第3回とよはし・吉田城シンポジウムに行ってきました。今回2回目の参加です。
会場となったのは吉田城のある豊橋公園内にある豊橋市公会堂。
テーマは「池田輝政と吉田城」
講演者には萩原さちこさん(城郭ライター)、播磨良紀先生(中京大学教授)、加藤理文先生(日本城郭協会理事)、中井均先生(滋賀県立大学教授)というそうそうたるメンバーが揃いました。
テーマは「池田輝政と吉田城」
講演者には萩原さちこさん(城郭ライター)、播磨良紀先生(
最初に演台に立ったのは萩原さちこさん。
テーマは「池田輝政の城-大垣城、岐阜城、吉田城から姫路城-」
お城ファンの目線で、想像力をかきたてるようにお城への想いを語っていただきました。
吉田城と姫路城では構造上の共通点はあまり見られない。秀吉の全国統治以降、お城は個人的に自宅のように作りたい場所に作りたい城を築いていたわけではない。そもそも戦国大名は好きな領国を選んで治めていたわけではなく、政権によって統制されていた。現代でいうところの社長(信長、秀吉、家康)と支社長(大名)のような関係。任された赴任先で支社を建てるように城を築き、支社を経営するように領国支配をしていた。言ってみれば吉田城は豊臣政権の城。輝政は吉田城のあとに姫路城を築くが、姫路城においてはじめて輝政の思いは開花したのではないか。それほど吉田城と姫路城の構造上の共通点は見いだせない。
テーマは「池田輝政の城-大垣城、岐阜城、吉田城から姫路城-」
お城ファンの目線で、
吉田城と姫路城では構造上の共通点はあまり見られない。
次の講演者は播磨良紀先生
「豊臣・徳川の治世と池田輝政」
文献史学の観点から池田輝政の吉田治世を分析します。
輝政は天正18年(1590年)小田原攻め後の家康の関東転封に伴って、秀吉から吉田城を任されているが、それは同時に関白・豊臣秀次の与力大名としてのものであった。しかし、文献上からは輝政が吉田11年間で治世を行った記録はほとんどみられない。大部分の期間は大坂に在住していたためとみられる。吉田城と同じ東海道には田中吉政(岡崎城)、堀尾吉晴(浜松城)、山内一豊(掛川城)、中村一氏(駿府城)らが配置されたが、彼らは全員関ケ原で東軍につき、戦後大幅に加増を受けている点が興味深い。(田中-筑後32万石、堀尾-出雲24万石、山内-土佐20万石、中村-伯耆17万石)ただし、輝政のみが本来徳川氏の家門・譜代大名が配置されるべき畿内、それも西国街道の要衝である姫路52万石を与えられたことは極めて異例。伊賀の藤堂高虎とともに他の外様大名とは一線を画す、別格の大名であった。
「豊臣・徳川の治世と池田輝政」
文献史学の観点から池田輝政の吉田治世を分析します。
輝政は天正18年(1590年)
続いて加藤理文先生
「織豊期の石垣・瓦と吉田城」
どうしてこの先生は石垣のことになると、
鉄櫓下の石垣は輝政築城当時のもので、
なぜか間に歌謡ショーがはさまりました。
歌うのは地元のシンガー Singer久美さん
オリジナルの豊橋ご当地ソング2曲と中島みゆきのカバー曲「糸」
最後は出演者のみなさんによるトークセッション
中井先生が司会をつとめます。
大変中身の濃いディスカッションでしたが、その中で印象に残った話をひとつだけ。
中井先生と加藤先生で輝政はなぜ「テキスイ瓦」を姫路城で使ったのか?という話題になりました。字がわからなかったので、あとで調べました。「滴水瓦」とは瓦の軒に面する部分が逆三角形をしていて屋根に落ちた雨水がしたたり落ちやすい形に作られた瓦のことです。秀吉の朝鮮出兵に参戦した大名たちが築いた城に多く用いられ、熊本城や松本城でもみられます。しかし、輝政は朝鮮へは渡海していないため、なぜだろう?とその場では当然答えはでませんでした。
ことほどさようにマニアックな話題のオンパレードでしたので、この日参加された方々の中で「にわかお城ファン」の人がいたら引いてしまっていたかもしれません。
中井先生が司会をつとめます。
大変中身の濃いディスカッションでしたが、
中井先生と加藤先生で輝政はなぜ「テキスイ瓦」
ことほどさようにマニアックな話題のオンパレードでしたので、
講演前に時間があったので、吉田城を散策しました。
吉田城本丸御殿模型
ロビーに展示されていました。名古屋城本丸御殿に比べれば質素な造りですが、将軍が上洛するときに宿泊するための御殿というのは共通です。吉田城の城主は二の丸御殿に住んでいました。東海道の城にはこのパターンが多いですね。
ロビーに展示されていました。