こんにちは、絶學無憂です。

 

本田晃一さんのネットラジオが始まっていますね。さすがの、ゆる〜い感じで。


 

背伸びをせず、ありのままでいるといいんだよー、というお話。

 

 

実は先日、勤め先のイギリスの大学で講義の仕方についての講義を受けたのですが、これが予想外に素晴らしい内容で、その中に同じ話がありました。

 

その講師の方は、初めて教壇に立った頃、たいへんな体調不良で病院にお世話になり、ところがどこも悪くないと言われてとても困ったそうです。生徒からの質問に答えられなかったらどうしよう、などと悩んでいたそうですが、ふと「自分はこのままで前に立っていいんだ」ということに気づいた日から、すっかり元気になり、それまで辛くて仕方なかった講義が、喜びに変わったそうです。自分は背伸びをしないと人前で話すには値しない、という思いが頭の中にあって、それがこの精神的、肉体的な苦しみを生んでいたそうです。

 

 

私自身は、人前で話すことが苦にならなくなってから久しく、多くの日本人研究者が苦手とする英語での講演も大好きで、英語で徴収の笑いを取るのが楽しくてしょうがないのですが、「パンツを脱ぐ」ということを意識するようにしています。

 

もちろん本当に脱いだら警察が来ますよ。喩えです、喩え。

 

 

思い出すと、エヴァンゲリオンやシン・ゴジラで有名な、私の大嫌いな(笑)庵野秀明さんがある時、かつての上司でもある、宮崎アニメを評して、「パンツを脱いでない」と批判していました。だからつまらないと。

 

「宮崎さんは…昔はよかったんですけれどね(笑)」
「一般向けのつまらない日本映画の仲間入りをしてしまいましたね。僕はもう物足りなさしか残らないですけれど。『トトロ』は良かったですけれど、そのあとはつまらなくなった」
僕の感覚だと、(宮崎は)パンツを脱いでいないんですよ
「『もののけ姫』では期待している。いくら小さいとはいえ、やっぱりチンチンを立ててもらわないと」

庵野秀明

ふしぎの海のナディアも、エヴァンゲリオンも、シン・ゴジラも嫌いなので(といいつついずれも見てますが)、本当にこの庵野秀明という人の作る作品は嫌いなんだなあと思うのですが、この「パンツを脱げ」という言葉はいいなあ、と思った次第。

 

普通人前に立つときは、身を守ろうとすることが多いと思います。不安を感じて、他人からの攻撃に備えて、鎧でも着て前に立ちたいと思う人が多いのではないでしょうか。

 

パンツを脱ぐというのはその逆を行くわけです。敢えて、自分の一番恥ずかしいところを見せたるぞ、生まれたまんまの姿を見てもらうぞ、という設定で前に立つのです。

 

生まれたまんまの姿、ということは赤ちゃんですが、赤ちゃんが前にいたら、いじめようとする人はあまりいませんね。いたらその人は人でなしなので相手にしなくて良いでしょう。

 

不思議と「パンツを脱ぐ」設定で前に立っていると、あまり人から攻撃を受けません。仮に受けたとしても、もう○ン○ンをご覧に入れているくらいですから、だからどうした?というくらいの気持ちで対応できます。

 

また「パンツを脱ぐ」設定で前に立つと、冗談が決まりやすいようにも感じます。無邪気にアホになれるんですよね。だから相手も思わず乗せられて笑っちゃう。

 

 

普通の研究発表や講義だとこの設定でほとんど大丈夫なのですが、就職面接のときには勝手が違うので、どういう設定で臨むべきかよく分からないまま、つまりパンツを脱がずに発表したところ、記憶にある限りほとんど初めての経験ですが、自分の声が震えるのが分かりました。「自分を良く見せよう」という設定だったのです。上等なパンツ履いて、背伸びしてたわけです。

 

ですので緊張しようと思ったら、実際よりも自分を良く見せよう、という設定で臨むと良いです。本田晃一さんの言う通りですが、この設定では失敗ができなくなりますから緊張することマチガイナシ!

 

 

なんてことを思っていたら、こんな本も出ていました。表紙の絵のせいでアダルト指定されていますが、エロ本ではありませんよ。残念だったね。

 

 

原田翔太著「ノーガードフルチン戦略: ~心のパンツの正しい脱がし方~」

 
二年前ですがこの本のレビューも書いてますからよければ読んでくださいね。と言いながら転載してしまおう。だいたい同じ内容ですね。考えることは変わってません。
 
数年前のことだと思うが、エヴァンゲリオンで知られるアニメ監督の庵野秀明が、師匠に当たる宮﨑駿の映画作品を評して、「パンツを脱いでいない」と語っているのを読んだ。私は宮﨑駿と彼の作品を崇拝しており、エヴァンゲリオンは一応テレビシリーズを全話見たものの心底大嫌いで、庵野氏も好きではない。ネットで探してもらえばすぐに出てくると思うが、彼がこのパンツの話で語っている言葉は下品というより下劣である(本書についてもそのような批判が多いようだが、本書の比ではない)。やはり私はこの庵野という人が心底嫌いである。なのだが、この言葉だけは脳裏に刺さって残った。

気が付くと、このところ、人前に立って発表、プレゼンをしたり、スピーチをしたりする場面で、「パンツを脱ぐ」ことをいつも意識している自分がいる。かなりのピンチに追い込まれてやらねばならないようなプレゼンでも、「パンツを脱ぐ」と、なぜか後で聞いていた人から褒められることが多い。そして少しでも余裕のあるような発表の機会があれば、そこへ笑いを持ち込みたくなる。お固い学会会場で爆笑を取ろうと思うと、かなり際どい勝負となり、そういう笑いを仕込んで発表会場へ行くと、もう当日の発表前は、本題の重要な内容など飛んでしまって、そのネタが本当に受けるかどうかだけを捨て身で心配している。すると、なぜかそれがうまくいってしまう。話がうまいですね、と褒められる。そういうことが続いて、「パンツを脱ぐ」覚悟が大事だと我が身を持って認識するようになった。

そこへ来てこのドンピシャの題名である。しかも評判が良いらしい。いかに下品に見えようとも読まないわけにはいかないだろう。そして読んでみた。一体何が書いてあるのだろう、自分が思っていることと大体同じなのだろうか、それとも表現がたまたま似ているだけで似ても似つかないような話なのだろうか。

「心のパンツを剥いで、脱がしていった先にこそ等身大の自分がある」

「誰々がこういう実験をした結果、こうなったそうです。」とか。「〜だそうです。」みたいな話って本当に眠たいよな。」

我が意を得たり、と大いに共感するに至った。下品に見えるタイトルや表紙、言葉遣いに惑わされている人も多いようだが、そういう人はまあ言ってみれば、「パンツを履いている」人である。本書はたった一日で書きなぐるようにして書かれたそうだが、いかにもパンツを脱いだ人の文章だ、という気がする。

「これをやった場合と、やらなかった場合、どちらが死ぬ前に後悔しないだろう?」

「どっちを選んだら死ぬ時後悔しそうだろう?」

これなどは有名なスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式でのスピーチにも通じている。

Remembering that I’ll be dead soon is the most important tool I’ve ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure — these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.

自分がもうすぐ死ぬということを覚えておくことは、人生において大きな選択をする際の助けとなる、私が今までに巡り逢った道具の中でもっとも重要なものだ。ほとんどすべてのこと、すべての外部からの期待、すべての虚栄心、すべての恐れや恥、失敗、これらは死を目前にするとただ倒れ去ってしまい、真に重要なものだけが残されるからだ。自分がもうすぐ死ぬということを覚えておくことは、何か失うものがあると考えてしまう罠に陥らないための私の知る限り最高の方法だ。君はもう裸になっている。真心に従わない理由など無い。

「言葉によって人生を支配されているわけだよ。その言葉によって「それらしくあろうとする」っていくことに甘んじちゃうんだ。」

「あらゆるラベルは、言葉はノイズでしかないんだ。」

表現の仕方が全く異なってはいるが、これなどはエックハルト・トールが「ニュー・アース」で唱えている教えや、スマナサーラ師の紹介する原始仏教のブッダの教え、あるいは雲黒斎氏が「あの世に聞いたこの世の話」で紹介しているような話へと通じている。瞑想によって自我の防御の壁(つまり、パンツですね)を薄くして、今ここの自分のあり方(パンツの中にあるものですね)に立ち返れ、という、スピリチュアルな真理にも通じているように思う。この本の見かけでだまされるとこの本質的な部分が見えなくなるだろう。著者は恐らくこのような先人の本から学んだのではなく、実体験の中からパンツを脱いでいくうちに、このように考えるのに至ったのだと思われるが、向かう方向は同じであると感じる。

即興で書かれているだけにニュー・アースのような格調はないが、却って本書のような一見ふざけたような書き方の本のほうが、同じ内容でも心に刺さりやすい、という人もかなりいるのではないかと思う。だからこそのこの高評価なのだろう。新しい出版のあり方としても非常に面白い試みだと感じた。

 

 

 

 


 

こんにちは絶學無憂です。

 

伊東聖鎬(せいこう)さんの読脳法(どくのうほう)。広い意味ではキネシオロジーの筋肉反射テストの一種ですが、独自の進化を遂げたものです。伊東聖鎬さんは実は筋肉反射テストの日本語の名付け親であり、日本における草分け的な方ですが、臨床に使うにはこれではまだ不足だと言って、読脳法という方法にまで進化させました。

 

この動画はたくさんある読脳法のデモンストレーションの動画の中から、身近にある意外なものを使って症状を中和して解消している場面を集めたダイジェスト版です。パンをかじったり、ハーブティーを入れたり、花をはさみで切ったりと、なんでもありです。いろいろな物がある中から、その人の症状を中和するものをピタリと読脳法で探し出して、実際に症状が消えることを体験してもらうというものです。これが実際に機能してしまっているというのを受け入れると、身体症状に対するものの見方がかなり変わりますよね。リブログ元のカズ先生もおっしゃってますが、波動医学のデモンストレーションと言えると思います。

 

 

 

この記事を少し前に読んで、何かコメントしようかどうしょうかと思いつつ、放ったらかしにしていたのですが、夜になって、急激に歯が痛み始めました。0から10までの10段階で痛み4です。骨折したときでさえ最高痛み4でしたから耐えきれないほどではないが結構痛い。

 

イテテテ、最近は実は不可解な歯の痛みが多いのです。歯と歯茎は歯科的にはかなり弱い状態なので、もうなんでも起こり得るのかもしれませんが。

 

そして、この動画を思い出して、イテテテと思いつつ、筋肉反射テストで調整法を見つけることにしました。ホメオパシー、レイキ、髪を切る、方位が全部ハズレ。そして、について調べたらYES。コンピューター画面の色か、自分の持っている色鉛筆の色か、と聞くと後者。そこで24色入りの色鉛筆を出してきて、色を指でスキャンしながら筋肉反射テストで選ぶと、濃紺の色鉛筆が選ばれました。これを睨みつけたら治るのかな?ホンマかいな?と思いつつ、じっと眺めること数十秒、ホントのホントに4あったはずの痛みがスルスルと引いていき、ほとんどゼロになってしまいました

 

自分でも嘘みたいだけど、実際に起こりましたよ、ほんとだよ。ホンマホンマ。

 

このタイミングでこれが我が身に起こったということはこのことについて記事に書けというメッセージであろうと解釈し、その通りにさせていただきました。

 

疑り深い人のために追記すると、プラシーボ効果じゃないの、という批判が可能だと思いますが、プラシーボ効果かそうでないかという判断は、二重盲検法で一定数の被験者をランダムサンプリングで試験して統計検定をしないと判断できない、というのが昨今のお約束のようですから、このような手続きを踏むことでようやく一般論としてプラシーボ効果ではない効果を認めることができるようになるということですが、お医者さんの出す薬であれ、代替医療であれ、「個別の一例」については、それがプラシーボ効果だったのか、違うのかは判断できない、ということになると私は理解しています。厳密にはどちらとも言えない、ですね。

 

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こんにちは、絶學無憂です。Amazonにレビューを書きました。

 


 

「カタカムナ」で解く魂の合氣術 〜運動力学を超えた“奇跡の現象"〜

大野朝行(ともゆき)著

 

 

 

カタカムナというのはあまり聞き慣れない言葉だと思いますが、太古の昔に日本に存在したとされる超古代文明です。今の所、歴史学者はほとんど無視しています。楢崎皐月ならさき こうげつ)という人が神戸の六甲山であるきっかけから巡り合った平十字という人物から、「カタカムナ神の御神体だから、見た者は目がつぶれる」とされてきた秘伝の巻物の写しを取ることを許可され、この写しの内容だけが、現代に伝わるカタカムナの「物証」です。この巻物(カタカムナ文献)には後にカタカムナウタヒと呼ばれる80首の詩が特殊な図形文字で渦を巻くように書かれており、この解読からカタカムナ文字、そしてカタカムナ文明というものが少しずつ分かってきたような状況です。

本書はあまりカタカムナの考古学的な側面には触れず、著者のカタカムナの解釈と、合氣道の武術研究が結びついた成果を、実践可能な幾つかの稽古によって体験してみよう、と言った趣旨の本です。

カタカムナ文献の言葉の紹介や、カタカムナの概念による、魂合気の解説は、聞き慣れない言葉のオンパレードで、分量としては大したことないのですが、正直なところかなり理解しづらいという印象です。

しかし、実際に本書の最初のほうに出ている「マノスベの姿勢」を実践してみたところ、姿勢改善に目覚ましい成果を上げました。

姿勢というのは厄介で、その人の生きる姿勢とも結びついていたりするので、直そうと思ってもなかなか簡単に直るものではありません。アレクサンダー・テクニークを数年間習って、多少改善したものの、首が前に飛び出す姿勢はずっと続いていました。

ところが、この「マノスベの姿勢」を実践したところ、自分でもはっきりわかるほど首筋がスラっとまっすぐ上に伸びて、周りを見るときの見え方まで変わりました。鏡で見ても別人のように感じますし、他人からも指摘されました。詳しく聞けば全く違うような印象を与えているかも知れません。文字通り空間に対するあり方が違うような気がするのです。

本書に書かれている方法でじゅうぶんにこの効果は体験できたのですが、後にDVDも購入して見てみると、本書の記載から私が思っていたのと、DVDに紹介されている「マノスベの姿勢」の作り方の手順は少し異なっていました。これは文章表現の問題ではないかと思います。もう少し正確に誤解を避けるような表現や、より丁寧な図解が必要だったのではないかと思います。

 

 

「立って、掌で胸を押さえて胸を引き上げます」と一言で書いてありますが、私は両掌で大胸筋を持ち上げることをイメージしていました。DVDで見ると、片手の掌を胸骨のあたりに当てて、それで胸を持ち上げているようです。

次にDVDでは肩甲骨の下部の間を寄せています。「押さえて持ち上げると、肩が後ろにいき肩甲骨が寄って下がります」となっています。

「こうして肩甲骨が下がると、腰のあたりが窮屈に感じます。そこで掌で仙骨に触れて腰を引き下げます。」と続きます。仙骨というのは、脊椎の下にあり、腰椎と尾骨の間にあり、骨盤の後部を形成する骨のことですから、本文を解釈すれば尻の穴の少し上の固い部分に掌を当てて、尻をやや突き出すようなことになります。

それでもよいのかもしれませんが(実際私はそれでもできたようなので)、DVDで行われていたのは少し違っていて、両掌を骨盤(腸骨)の左右に当てた状態で、指先のほうが前に向くようにわずかに手を回転させて、骨盤を後傾させています。

指先を揃えて鼠径部を押して緩めます」と続きます。これは図があるので明らかですが両手で行います。膝がわずかに屈曲し、踵に体重が乗り、首が真っ直ぐに立ちます。

 

数十年来の懸案であった、突き出た首が真っ直ぐになった、と述べましたが、これは単なる良い姿勢ではなく、大野氏の主張するところでは、このマノスベの姿勢を取ると、カタカムナ文献に書かれているような、目に見えない力が身体に取り込まれやすくなり(このことをアワ量が増える、と表現)、この状態で仙骨呼吸と彼の呼ぶ、背骨を通すような呼吸法を行うと、魂合気の技がすぐに使えるようになるということです。

残念ながら実験台になってくれるような相手が身近にいないので本書の大半が費やされている二人一組で行う魂合気の実習は行えないような状況なのですが、YouTubeや大野氏のウェブサイトには数々の魂合気の動画があり、もちろんDVDにも技が収録されており、それらを見る限りは大野氏の主張は信憑性が高いと思います。

私は西野皓三先生の西野流呼吸法の対気や、保江邦夫先生の冠光寺流愛魂柔術を習ったことがありますが、動画を見ると、魂合気の技で相手が動く動き方にはこれらに通じる部分があります。

さて、私はキネシオロジー(タッチ・フォー・ヘルス)の筋肉反射テストを独習で身に付けていますが、この中には、経絡を逆撫ですることで経絡を流れるエネルギーを撹乱し、その経絡のスイッチを切ってしまうという技法があります。これは通常、経絡のスイッチが正常にオン・オフをするかどうか確認する目的で行われるのですが、たとえば体の正面を上向きに流れる任脈の流れを手で逆撫ですると、任脈に対応する棘上筋のスイッチが切れてしまいます。これは正常反応とされて、普通は深呼吸をするくらいではこのスイッチを入れ直すことはできません。逆撫ですると、かなり長時間に渡ってそのままになるので、正しい向きに任脈を数回撫でることでもとに戻す必要があります。

ところが、マノスベの姿勢を取ったままで、任脈の逆撫でをしても、ほんの1秒ほどで任脈が再起動して棘上筋の強さが戻ってきます。すなわち、この姿勢には経絡の自動調整機能が備わっている可能性があります。このことは、大野氏がいう、「アワ量が増えている」ことの証左となるのかもしれません。

また、同じくキネシオロジーには、スイッチングという概念があり、非常に動転するような場面や、非常に不快な刺激に触れたときに、経絡のオン・オフの反応が異常になってしまう現象が知られています。この性質があるためにキネシオロジーの筋肉反射テストは、科学的にその正確さを検証することが難しいのですが、ある種の退廃的なポピュラー音楽を聞くとスイッチングを起こすということを私は見出しました。これも特別なことを行わない限りはかなり長時間効果が持続してしまいます。ところが、マノスベの姿勢を取るとそれだけでスイッチングが解消されてしまうことも分かりました。スイッチングと言ってもいろいろな状態があるかも知れず、マノスベの姿勢がいつでもスイッチングを解消できるのかどうかは分かりませんが、やはり見えないエネルギーについてこの姿勢には特別な意味があることを表していると考えます。

実際にこのマノスベの姿勢でウロウロと歩き回ると(大野氏は「風帆(ふうはん)の歩き」という素敵な名前をつけている)両手がじんじんとしびれるようにエネルギーを感じることが多く、気分も爽快です。

さらに付け加えると、この姿勢を応用して楽器を弾くと調子が良いと感じています。

このマノスベの姿勢がどうやって見つかったかと言うと、宮本武蔵の有名な「五輪書」にほぼそのまま詳しく記載があるということで、これを大野氏が再現したところ、「アワ量が増える」ことに気づいたそうです。

 

『すこしおとが い(下顎)を出す心なり。首はうしろの すじを直に、うなじに力をいれて、肩より総身はひとしく覚え、両の肩をさげ、背筋を陸に、尻を出さず、膝より足先 まで力を入れて、腰 のかがまざるように腹をはり 』

五輪書「水之巻」第二節 兵法の身なりの事


残念ながら、二人一組で行う技については検証できませんが、本書の終わりの方では言霊(ことだま)についての研究も紹介されています。

これもおそらく大野氏の独自研究なのではないかと思いますが、神代文字のひとつアヒル文字の研究の結果「イロハニホ」を「ユウイ・ルウオ・フウア・ヌウイ・フウオ」というように「父音= 子音+ウ」に「母音」を続けるように発音すると、不思議な力があるとしています。これについても座っていたり寝ている相手を力を使わずに起こすなど、二人一組の実習が幾つあるのですが私は試せません。

ところが、上記と同じように、経絡の逆撫でやスイッチングに対して私が調べてみたところ、「ユウイ」や「ルウオ」と一言唱えるだけで、いずれも解消できることが分かりました。ですので父音と母音による「天佑の発音法」にも特殊なエネルギーが働いているのは間違いないだろうと考えます。

看護業界の方や、自宅で両親の介護をする方にとっては、これは朗報ではないでしょうか。トレーニングもなしに、ラクに身体を起こしてあげることができると期待されます。

本書のカタカムナ用語はあまり理解できておりませんが、目を引いたのは「サヌキ」と「アワ」という言葉です。

どうしても四国の讃岐と阿波を連想しますが、前者サヌキは左脳的・頭脳的・男性的なエネルギー、後者アワは右脳的・感受性的・女性的なエネルギーを表すのだそうで、カタカムナ文明は両者のバランスが取れていたそうです。言うまでもなく現代社会は圧倒的にサヌキ性の左脳優位で力による支配に偏っており、アワ的なエネルギーを豊富に取り入れる、マノスベの姿勢、そしてそれを用いた魂合気は、この2つのエネルギーのバランスをもたらすためにこれから社会の中で重要な役割を果たすのではないか、というように私には思われます。

今後も大野氏やそれに続く人たちによる研究が発展し、多くの智慧が明らかとなることを願います。

 

 

マノスベの姿勢の作り方まとめ

  1. 片手の掌を胸骨のあたりに当てて、それで胸を持ち上げる
  2. 肩甲骨の下部の間を寄せる
  3. 腰のあたりが窮屈に感じるので両掌を骨盤(腸骨)の左右に当てた状態で、指先のほうが前に向くようにわずかに手を回転させて、骨盤を後傾させる
  4. 指先を揃えて鼠径部をちょんと押して緩めます
 

浮く手(浮力を持った手)の作り方

上記のマノスベの姿勢に加えて、合気が使える手を作ったとき、それを「浮く手」と呼んでいます。これも書籍よりもDVDのほうが分かり良かったです。私は実験台がいないので試せていませんが、これがちゃんとできたときに、この手や前腕を他の人が掴むと、不思議な事に肩や踵が浮き上がってつま先立ちになってしまうそうです。

 

  1. マノスベの姿勢を作る
  2. 両腕を体の側面につけておろす
  3. 手の小指を体(太もも)の側面につけて、親指が体から離れるように、肩から腕を回外する
  4. そのまま45度くらいまで肩からゆっくりと横に腕を上げる
  5. その姿勢からゆっくりと肩から手を前に持ってくる
  6. ゆっくりと掌を下へ向け、指はだらりとぶら下げておく
 
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こんにちは、絶學無憂です。

 

バイロン・ケイティがアメリカの有名司会者オプラ・ウィンフリーと対談している動画のやり取りを翻訳しました。バイロン・ケイティは、4つの質問と置き換えからなる「ザ・ワーク」というとてもシンプルな方法を考案し、これによってストレスを生むような思考を解放することを提唱しています。この対談で語っていますが、ザ・ワークの発見以来、22年間、一度も苦しみと感じたことはなく、悪い日と思うようような日もなかったそうです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。そのヒントがやり取りの中にありそうです。

 

 

 



O(オプラ・ウィンフリー): バイロン・ケイティさん、ようこそまたいらっしゃいました。バイロン・ケイティは A Thousand Names for Joy(邦訳「タオを生きる」)、Loving What Is (邦訳「ザ・ワーク 人生を変える4つの質問」)の著者であり、プロセスの考案者です。これはプロセスと呼んでましたっけ、ワークでしたっけ?

B(バイロン・ケイティ): ザ・ワーク(The Work)です。

O: これらの4つの質問はあなたが持っているどんなプログラムをも結びつけて強化し、いかなる宗教を信じている場合でもそれを強化し、もしあなたが無宗教の場合は喜びをもたらし、あなたにとって真実ではないものは何であれ焼き尽くします。この火は、ずっと焼かれることを待っていた現実にまで到達します。そして4つの質問というのは?

B:  「本当ですか?」「それが本当だと絶対的に分かりますか?」概念をひとつ選んで、これらの質問をその概念に対して用います。第三の質問は、「どのように反応しますか?その考えを信じるときにどんなことが起こりますか?」第四の質問は、「その考えがなかったならば、あなたはどんな人になっているでしょうか?」続いて、人々にその考えをひっくり返すように促します。

O: わかりました。前回ここへいらっしゃった時、あなたは言いましたね、あなたがこのザ・ワークを発見した時、あなたは体重が90 kg 以上あり、鬱状態で、広場恐怖症で、どん底の自殺志向で、ゴキブリが片足の上を通り過ぎて、あなたは目覚めを経験して、それ以来、人生はすっかり変わってしまったと。

B: 劇的に。劇的に、です。

O: その日以来、苦しんだことがないんですって?

B: ええ、その日以来一度も覚えがありません。

O: どれくらい前でしたか?

B: 22年前です

O: 一度も苦しんでないの?

B: 私は経験があるんです。私はとっても苦しみやすいし、(それ以来)悲しみを経験したことはないですが、私はとっても悲しみやすいの。そして私はとっても怒りやすいんです。でもこれらの感情を経験する前には、ストレスを与えるような考えを信じている必要があります。

O: 苦しみ(suffering) をどう定義しますか?

B: 悲しみ、憤懣、怒り。私はよく泣くの。感動して涙をながすことは多いの。

O: でも苦しむことはない?

B: 本当に苦しむことはないです。

O: 愛する人に先立たれたことは?

B: 数年前に母が亡くなりました。

O: 苦しまなかったの?

B: いいえ、苦しみませんでした。

O: そうなの?どうして?

B: ああ、私はあまりにも愛に満たされていて苦しみのための隙間がなかったわ。本当にね、予定をすべて取りやめて、母と一緒に暮らすことにしました。母は膵臓癌でした。私は母と一緒にいました。ああ、私は母が亡くなったときも、母が亡くなるのを待っていました。私は母の手を握って、母の目をまっすぐに見つめていました。母がそこにいて、そして母はもうそこにはいませんでした。そのまま母の目をまっすぐに見つめ続けました。死を見るために。死など起こっていませんでした。私の頭の中だけのものでした。私は死を気にしないので、死は素晴らしいものだと思っていて、生も素晴らしいものだと思っているので。人々は死を恐れていますが...

O: 死はそこになかった、とおっしゃいましたが、彼女は亡くなったのですよね、彼女は消えた?

B: 母はそこにいて、そしてそこにはいませんでした。

O: お母様はそこにいて、そしてそこにはいなかった。

B: 心がその人間が逝ってしまったと意味づけるのをやめたのです。心がもう肉体を意味づけできないとき、心が動け、立ち上がれ、座れ、と言っても身体はそうしない。そのとき心はすばやくこのゲームに気づいて、もはや意味づけする方法はない、それだけです。

O: じゃあ、あなたが苦しまないなら、気分が悪いときにはどうするんですか?

B: 気分が悪いとは感じません。

O: 22年間も?

B: 馬鹿げているって言って頂戴。

O: いいえ、それは素敵に聞こえるわ。同じのが私もほしいわ。悪い日っていうのもないの?

B: ないです。まだないわ。

O: 22年間も?

B: ないわ、ない。ないです。

O: じゃあ、一体どう感じるの?四六時中楽しいと感じるの?

B: ええと、バランスがあるんです。これは人々が喜びと考えているものとは違うかも知れません。「ハッピー、ハッピー、ハッピー」みたいなね。そういうこともあるけど、そういうのは唐突なもので、バランスがあるんです。

O: 平安(peace)ね?

B: 平安です。

O: 幸福感(contentment)

B: そう。自己実現といっても、それを実際に生きるまではそこに力などないでしょう。生きる必要があるの。生を愛するの。それ以上に力づよいものなどありません。

O: あなたがまったく苦しまない一番の理由とは?

B: 私は悩ましい考えを信じないからです。かつて私を苦しめたような考えを私は信じません。たとえば、母が亡くなった時のことに戻りますが、ザ・ワークは4つの質問に続いてひっくり返すんです。その人がそれまで信じてきていた苦しい考えについて質問されます。たとえば、「母が亡くなった」「母が亡くなった」「母が亡くなった」。そして、あなたの信じていることについて問い質します。すると「母が亡くなった、これはめでたいことだ」。「私の母が死んだ。私は悲しい」をひっくり返すと「私の母が死んだ。私は母のことを思うととっても幸せだ。自分のことを思うととっても幸せだ。」

O: 私の母が死んでどうして私は幸せなの?

B: では見ていきましょう。もしあなたのお母様が膵臓癌だったら、どうして生きていたほうが良いと言えますか?あるいは赤ちゃんが亡くなった時、私たちは寿命を全うしなかったと言いますが、もちろん寿命を全うしたわけです。赤ちゃんの命はここからここまでが赤ちゃんの命であって、早すぎたとか遅すぎたということはありません。

O: でも私はもっと長く生きてほしかった

B: それなら、あなたは失敗します。

O: ああ、そのせいで私は苦しむのね?

B: その通り。あなたが今のありのままに対して抵抗しているからです。じゃあ、どうして私の母が亡くなることがより良いことだと言えるでしょうか。母はもう苦しむことがありません。私は母が苦しむのをもう見なくてよいのです。

O: でも私は母にそばにいてほしかったの

B: ほらそこね、それはまるっきりわがままなことなのよ。どうでもいいから死ぬのはやめなさい、あなたが生きてたほうが私は心地よいの。エゴ丸出しよね。

O: ありのままを愛することによって、ありのままを受け入れられることがまさに大事なのね。

B: そうです。何が起こったとしても関係ないの。私は目が見えなかったの。フックス角膜内皮ジストロフィーという目の病気を患っていて、これはとっても痛い病気なの。予定びっしりのまま働き続けたの。世界中を旅して、階段を転げ落ちて、階段の上から下まで転げ落ちて壁にぶつかったの。私は素晴らしい経験をしたわ。今、私は移植した角膜を2つ持ってます。他の人達はあり得ないと言ったけど。夫のスティーヴン・ミッチェルは、最高に素晴らしい男性なんだけど、Googleで深く検索して、ある方法を見つけたの。私は40番目の...

O: 角膜モルモット?

B: そう。他の人は、あなたは移植片に拒否反応を示すわよと言ったけど、私は決して移植片を拒否しないわ。移植片のほうは私を拒否してもいいけどね。私は移植片を拒否するわけがない、でも移植片には私を拒否する権利がある。どんなものでもそれ自身の命のための権利がある。

O: 最初にあなたはこう言ったわね?ありのまま(what is)を愛することの始まりは、私たちの思考にあると、与えられた苦しみを生む状況に対する思考だと。私たちが状況に名札をつけるとき、

B: 私たちが信じていた思考ね

O: その状況について、私たちが信じていた思考。そして、何であれ今この瞬間のありのままに対する私たちの抵抗だと。あなたの本を読んでいて、木曜日の晩にあなたの本を読んでいて、金曜日は一日中何かをしなくちゃいけなくて、金曜日の夕方に、私はものすごく体調が悪くなったの。突然わたしの身体が、骨が痛みだして、体の中があんまり痛いものだから、家まで帰れないんじゃないかと思ったの。帰ってベッドで寝るのは無理だと。家に帰っても警備員と犬たちしかいなくて、覚えてるんだけど、真夜中に、起き上がるのには疲れすぎていて、警備員の一人に水を持ってくるようにお願いしたかったんだけど、それをお願いするために電話をするのにも疲れすぎていたの。すごく体調が悪かった。突然、あなたの本を読んだおかげで、突然ひらめいたの。私は体調不良であることに逆らうのをやめようと。そのままにしようと。私は体調不良じゃないようになろうと努力してたの。この病気のど真ん中にいて、私は自分がこんな状態でいるのが信じられないわ、と思ってたの。突然、体調不良に対する私の抵抗を手放そう、体調不良を抱きしめようというこの考え、あるいは感覚がひらめいて、これを受け入れようと言ったの。これを考えると泣きたい気持ちになるけど。これを受け入れて、何が起こるか見てみようと。私は眠りに落ちて、そして安心の中で目覚めたの。

B: ありのままを愛するというのは素晴らしいことなの。Love What Isにも書いてあるんだけど。

O: (遮るように)もう三日間くらいはベッドから出られないだろうと思ったの。仕事はどうしようかしら。国を横切って空を飛ばなきゃならないし。

B: 鳥肌だわ。現実と争うのをやめたのね。

O: 争うのをやめたの。

B: 魔法の世界よ。じっとして、後ろへ戻って、自分の体実際にはどれくらいうまく機能してのかを見て、痛みは本当に痛みだったのか、何か他のものだったのか

O: 何だったかわからないわ。まったくよ。

B: 私たちが悲しみと呼ぶものに似ているわ。私は他の人達に質問をするように促すの。それは悲しみなの?それとも愛?本当にじっと静かにして、この感情は本当に悲しみなのか、それとも愛なのか。たとえば愛する人が亡くなったときに。本当に正直になってみると、それは実は愛かも知れない。それは悲しみではないかもしれない。

O: あら、私は泣きそうだわ。私は犬のソフィーを亡くして、この犬は13年間毎日毎日毎日どこでも私と一緒にいたの。その週末、私は一人で座っていてソフィーのことを思っていて、ソフィーの写真が壁に飾ってある前を通り過ぎたとき、この感情が起こったの。私が本当に感じている気持ちに触れてみようと。毎晩ソフィーはベッドの上で寝ていたから、ソフィーの肉体を懐かしんだわ。でも、私が本当に感じていたのは、深い深い彼女への愛だったの。彼女への深い愛。彼女への深い愛。それで思ったの。誰でも愛するものを失ったときに同じように感じると思うんだけど、ソフィーは私が大人になってから失くした、一番身近な人、一番身近な存在だった。それで私は問いかけたの。この小さな犬のために私は何でもしたわ。化学療法、ふたつの外科手術、その日には首や腎臓などのために血流の短絡をもうひとつ作ろうとしていたの。彼女のためになんでもやったの。そして自分に問いました。私は彼女のためにその場に完全にいてあげられていただろうかって。

B: あなたは彼女のためになんでもやってあげていたのね。でもそれはソフィーよりもむしろあなた自身のためだった。これは見てみれば興味深いことだわ。ソフィーのことを話していたら、私には彼女が見えるわ。彼女がどんな種類の犬だったかさえ知らないのに。彼女のことを考えるときに、あなたにはソフィーが見えませんか?私には見える。そして私は彼女に会ったこともない。でも彼女は死んでしまった。それは本当かしら?私が言いたいのは、誰も死なないの。いつでも私の心に彼女たちが訪れる時、ソフィーがあなたの心にやって来るとき、彼女があなたの心を打つ時、愛が起こるの。私たちはそれを悲しみと名付けたけれども、ソフィーと一緒に過ごしたこの13年間はそこにあるの。

O: そこにある。

B:  あなたが病気のときにやったのを同じように、あなたがそれを受け入れれば、彼女が去ることはないの。そういった種類の愛。わかるでしょ。誰も私から去ることはできないの。そんな力を誰も持っていないの。ここにあるのよ。あなたの心の中に。そして心を打つの。

O: その通りだわ。その通り。それじゃあ、このザ・ワークがどのように働くのか実際に見てみましょう。思い出せる限りずっと私を悩ませているある問題について。実は私はどれくらいの期間これが私を悩ませているのかか今思い出せるけど。私の体重。あなたは言ったわね、....私がこの本を読んでいるときに、これがどうやって体重に作用するのかについてあなたは本を書かなくちゃいけないと思ったの。私は体重のゲームに勝利したと思っていたの。これは終わったと。コントロールできていると。昨年だけど、これは本当よ、お医者さんが甲状腺に問題があると言ったの。他のお医者さんにもみてもらったけど、彼らが言うには「あなたは太りますよ。空腹を受け入れることを学ぶ必要があるよ。体重が増えるから。」これが私に起こっているというのは信じられなかったわ。『体重の問題』を生涯抱えていて、今になってお医者さんに行くと、あなたは問題を抱えていて実際に体重が増えますよと。今になって思えば、体重が増える必要はなかったんだわ。でも私がしたことというのは私はお医者さんを信じたわけ。

B: そうね

O: お医者さんを信じて、運動をやめてしまい...

B: 効果を示すわよね。あなたが信じて、それから効果が生じます。

O: そうね。ザ・ワークについては、私はもう体重と格闘するにうんざりなの。うんざりよ。私はこれは正しいと信じている。

B: はい、あなたは体重があなたの人生の中で問題になっているということにうんざりしている。あなたがうんざりだというのが本当だと絶対的に知ることができますか?あなたはうんざりよ、というけども、それが本当だと絶対的に知ることができますか?

O: ええ。そうよ。

B: はい、では、私は自分の人生の苦闘にうんざりしている、という考えを思い浮かべた時、あなたには何が起こりますか?

O: 私に何が起こるか?そうね、イライラして、何を食べるべきか、何を食べないべきかを考えていて、昨日食べたものはどうか、昨日食べるべきでなかったものはなにか、明日は何を食べようか、三週間後にはマヤ・アンジェロのパーティーがあるけど、そこで食べていいのか、飲んでいいのか、シャンパンはなしよ、シャンパンは排除するの、とかそういうことよ。こういうことを考えるわ。

B: そうね、オプラ、あなたは自分の肉体についてどうお考えなの?

O: 私がどう考えるか?

B: どう考えるの?どんな風に見ているの?ストレスについてね。ストレスを生じるような思考。

O: サイズ10であればよいと思うわ。サイズ14じゃなくてね。

B: じゃあ、あなたは自分の体が大きすぎると考えているのね?

O: そうよ。

B: はい、それではあなたの体が大きすぎるというのは本当でしょうか?

O: 誰にとって本当ということ?

B: あなたにとってよ。

O: 私にとって?

B: あなたにとって。なぜならそれがあなたがずっと対処しなくちゃいけないことのすべてだから。

O: そうね

B: あなたよりも体重が軽くても太り過ぎだと考える人たちがいるし、あなたよりもずっと体重がありながら...

O: 自分の体が大きすぎるというのは私にとっては正しいわ。正しい。

B: じゃあ、あなたの体は大きすぎるということね。あなたの体が大きすぎるということをあなたは絶対的に知ることができますか?

O: 私にとって?私の心にとってはその通りよ。私の心にとってはその通り。

B: あなたの体が大きすぎる。これが真実だと絶対的に知ることができますか?

O: まあ、これが絶対的に正しいかどうか分からないわ。だって明らかに私の身体は目的を果たしているし。

B: はいか、いいえで答えるように勧めます。ザ・ワークは、あなたが質問に答えなくなった瞬間に働かなくなってしまうからよ。心はあなたにあなたが信じていることを防衛してほしいの。あなたが信じていることを正当化したいの。あなたが質問に答えるなら、ザ・ワークはそれを断ち切るの。だから、はいか、いいえで答えてください。

O: はいか、いいえね。私の体が私にとって大きすぎる、というのが質問よね。

B: あなたの体が大きすぎるということを絶対的に知ることができますか?

O: (上を向いて髪をむしりながら)いいえ。

B: あなたは素晴らしいわ。

O: 私がこれが正しいと絶対的に知ることができない理由っていうのは、私の体は存在しているからです。私の体は存在していて、私のために働いていて、機能していて、大きすぎるというのが絶対に正しいとは分からないわ。

B: それだけじゃないわよ

O: 私は自分の体が違う状態であってほしいけど、それはあなたの質問じゃないわよね。

B: それは違うわね。私が自分の意見を持っているときに、神様が必要なわけがありますか?私は自分の体が大きすぎるのを知っていて,それは現実に逆らうことで、今これをやるとちょっとおかしいけど、第三の質問に行くと、この考えを信じているときに、あなたの人生に何が起こりますか、あなたはどう反応しますか?大きな質問よ。何百万人もの、何百万人もの、何百万人もの鬱屈した人たちのために答えてください。

O: 私は、...不安を感じて、鬱になるとは違うけど、不安になる。私は自分に対してあまりよく感じない。もっとよくできるでしょう、みたいな。

B: あなたの心はイメージを見せるでしょう。あなたの心はあなたをサイズ10やサイズ8と比べるでしょう。そして他の人達を見て、その人達の体と自分の体を比べるでしょう。これが、あなたが自分の体が大きすぎると信じた時の心の働き方なの。

O: 私は本当にうんざりだわ、うんざりだわ。

B: そしてあなたはうんざりする。自分の体が大きすぎるという思考を信じたときに、どういう風に反応するでしょうか。私たちは食べる量が増えて、これは絶望的だってなるわ。罪のないもの(体)と戦争状態に入ってしまう。

O: 私はバイロン・ケイティとお話しています。ありのままを本当に本当に愛する女性で、Loving What Is の著者です。彼女のザ・ワークを私と一緒に行っているところです。

B: 思考を信じたときにどういう反応をするかと言うのを見ました。苦々しい思いをしたり、人によっては鬱になったりします。第四の質問ですが、この考えがなかったならば、あなたはどんな人間になっているでしょうか?私の体は大きすぎるという考えです。

O: とても喜びに満ちていて、クローゼットを通り抜けて、どの服なら着られるかということを考えもせずに朝服を着ます。このことが問題になっていないならば、私はもうこれを 手放すことができるわ。そしてもっと沢山のエネルギーをたくさんの他のことに注ぐことができるわ。

B: それはもしあなたがサイズ10やサイズ8だったらこう思っているだろう、というようなことじゃないですか?すべてを飛ばして、ここでそれを手にすればいいのよ。今ここで。

O: どうやってそんなことができるかしら。私の体は単純に大きすぎるのよ。

B: 大丈夫よ。まだそこまで行ってないだけ。ただ気づいてほしんだけど、この考えがあるとストレスがたくさんある。この考えがなければ..

O: もしも私がこの思考を手放したならば、私は今よりよっぽど幸せよ。

B: 私はあなたに、この考えを手放すようにお願いしているのじゃないの。

O: 違うのね?

B: その考えを変えてくれともお願いしてないの。私は何もお願いしてないの。ただあなたの答えだけが大事なの。この思考があればストレスがあり、私たちが話し合ってきたそれ以外のいろんなものがあって、もしこの思考がなければ幸せがある。

O: そうね。

B: 喜び。あなたが体のことを気にしていなければね。ここで、思考があればストレス、思考がなければストレスなし。これでどうして体が問題だって言えるのかしら?

O: 体は問題じゃなくて、私が考えていることが問題だわ。

B: オーケー。それでは例を挙げてみましょう。ひっくり返しの例を考えてみて。私の体は大きすぎない。

O: 私の体は大きすぎない。なぜなら、体は機能しているし、私が毎日起き上がって生活の中で動き回れるようにしてくれていて、神聖な場所から世界に語りかけたりできているから。私の体は大きすぎない。

B: あなたの体として、大きすぎることはないわ。他の女性にとっては大きすぎるし、他の男性や女性にとっては大きさが十分でない。今ここで、完璧な体重なの。あなたであるために完璧なサイズなの。だからといって来週あなたが痩せることはないとは言わないわよ。たった一つのことだけ対処しなくちゃならないの。今ここで、一体何を私の口に入れればよいのか。永遠ではなくて、今ここだけ。そして気がつくのは私は私が食べるものを食べ、あるいは食べず、ただ気づいて、気づいて、気づいて

O: より意識的になるのね

B: 私は私であるために完璧なサイズなの。誰かがあなたにならなければいけない、オプラ。他の誰にもできない。あなたしかいない。そしてこれが必要なこと。でもただ今ここだけ。

O: あなたがザ・ワークの質問をすることを身につけた時、これは4つの質問で、本当ですか?本当に本当ですか?三番目は忘れたわ。

B: どのように反応するか?その思考を信じたときにあなたの人生に何が起こるか?

O: 四番目は?

B: もしその思考がなかったならば、あなたはどんな人になっているでしょうか?

O: その後でひっくり返すのね?

B: その後でひっくり返すのよ。

O: もしこれを人生のあらゆることについて適用したならば?

B: あなたは目覚めるわ。現実に目覚めるの。これは苦しみの終わりでもある。オプラ、もし天国がもっとも素晴らしい場所で誰もがそこへ行きたいと思うような場所ならば、または人々が天国を信じているのならば、あなたが死んで、天国へ行った時、そこではすべてが完璧で苦しみもなく、悲しみもない。惨めさもない。もしあなたが死んで天国へ行った時、あなたが、あなたの信じているものを天国へ持っていったならば、あなたは一体どこにいるでしょう?地上よね?私は目覚めて天国を見つけたの。私は天国にいるの。私はすべての人を天国へと招いているの。私はあなたを天国へ連れて行くことはできない。でもこれらの4つの質問に答えてひっくり返して座ってとても静かにしている人たちは、人々を天国へ連れて行くことができる。

O: バイロン・ケイティ、ここにお招きできてとても嬉しいわ。私の体は大丈夫。このままで。

B: この瞬間にはね。

O: この瞬間には。

B: それに逆らえば美しさを失う。あなたの美しさよ。それは全然あなたらしくない。ありがとう。