愛知県新城市の長篠城です。
長篠城といえば、武田軍vs織田徳川連合軍の激戦で知られる「
2006年(平成18年)に日本100名城(46番)
長篠城は寒狭川(豊川)と宇連川(大野川)の合流する地点に築かれており、南と西を断崖絶壁に守られた「後堅固」の城となっています。その一方、平坦地である北と東側には土塁や堀を設けたまさに鉄壁の要塞でした。
永正5年(1508年)今川氏の城として、国人である菅沼元成が築城したと伝えられ、代々菅沼氏の居城となっていたとされます。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、国境にあった長篠城は徳川氏、武田氏の間でたびたび争奪戦が行われましたが、天正元年(1573年)武田信玄の死後は徳川家康が支配することになります。
家康は奥平信昌(貞昌)を城主に任じ、武田軍の再侵攻に備えて城を拡張します。現在も残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられています。
永禄3年(1560年)
家康は奥平信昌(貞昌)を城主に任じ、
天正3年(1575)5月武田信玄の跡を継いだ勝頼は1万5千の大軍を率いて長篠城を包囲します。籠城する奥平信昌はわずか約五百の手勢のみ、織田方に救援を要請することにします。
長篠城方の鳥居強右衛門は単身城を抜け出し、織田本陣に援軍を要請し、長篠城へ帰る途中に敵方の武田兵にに捕まり。織田の援軍は来ないと嘘の情報を城内へ伝えるよう武田方に強要されますが、「おのおの方、織田様、徳川様の援軍は来るぞ!もう少しの辛抱じゃ!」と叫んで長篠城の将兵の士気をあげます。当然、強右衛門は磔となってしまいました。
長篠城方の鳥居強右衛門は単身城を抜け出し、
やがて、酒井忠次率いる織田・徳川の連合軍の援軍が到着するに合わせて、戦場は設楽原(したらがはら)へと移ります。
そこで武田軍は多くの重臣を失う大敗北を喫し、勝頼は辛くも脱出しますが、この敗戦が7年後武田家滅亡のきっかけとなったといわれています。
長篠城は合戦後、廃城となりました。
そこで武田軍は多くの重臣を失う大敗北を喫し、
長篠城は合戦後、廃城となりました。
城の南側、牛渕端から見たところです。
自然の地形をうまく利用し築かれた城だということがよくわかります。逆三角形に突き出した断崖の上、向かって左側が本丸です。
自然の地形をうまく利用し築かれた城だということがよくわかりま
次回は設楽原の古戦場をレポートします。