も大事といい続けた孔子ですが、

やはり人間関係には「礼」が大事なようです。

 「慎み深く人に接する」

実は、生まれてこの方こんな生き方をしたことがありません。

今からでもできるようになるんでしょうか。

 

もし、「慎み深く人に接する」私になれたとしても、

周囲の人たちから「気持ち悪い」と言われそうです。

 

 今、煩悶しています。 

 

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人生論

2019-10-08 15:17:06 | 日記

今回のテーマは「人生論」です。

最近、ストレスを抱えて元気がなくなっている人を見かけます。

人間、「おぎゃー」と生まれたからには

くよくよ、すねすね、めそめそしながら生きてもつまらない。

そんなことのために生まれたんじゃないでしょ。

大いにやりたいことをやり、

「あー楽しかった」

と言って人生終わりたいものです。

 

今回は「人生論」。

大げさな題だけど

これは、備忘録として書くものだから、

「そりゃ違うんじゃない?」

と思っても、ご容赦のほどを

宜敷奉願上候(よろしくねがいあげたてまつりそうろう)

なのだ。

 

 

私、いつも思っていることがあります。

ちょっと下に並べてみます。

 

〇 世の中に難しいことなどそんなにあるもんじゃない。

あるとすれば「感情」だ。

ところが、この「感情」を発動させることに躊躇ない者がいる。

彼(女)らはその怖さがわかっていない。

何もかも打ち壊してしまうだけだが、感情の発動を立派なことだと思っているらしい。

そうなったら、ほっておくしかない。

感情から冷静さは生まれない。

 

〇人生のあらゆる場面で「普遍的」で「本質的」なものをイメージして

判断の基準とする。

 

〇「自分のために生きるのをやめよ」

 「名誉欲」や「恐怖心」、「怒り」、「苦しみ」といった

人生を台無しにする「感情」が生まれるのは、

「自分のために生きている」からである。

 

〇「誰かのせいにしているのではないか」

「誰かに何かをしてもらおうと思っているのではないか」

良い人生を歩みたかったら、

他者のために何ができるか、だけを考える。

これを習慣付ける。

 

〇「積極的に生きよ」

わずかでも消極的な考えが浮かびそうになったら、

「ショ」のところで考えをとめ、

「積極的な言葉」に置き換えること。

そして「仁」の心でもって「明るく」「朗らか」あろうとすること。

人生を最高に生きたかったら、これ以外はいらない。

 

〇無限にある「気」を取り込む。

それをしないでいたら抜け殻みたいになってしまう。

 

〇寝付く前の10分間のすごし方次第で、充実した人生が送れるかどうかが決まる。

「良い言葉」のシャワーを浴びて寝よう。

 

〇人にはそれぞれ役割がある。

天命かもしれないし、義務かもしれない。

そこで自分以外の人のために精一杯やる。

そこに自分の幸せや充実感がある。

 

〇人は「気(ブリル)」で動いている。

その「気」を取り込まないと体は動かない。

「気」の供給が止まるとたちまち体は活動を停止する。

ロボットは、電気が止まれば停止するだけで済むが、

人間は、体を構成する物質間の結合が解かれ、塵となる。

 

〇人間の体は、

宇宙空間のように素粒子とその空間だけでできていて、

まさにスッカスカ。

我々は、そのスッカスカの空間によって構成されている。

本当ならば、

人と人は、ぶつからずにすれ違うことも可能なはずだ。

ミクロの世界においては、

肉体とその周囲の空間との境目など、ないに等しい。

私と貴方の間には空気が存在しているが、

そこに境目はないはずだ。

ただ物質の集合密度がやや高いだけ。

でも、私たちは固体ごとに別の存在だと思っている。

とんだ勘違いをしているのではないだろうか。

 

〇個性は、素粒子集合体の構造に若干の違いがあって、そこから生じるもの。

考えは、環境や学習によって培われた経験をもとに作られるもの。

まさにAIそのもの。

AIも育った環境で、一つ一つがまるで違う考え方をするらしい。

人間もAIも電気が止まれば、それまでの存在。

人間もその電気をどこからか取り込んで生きている。

だから体からオーラが出ている。

このオーラが出なくなると死期が近いという。

逆に普段からちゃんと「気」を取り込んでいれば、寿命は全うできる。

 

〇「生きようとする意志」はどこから来る?

→それが「宇宙の本質」だから。「宇宙」は未来に向かってのみ常に前進しようとする。

 

〇この宇宙には「始まり」も「終わり」もない。

この大原則は、

時間軸としての「現在」・「過去」・「未来」が同時に存在することを意味する。

つまり、聖徳太子も平清盛も織田信長も自分のご先祖たちも、

実は「今」を今も生きている。

「今」同時に悩み、戦い、将来を描いている。

 このように考えると、

「私」は昭和35年に生まれて、これから何年後かに死ぬわけですが、

この時代を無限ループで、繰り返して生きることになるのだろう。

子供の頃、そんな気がしたことを思い出す。

ただし、固定された出来事を繰り返すのではなく、

その時その時の判断は、周囲の条件が変わることで変わるので、

人生そのものが今回とは全然違うものになる。

単なる無限ループではない。

 

人生を最高に味わうコツは、

「積極的に生き、

他者の笑顔を吾が幸せとし、

どんなことにも興味を持って生きる」

に限るわけだが、

この真理を再び捜し求めて、

またチルチルミチルの旅を始めることになるわけです。

いつ終わるの?

なんて野暮なことです。

今もそうであるように、

未来に予測はつかず、

人生は常に新鮮であり続けるのです。

 

 

宇宙に時間の概念はなく、光の速度も決まっておらず、

「あるとも、ないとも」わからない世界です。

もしかすると、人類はこの謎を追い続けるために

存在しているのかもしれません。

 

 

 

 

定年も近くなり、ボーっとすることも増えました。

というか、あまり悩み事がありません。

そのせいか、なんだか「心」の方は

年をとるごとに健康になってきたように思います。

もちろんそれだけ長く生きてきたということ。

人生を長い時間軸で見ることができるようになると、

人生観もだんだん単純化されてきます。

そんなに難しいものでもなさそうです。

要は明るく、積極的に生きるということ。

そんなことがわかってきます。

その分、年を重ねたせいで

肉体自体はあちらこちらと劣化が見られますけど。

 

まあ、それが動物の一生だからと、と割り切れるわけですが

できるだけ、生きてる間は存分に生を楽しみたい、と思います。

そのためにもそろそろ真面目に

「肉体の健康」についても考えてあげようかな。

 

運動は苦手なので、呼吸法とか・・

(甘い!)

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