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身を捨つる人は

2019-05-07 22:13:53 | 日記

「自我」は3,4歳になって言葉を覚え、

彼我を意識したときから生じる。

だが、これは「魂」でも「自己そのもの」でもない。

あくまでも相対的人間関係の中で生じるもの。

では、我々、「自我」以外に何を持っているだろう。

 

 空白

 

何もないんじゃないか。

 

「めんどくさいなあ」

「何で、自分のことをほって置いてくれないんだろう」

「みんなの注目を浴びたい」

「悩んだり、苦しんだりすることこそが生きてる証だ」

「カッコよくなりたいな」

「有名作家、音楽家といった有名人になりたいな」

「うらやましい」

「誰からも必要とされていないじゃない?」

「もっと充実した日々を送りたい」

「一目置かれる存在になりたい」

「人や国を支配したい」

「お金持ちになりたい」

「美人の彼女がほしい」

「他人の不道徳が許せない」

 

そんなことを考えている自分が、「自分」だと思ってるんじゃない。

 

それって単なる肉体の欲望だ。

肉体から生み出される「自我=欲」だ。

 

決して貴方の本体「魂」ではない。

 

こんなものを自分だと思っていると

釈迦の手のひらから抜け出せない孫悟空みたいに

一生、「小世界」の内でしか生きられないで

迷い、悩み、何にもわからないまま

むなしく「死」を迎える

 

「身を捨つる人は   まことに捨つるかは

捨てぬ人こそ   捨つるなりけれ」(一遍)

 

自分の身体にこだわり続ける限り

永遠に迷いの中で生き続けることになる

 

自分の身体からの離脱 = しがらみ、こだわりからの開放

 

そうできてはじめて

「自由の身」となり

何の規制を受けることなく自在に生きられる

 

「真の自分」を縛ってがんじがらめにしているのは

実は自分だと思っているその肉体自身

「死」を迎えれば

再び電子の結合が解かれ

ばらばらに雲散霧消してしまう

便宜的に寄り集まってできただけの存在

なぜこれを「私自身」と思えるのか

これが私自身のはずがない、と何故気づかないのか

 

生きているうちに

このことに気が付いた人は

このことを皆に知らせたくて

うずうずする

 

皆にもこのワクワク感を味わって欲しいから

そして「皆」も「私そのもの」だと思うから

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