この世でいちばん怖い椅子

カミソリ

 とある小さな町の商店通りを歩いていて、思わず足を止めた。
 昭和を色濃くのこした理髪店が目の前にいたからである。まさに “いた” という感じだった。
 入り口には傾いた “ねじり飴” がよたよた回っていて、まさに散髪屋とか床屋とか呼ぶにふさわしい風情だ。近ごろほとんど目にしない光景である。

 おそらくこの店の主人は、時代の流れに合わせて生きるのが嫌いな人間なのだろう。
 よくいるよね。老人のくせに洗いざらしのジーパンをうれしげに穿いたり、文章のなかにやたらカタカナを入れたがる軽薄なやつ。すぐ近くにもひとりいるがね。そういうヤカラが嫌いなんだ、この床屋の主人は。
 もっとも、根っからの怠け者で商売に投げやりなだけ・・・ということもありうるけど。
 
 ともあれバリバリの昭和人間であるわしは、その店に郷愁みたいなものを感じて思わず足をとめたわけだ。そして色あせた料金表が貼られているガラス戸越しに、店のなかを覗きこんでみた。

 おそらく店内はガラガラ・・・と思っていたら、その先入観に平手打ちをくわされた。
 置かれている理容椅子は2脚だが、その2つがふたつとも塞がっていたのである。順番を待っている中年男までひとりいた。
 客のひとりは60代とおぼしき男。ほとんど水平に倒された椅子のうえで目をつむって、顔のひげを当たってもらっている。
 もうひとつの椅子の上には小学5,6年生くらいの男の子がのっている。

 60男の顔のうえでカミソリを握っているのは、アザラシのような体形の大男だ。年のころはやはり60くらいか。目が細くつりあがった感じで、肘あたりまで捲り上げた白くない白衣の袖から突き出た腕が、目をひくほど太い。その太い腕の先ににぎられた日本カミソリが、60男の顔のうえでゆっくりと動いている。
 
 小学生の頭のまわりでハサミとクシを使っているのは、アザラシ男のカミさんだろう、50代前半あたりの女である。亭主のキツメ目デブ男にはもったいないような美人・・・であっただろう若いころは、と思わせる女だ。もっとも亭主のほうだって、かつては切れ長の目とスラリ長身のいい男だったかもしれない。
 
 いつまでも歩道に立ち止まって店のなかを覗きこんでいると、突発的下半身マヒでも起こしたかと思われるので、ちょっと後ろ髪を引かれながらも歩き出した。
 が、ある妙な不安・・・というか居心地わるいものが頭のなかに残った。
 
 その居心地わるさは、ひげを当たってもらっていた客の姿から出てきたものだ。
 あの床屋の主人が、デブ加減やキツネ目度において常軌を逸しているだけでなく、もし精神の座り方においても普通でなかったら・・・とふと思ってしまったのである。
 
 そんなことを思っても何の役にも立たないし、まったく余計なことだが、思ってしまったのだから仕方がない。しかも妙に気になってなかなか頭から去らない。
 
 いったい人間の生活のなかで、これほど他人に無防備な姿をさらしている場面はほかにはないのではなかろうか。ときおりテレビで、ひっくり返ってバンザイ姿で腹を見せている猫や犬を見ることがあるが、あれ以上だ。だってすぐそばに刃物を持った人間がいるのだよ。

 もし・・・もしだよ、年にしてはまだ色気をたっぷり残しているあの女房が、アザラシに倦んで前夜こっそり他の男と浮気していたら、しかもじつは亭主はそれを知っており、仕事をしながらもそのことが頭から離れず、われ知らずだんだん感情を高ぶらせていたら・・・。
 
 そんな場合でも、ふつうならまず自制心が働いて、赤の他人を巻きこむようなおかしなことにはならないかもしれない。しかし、もしその亭主が精神の骨組みのヤワな男だったら・・・。
 
 そんなのは妄想。モーソー。100%絶対に起きない・・・とは言いきれないのではないか。
 現に最近も、某省の元事務次官がじぶんの息子を殺したり、某省工業技術院の元院長が車を暴走させて、母娘を死なせたうえ歩行者4人をはね飛ばしたりしている。
 スーパーエリートの彼らは、理性や知性を武器に昇格競争を勝ち抜いてきた人間たちなのだよ。
 ふつうではありえないこと、まさか・・・と思われることが絶対に起きないとは言えないんだ。
 
 だからわしは、かつて『バーバー・バァーバ』でルル書いたように、散髪は女房にやってもらっている。
 
 ・・・って、この世でいちばん怖いのは自分の女房だってこともありうるんじゃないの?
 
 ・・・なんて恐ろしいことを言わないで! お願い。

          (参照→『バーバー・バァーバ』
      

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