遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート9

2019-08-04 | 近・現代詩人論
これが私の古里だ
さやかに風も吹いている

あゝ おまへはなにをして来たのだと
吹き来る風がわたしにいふ



 原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の{四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の{初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている。古里のさわやかな風を唄い、後の二行では東京での無為無頼の生活を自責する可のようにつらい思いを風にたくしている。
 いま、私が中也ノートをつづっているのも、別段新しい発見や多くの著書に対する個人的な主張があるというわけでもない。学生の頃に近代詩を読むようになってから中也を知ったのだから、その魅力に引かれたのは年齢的にもおそい方なのかもしれない。でも一時ははなれていたのだが。

ここで先の「金沢の思ひ出」のその幼年期の感性のきらめきを垣間見ようとおもう。

 「私が金沢にゐいたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違ってゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きな松の樹のある家であった。其の末の樹には、今は泣き弟と或る時叱られて吊りたことがある。幹は大変よく拡がってゐたが、竹派高くない末だつた。」
(中略)ーさらにつづける。
 「金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く
立昇つたことを夢のやうに覚えている。翌日は父と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。
 十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ超した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。
夕方弟と二人で近所の子供があつまつて遊んでいる寺の庭に行つた。却却みんなちかづかなかつたが。そのうちの一人が{名前はなんだ」と訊いた。僕は自分の中也問い府名前がひどくいやだつたものだから「一郎」と小さな声で躊躇の揚句答へた。それを「イチオー」を尋ねた方では聞き違へて「イチオーだ」とみなの物に告げ知らせた。するとみんな芽球に打解けて、「イチオー遊ぼう」と近寄ってくるのであつた。由来金沢にゐるあひだぢう、僕の呼名は「イチオー」であつた。
 (中略)
寺ばかりといつてもいゝやうな待ちに住んでゐたので、葬式は実に沢山見た。
 (中略)ーここでおわります。ー
 この後、神明館という映画館と軽業との話がつづき、「サーカス」の詩がふとおもいおこされた。ここでは、詩人の詩朋や語彙の変化について触れることが出来なかった。



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