”債務負担についての誤謬”(3/3)

前回に引き続き、ブキャナン*1とワグナーの"Public Debt in a Democratic Society"から、"The Fallacies of Debt Burden"を紹介する。今回は第3回で、最終回。以下翻訳。

 

移転的支出の誤謬

 「我々は我々自身から借りているのだ。」これは内国債がコストを時間的に先送りすることを否定する人々や、内国債は外国債や私的な債務とは異なる種類のものだと主張する人々の議論において繰り返されてきたフレーズである。これは今まで議論してきたものよりもいっそう現代風味の議論の行き詰まりに注意を向けさせるものである。ポストケインジアンが国民会計を強調するのは、君臨するこの知的混乱に部分的な原因がある。国民会計の下では、バランスシート及びインカムステートメントは、それぞれの個人についてではなく、ある程度恣意的な政治的境界に基づき集計される。個人の勘定の借方と貸方はしばしば互いに相殺されるので、その限りにおいて、それらは一国の集計に影響することがありえない。

 このことが内国債の負担について、次のような誤った議論に信憑性を与えてきた。もし公債証書を保有する人々が国民経済の内部に住んでいるなら、その経済の内部から税金を徴収して彼らに対する利払いを行うことは、所得ではなく移転支出として扱われる。この移転をなすにあたって、いかなる資源も使い切られていない。つまり、この利払いは現在の財やサービスと引き換えになされたものではない。

 ここでの誤謬は、国民会計の慣例における特定種類の支払の取り扱いが、公的な財の機会コストの在り処をいくらか変更してしまうという事実の中にある。これらの慣例は恣意的であり、それらの多くが重大な批判の対象となる。政府が(即ち集合的に組織された立場においての個人が)債務をデフォルトすることを選ばないのであれば、内国債に対する支払が移転的支出であるという性質は、コミュニティのメンバーである個人の経済的環境を全く変更しない。

 国内で保有されている私的な債務に対する利息の支払いは(家計間での支払いを除いて)国民所得に含まれる。しかし、これらは公債に対する利払いと厳密に全く同じ意味で移転である。いずれのケースでも、利息の支払いは、借り手=債務者としての立場での個人から、貸し手=債権者としての立場の個人への移転を表している。いずれのケースでも、これらの支払は契約に基づくものである。単に国民会計上の便宜として、これら二つのタイプの支払のうちの一つのタイプだけが明示的に移転として扱われるという事実は、債務の負担を分析するうえで全く意味を持たない。

 

債務負担の原則のまとめ

 公債のシンプルな原理*2を否定してきた、回りくどく、時として邪な議論は、いくつかの関連した論理的推論上の誤謬に基づいている。これらの誤謬を追いやることは、周知の事実であるこの原理の有効性を、より強固に打ち立てることに役立つ。この原理は先に述べた、誤った結論のそれぞれを反転させる形式でまとめることが可能である。流行の議論とは対照的に、我々は次のことを結論付ける。

(1)ファイナンス手段としての公債は、政治的コミュニティのメンバーである個人に、公的な財の客観的機会コストを先送りすることを可能にする。公債発行時の負担は時間的に(訳注:将来世代などに)先送りされる。

(2)内国債と外国債の間に本質的な違いは存在しない。

(3)公債と私的な債務(訳注:家計や企業の借金)は最も基本的な性質において類似している。前者においては、個人は市民としての立場で資金を借り入れる。後者においては、個人は私的な経済的単位としての立場で資金を借り入れる。

*1:1986年ノーベル経済学賞受賞。

*2:訳注:翻訳箇所に先行しておこなわれた著者ら自身の議論を指している。