7月カレンダー(岡山城) | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

7月になりました。今月のカレンダーは岡山城です。


岡山城も先月の高松城と同じく、今年3月に訪問レポートをアップしていますので、お城の紹介は省略します。

今回は前回触れなかった岡山の悲劇のヒロイン、豪姫についてご紹介したいと思います。
豪姫は前田利家と正室まつ(芳春院)の娘で、羽柴(豊臣)秀吉の養女となります。
秀吉は豪姫を大変かわいがり、正室のおね(北政所)にあてた手紙の中で「豪姫が男なら関白にさせたい」「おねより高い位につけてやりたい」などと書いているので、かわいいだけでなく賢い姫だったのでしょう。
そんな豪姫も15歳のとき、岡山城の城主宇喜多秀家の正室として嫁ぎます。
秀家も幼いころから秀吉に目をかけられ、同じく秀吉の養子となっていたことからこの縁組が成立したとされています。
豪姫は岡山城で暮らすようになって「備前御方」のちに「南御方」と呼ばれました。
秀家とは仲睦まじく、二人の間には二男一女が生まれます。
ところが、二人の理解者である秀吉の死後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こります。
秀家は石田三成率いる西軍に味方しますが、敗戦。島津を頼って薩摩へ落ち延びる途中、大坂の備前屋敷で豪姫と対面します。これが二人の今生の別れとなりました。
宇喜多氏は改易されて岡山城も没収され、秀家は薩摩に潜伏していましたが、島津が徳川に降伏したことで、助命を条件に引き渡され、慶長11年(1606年)息子2人とともに八丈島に流罪に処せられます。
豪姫は秀家と同行して八丈島に渡ることを望んだともいわれますが、許されず他家へ嫁ぐこともありませんでした。
しばらくはおね(高台院)のところに身を寄せていましたが、やがて生家である金沢の前田家に引き取られたようです。
一方、八丈島の秀家は毎日の食べるものにも事欠く有様だったようで、窮状を耳にした豪姫は実家の前田家から幕府の許可を得て米や衣類などの仕送りを始めました。
この仕送りは豪姫が亡くなり、秀家が亡くなったあとも子孫たちに向けて明治維新まで続けられたのです。
秀家が八丈島に流されてから30年近くが経過した寛永11年(1634年)豪姫は金沢城で死去します。秀家や息子たちとの再会は叶わぬ夢となってしまいました。
秀家が亡くなったのは豪姫の死後21年たった明暦元年(1655年)のことで、当時としては長寿の84歳でした。
秀家も八丈島での生活は不自由だったようですが、現地妻を置いた記録はなく、一途に豪姫を思い続けたのではないかと思われます。

豪姫はその「豪」という名のとおり勇ましく戦国を生き抜く女性として描かれることが多く、私も未見ですが1992年に公開された映画「豪姫」ではまだ10代の宮沢りえさんが演じて当時話題になりました。


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