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「本能」は抑制すべきものではない

2019-01-05 15:52:17 | 日記

◎「本能」ってどんなものがある?

「食欲」「眠欲」「性欲」

この三つだけ。いずれも生存に欠かせないものだ。

でも、「過ぎる』のは本能ではない。それはただの欲望だ。


では「欲望」には、とんなものがある?

「防御本能」「物欲」「独占欲」「名誉欲」「知識欲」「支配欲」「虚栄心」・・・

これらの「欲望」は、まったく別物の「本能としての欲望」とよく混同される。


例えば

「防御本能」はどうか。

「支配欲」なんてものもあるが、

これは「防御本能」と表裏をなす同一物だ。

守りたいから攻める。

あるいは、命や財産を奪われはしないかという「恐怖心」から逃れるために攻める。

そもそも守るものなどない者に敵は必要ないし、攻める必要性もない。

支配する必要もない。


「物欲」はどうか。

これは「色欲」の類で、「もっと欲しい」という欲望だ。

「独占欲」も「物欲」に近いものだ。

代表的なものに「愛」がある。

多分「吾意(あい)」と書くのが本当だろう。

 

独占したいという気持ちは、非常な苦しみを生む。

「大悪」の一つといっていいだろう。

「手放すことで人は幸せになれる」とよく言われるが、

その真逆がこれだ。

優しさや慈しみとは違う

「吾意(あい)」のみの感情で、

相手のことなど考えない。

好意を持った相手の幸せを願わないで、

自分の欲のみを願う「独占欲」の代表例だろう。


それらに共通する点として、

考え方次第でコントロールできるということがある。

 

そもそも「本能」とは、

生物が生存するために最優先されねばならないもの、

としてDNAに組み込まれているもので、

心も体もこれには屈服するしかないように出来ている。

その次のステージとして「所有欲」が存在する。

これは固体が生き残るに必要な量を超えて欲する部分。

 

「本能」は、

固体を維持するために絶対必要なもの。

それ以外は「欲張り」で、

「道徳観」や「思慮」といった精神によって抑えることが可能な部分だ。

ここらへんの区別はしっかりとつけておかねばならない。

 

「欲」がいけないといって

「本能」まで抑制しようとすると、

精神障害を起こしてしまう。

我々は動物だ。

「本能」は満たしてあげないと、変人・奇人になってしまう。

幸せな人生も得られない。

世の中には宗教やその類の教えで「本能」を否定するものが多い。

これによる犠牲者(不幸者)はおびただしい数に上る。

我々は99%他の動物たちと同一のDNA

を持った生き物であることを自覚するべきだろう。

「本能」は生きるうえで必要なものなのだから。

 

 

ところで、我々の本質は、この肉体にはない。

預かりものだ。

この肉体のおかげで考えたり、

動いたりすることが出来る。

ただし有限なもので、

死ぬまでの間しか活用できない。

 

人は脳が発達するにつれて

5,6歳くらいになると何となく自我らしいものを意識し始める。

逆に晩年になるとその意識も徐々に薄れ始め、

あるときスッと消える。

肉体は塵に戻る。

それでも本質の私たちが消えるわけではない。

 

「悉皆成仏」という悟りの境地があるが、

幸い我々は他の動物と違って、考える力を与えられている。

しっかりと自分に向き合うことで、

生きながらにして「仏の世界」を感じ取ることが出来る。

この仏の世界こそ「本質の自分」である。

 

肉体に心が存在すると思い違いしがちだが、

肉体には何もない。

あるのは本能と欲望と、少しばかりの知能があるだけだ。

 

 

実は、仏の世界を感じ取ることは誰でも出来る。

仏の心とは

「絶対的感動』や「慈しむ心」といった

「対極の価値」を持たないものだ。

これらは波動のようなもので、

宇宙全体を包む波といってもいいかもしれない。

この波長にピタリと同調したときに

全身に痺れるような共鳴が起こる。

それこそが仏の世界だ。

 

宇宙はすべてが調和している。

不協和音を好まない。

この宇宙の調和は

よく美しい音楽に触れたときに感じることが出来る。

孔子が

「『韶(しょう)』を聞く。三月肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽の為ること、斯(ここ)に至らんとは」

と音楽の境地を絶賛し、

そこに自分の理想世界がある、

としたのもこのことを指しているのだろうと思う。

 

我々は、この大宇宙の波動に

自分が使っている肉体を

同調させる必要がある。

我=肉体ではない。

そんなものに囚われて入ると、

本当の自分の姿が見えなくなる。

 

実のところ、

「私」は、あなたの身体でもよいし、ほかの誰かでもよい。

ただ宿る先が違っただけのことだ。

それほど、個々の身体に拘る理由などないのだ。

それを多くの人は

自分の身体に拘るものだから

そこから生まれる肉体固有の心に振り回されて、

それを我が心だと思い込み、

深刻になったり、手柄を立てたと喜んだり、

他の固体と比較して劣るだの、優れているだの

と騒いでいる。

そんなもの、死んでしまえば消えることだ。

 

あるいは、

「恐怖心」から殻に閉じこもるものも入る。

 「恐怖心」はどこから生じる?

自分自身だと思っている身体

(分子(塵)の集合体たる肉体)

から生まれることは、すぐわかるだろう。

それは、その肉体がもつ防衛性、消極性が生み出すものだ。

だが、その肉体は一時的な借り物、預かり物だ。

自分の本体はそこにはいない。

身体は、使うものだ。

自分本体がその身体に使われてどうするのだ。

よく自分自身を観察して欲しい。

どこに「自分」なるものがいるのか。

 

 

 

なんだかなあ。

実は、ベランダで喫煙していたら、

フッと別件でひらめきがあって、

(人間の脳のこと)

そのことを書いていたら

チラッと、途中まで書きかけたこの記事が目に入り

そこに入り込んでしまった。

こんなに長く書く予定じゃなかったんだけど

はまり込んでしまった。

うーん。

反省しても、またやるんだろうなあ。

じゃ、反省しない。

さっ、次、次。

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