鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

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34八代目 雷門助六(1907-1991 かみなりもん すけろく)

(ホトトギス)

 落語名人というより寄席名人という呼び名が相応しい不世出の寄席芸人であったと私は評価している。

 父が落語家(六代目雷門助六)だった関係で幼い頃から舞台に立ち、10歳で落語家になったというから驚きである。21歳の頃には、二代目圓歌八代目柳枝六代目圓生(いずれも後の名)と肩を並べる期待の若手真打ちであったが、27歳の頃心機一転、喜劇俳優に転じ、20年強のブランクを経て戦後、落語界に復帰したという経歴の持ち主である。

 多芸の人で落語の他にかっぽれ、あやつり(自分があやつり人形となる)や住吉踊りなどの日舞、二人羽織や曲芸的な松づくしなど実に見応えのある寄席芸の持ち主であった。

 落語では、「片棒(#63)」「虱茶屋(#224)」「凝り相撲(#256)」「長短」「両国八景」が聴き物、観物であった。

 

【雑学】

 “助六”というのは歌舞伎に登場する“粋”を表現している人物だそうだ。“いなり”と“巻き”を詰め合わせた寿司を“助六寿司”と呼ぶが、これは助六の愛人の花魁・揚巻という女性に由来しているそうだ。揚げ→油揚げ→いなり寿司、巻→海苔巻き→巻き寿司という連想で、2つを詰め合わせたものを助六寿司と呼ぶようになったとのことである。

 

35六代目 三升家小勝(1908-1971 みますや こかつ)

 22歳で八代目文楽に入門、水道局技師から落語家に転じた変わり種で、当時では珍しい大学出であった。レコード会社の専属ともなり、実務経験を活かした「水道のゴム屋」という自作ものが大ヒットし、一躍売れっ子になったという。明るくスマートな高座で古典と新作の双方を演じ、両刀使いと言われた。

 レコードとして口演が多く残されていた関係で、「水道のゴム屋」を始めとして「お茶汲み」「妻の釣」「未練の夫婦」「三国志」「操縦日記」など今では高座に掛けられない噺もCDで聴くことが出来るようだから、是非味わってみたいものである。私は「初天神(#124)」がお気に入りである。

 

(ムラサキシキブ)

 

36初代 昔々亭桃太郎(1910-1970 せきせきてい ももたろう)

(ミモザ)

 “えー、桃太郎さんでございます”と高座の冒頭に話すのがキャッチフレーズだった。初代金語楼とは9歳違いの実弟という関係にある。

 丁稚奉公の後、兄の影響で16歳で落語家になる。新作や古典の改作で、また兄の映画にも出演して人気者となり、将来を嘱望された。だが、太平洋戦争に応召しその後抑留されたことによる活動ブランクが大きく影響してか、戦後はパッとしなかったと言う。何故か、落語界から孤立した存在であったようだ。

 特筆すべき高座はあまりないように思うが、「お好み床」「石鹸(酢豆腐の改作 #34)」「新聞記事(阿弥陀池の改作 #46)」が代表作と言えよう。

 戦前戦後のとかく暗くなりがちであった日本人に、兄と共に上品な笑いを提供し元気づけた功績は大きいものがあったと私は思う。彼の笑顔に温もりを感じた日本人は多かったことであろう。

 

37五代目 柳家小さん(1915-2002 やなぎや こさん)

(モクレン)

  “永谷園のお味噌汁のCM”、“自宅に剣道の道場”、“狸を連想させる人”、“落語界初の人間国宝”、即座に思いつく五代目小さんの人物イメージである。

 会社勤めをしながら落語家を目指し、18歳で入門。徴兵時には二・二六事件で反乱部隊の一兵卒として出動したという話が有名である。

 好きな道であったのであろう、研さんを積んで多くのネタを身に付けて人気者となり、六代目圓生と並ぶ東京落語界の第一人者にまで上り詰めた。芸域の広かった六代目圓生に比べ、滑稽噺に特化していた感があるが聴き手に安心感を与える持ち前の話術と明るいキャラクターが大きな要因であったろう。そして1995年に落語界初の人間国宝に指定された。古典芸能の中で地位が低かった落語の文化度を高めたことが認められたという画期的な出来事であったと私は思う。

 肚の大きい、偉ぶらない、人情に厚い大らかな性格が人望を集め、7代目落語協会長に推挙され、以来四半世紀に亘って会長として東京落語界を牽引した。また、弟子も多く集まり、孫弟子も含めて今でも大きなグループを形成している。四代目柳家小せん五代目柳家つばめ七代目立川談志十代目柳家小三治九代目鈴々舎馬風などの実力者・人気者の弟子を育て、彼以降の歴代の協会長も一門から多く輩出し、今なお大きな影響力を有している。なお、息子が六代目を継ぎ、孫は柳家花緑という落語一家である。

 得意ネタは絞り込むのが難しいが、うどんを食べる所作が絶品であった「うどん屋(#83)」、滑稽ものの代表作「粗忽長屋(#293)」「粗忽の使者(#38)」、容貌が狸に似ていたことから臨場感が抜群の「狸(狸賽 #206)」「化物使い(#23)」それに「千早振る(#73)」「真っ二つ(#236)」「試し酒(#94)」を挙げておく。

 

38三代目 三遊亭歌笑(1916-1950 さんゆうてい かしょう)

(ゲッカビジン)

 “歌笑純情詩集”で一世を風靡した、短命の芸人であった。

生まれつきの強度の斜視と弱視で劣等感にさいなまれ、20歳の頃、落語に生甲斐を見い出そうとして三代目金馬に弟子入りした(後に二代目圓歌の下に移る)。残されている音源から見ると、落語家と言うより漫談家に近い芸人であった。彼が産み出した七五調のリズミカルな詩である“歌笑純情詩集”が戦後間もない日本人の心に潤いを与えたのであった。

 だが、人気絶頂期の戦後間もない1950年に、銀座で進駐軍のジープに轢かれて僅か33年間の短い人生を閉じるという数奇な人生が待ち受けていたのであった。弱視が大きく影響したことは想像に難くない。

 古典ものを演じたのかどうかは知らないが音源は残されてはいないようで、「音楽花電車」「スポーツショー」「妻を語る」など創作ものが5枚のレコードとして残されており、今ではCDとして聴くことができるようである。ライバルで親友でもあったという四代目痴楽「痴楽綴り方狂室」は彼の詩集の影響を受けたものと言えよう。落語ファンのみならず落語家の間でも注目を集めた芸人であったようだ。

 

【雑学】

 交通事故死した芸人は何故かいつまでも記憶に残っている。突然の死だけに衝撃が大きかったからであろうか。他には私の知る範囲で、ジェームズ・ディーン(俳優 1955年死)、高橋貞二(俳優 1959)、赤木圭一郎(俳優 1961)、佐田啓二(俳優 1964)、八波むと志(コメディアン 1964)、四代目林家小染(落語家 1984)、若井けんじ(漫才師 1987)がいる。

 

#296 私の落語家列伝(1)

 

 

#298 私の落語家列伝(2)

 

 

#300 私の落語家列伝(3)

 

 

#304 私の落語家列伝(4)

 

 

#307 私の落語家列伝(5)

 

 

#309 私の落語家列伝(6)

 

 

#311 私の落語家列伝(7)

 

 

 

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 「おい、永くんじゃないか、浮かない顔してどうした?」「このところ、みたいものをみないんだ」「眼でも悪くしたのかい?」「“みたい”の上に“の”を付けるんだ」「“の”?“のみたい” なんだ飲みたいのか。だったら買って飲めばいいじゃないか」「俺、奢ってもらうのが好き」「ケチな野郎だ。よし、タダで酒が飲める所を教えてやる。一丁目の工藤さんを知ってるだろう?」「高校の先生をしてる?」「そうだ、熱烈な釣りキチだから、訪ねて行って釣りの話に巻き込んだらきっと酒が出るよ」「そうか、でも俺は釣りはやったことがないよ」「大丈夫、相槌を打って聴くだけでいいんだよ。但し、相手の興が乗るようにオーバーアクションを見せて真剣に聴いてる態度を見せることが大切だよ。乗らせると酒が出やすくなるからね」「わかった、有難う。早速行ってみるよ」。

 

 「今晩は、中村と申します。ご主人はおられますか?」「はい、在宅でございます」「そうですか、残念だな。(飲み損ねた)、出直します」「いえ、主人はおりますが」「なんだ、おられるんですか、ドイツ語なんか使って。(良かった、これで飲める)」「は?。あなた、中村様がお見えになりましたよ」「中村さん? あの永さんかな?ああ、やっぱりそうだ。よく来てくれました。まあまあお上がり下さい」「今日はお酒をご馳走に…、いえ、釣りのお話を聴きに参りました」「おや?あなたも釣りをやられますか。この前も釣り友達と一晩中語り明かしましたよ、お茶を飲みながら」「えッ!お茶ですか?酒でなくて」「酒がお好きなようですから1本つけますよ。先ずはビールといきますか。おーい、ビールを出しておくれ」「思ったより早かった」「はあ?何か? 私はコップ一杯で顔が真っ赤になる弱い方でして」「私も一杯で真っ赤になり、二杯で心臓がドキドキしますが、三杯目からは何杯でも飲めます」「そうですか、私はあまり飲めませんが遠慮なくやってください」。

 

 「ところで、いつもは何処へ行かれます?」「東京の丸の内です」「いえ、勤め先でなく釣りの場所ですよ。大きな川ですか?」「はい、アマゾン河で」「?? そんなに遠くへ?」「いえ、…あっちこっちの川です」「好きなお魚は?」「刺身です」「?? 竿は何本お持ちですか?」「3本ほど」「大切にされているんでしょうね?」「いえ、いつも物干し台に掛け放しです」「いえ、釣りの竿のことですよ。逃がした魚は大きいと言いますが、ご経験はおありでしょう?」「ええ、この前はメダカを逃がしましてね、鯨に見えましたよ」「??」。話疲れがしてきた永さん、「この辺で釣りの話は止めて歌でも唄いましょう」と都々逸を唄い、ピーナッツの曲食いを披露する。

 

 「失礼ですが、永さんはキス(鱚)のご経験はおありですか?」「それ位は…」「何処で?」「場所は決めていませんが、強いて言えば暗がりで…」「お独りで?」「いえ、家内などと」「ほお、奥様もお好きですか?」「まあ、ほどほどに」「今度、私とやりませんか?」「えッ!先生と?私、そんな趣味はありません」「永さん、口づけと間違えていませんか?魚の鱚ですよ」「なーんだ、魚か。でも先生、間違いではありませんよ」「どうしてです?」「はい、魚にも愛(鮎)もあれば恋(鯉)もあります」。

 

 上記の筋書きは、ピカピカの禿げ頭を看板にしてテレビの全盛期1990年代に石鹸のCM等で人気を博した三代目三遊亭圓右の高座から書き写した「釣りの酒(つりのさけ)」という新作の滑稽噺である。

 

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29七代目 橘家圓蔵(1902-1980 たちばなや えんぞう)

(アメフリソウ)

 転職を繰り返し、21歳で八代目文楽に弟子入りしたというから当時としては遅かった方である。だがその後も一言居士が災いしてか、師匠と衝突して破門されて幇間になったり再入門したりと波乱の経歴の持ち主であったようだ。

新作を得意としたという情報があるが“私のライブラリー”には「紙屑屋(#264)」「甲府い(#55)」「高尾(反魂香)」「袈裟御前」などの古典ばかりで、中でも「芝浜(#109)」はなかなかの出来である。江戸落語に古き良き時代を見たようで、マクラで当世をぼやいたり皮肉ったりしていた。また、噺の途中で横道へそれることも観られ、弟子の初代三平八代目圓蔵に通じるものを感じさせる。他には「子別れ(#44)」を持ちネタにしたようで江戸落語を得意とした、ちょっと気難しい噺上手であったかと私は思う。

 

30四代目 三遊亭圓遊(1902-1984 さんゆうてい えんゆう)

(サザンカ)

 軽快な語り口調で江戸風の粋を感じさせた噺家であった。笑顔を絶やさない気さくな性格で楽屋でも人気があったと言う。弟子筋にはあまり恵まれなかったが、高座はもとより落語芸術協会の大御所としても落語界の興隆に貢献した人であった。

持ちネタは滑稽噺中心であったと思われ、古典の「かつぎや(#110)」「二番煎じ(#104)」「野ざらし(#248)」「湯屋番(#160)」は絶品で、「長屋の算術」「抜け裏」などの新作も残されている。芸域は広い方とは言えないが名人の域に達していた落語家であったと私は評価している。

 

31九代目 鈴々舎馬風(1904-1963 れいれいしゃ ばふう)

(チョウセンアサガオ)

 高座に上がるや、「よく来たな、他に行く所はなかったのかい。よく遊んでいられるな、早くお帰りよ」と客を叱るのを常套とした毒舌落語家であった。もっともこれはギャグで、その直後に「嘘だよ! ちょっと言い過ぎたな。ゆっくりと遊んでいって下さい」と頭を下げる愛嬌家でもあった。客も心得たもので、叱られるのを楽しみに寄席へ来たようであった。当時としては珍しく知性派で、トピックスをネタにした時事落語で一世を風靡した人気者であったと言う。“私のライブラリー”には「夏の風物詩」「権兵衛狸(#252)」があるだけで、彼の値打ちを評価することはできないが、ぼやき芸人の元祖と言われ、古典の改作を得意ネタとしたワルタイプの落語家であったようだ。

なお、どっちでもいいことだが、本人は九代目を名乗っていたが実際は四代目に当たるそうである。当代もこれを引き継いで十代目を名乗っており、毒舌も受け継いでいる。

 

32八代目 春風亭柳枝(1905-1959 しゅんぷうてい りゅうし)

 軽快な語り口は耳に心地良く、安定した実力の持ち主であったと評価している。温厚誠実な人であったそうで、弟子の三遊亭圓彌六代目三遊亭圓窓もマスコミに登場するなど名を成したが地味なタイプで、真面目タイプの師弟一門という感がある。

持ちネタは多い方と思われ、「王子の狐(#165)」「甲府い(#55)」「山号寺号(#8)」「垂乳根(#178)」「四段目(#14)」「五月幟(#191)」「元犬」など馴染みの噺を得意としたようである。

(ツワブキ)

 

33三代目 林家染丸(1906-1968 はやしや そめまる)

(ヒマワリ)

 布袋さんと恵比須さんを合わせた風貌が何とも印象的な、いつも笑顔の人であった。私が彼を初めて見たのはテレビ番組「素人名人会」(1960-2002年放映の長寿番組 毎日放送)の審査員としてであった。風貌と喋りとで茶の間の人気者となった。

 経歴を見ると、少年の頃に両親と死別し、丁稚や事業家など色んな仕事をし、苦労したようである。幼い頃から義太夫の素養はあったが落語家として芸人をスタートさせたのは26歳であったから遅い方で、太平洋戦争を挟んで実業家と落語家の兼業であったようだ。

話芸の実力については、私は名人級と評価しているが専門家の目からは稽古不足で大衆に迎合し過ぎという評価が専らのようである。当初は“上方四天王(#294参照)”に彼を含めて“上方落語五人男”と呼ばれていたが後に外されたようである。三代目米朝は彼をあまり評価していなかったがその弟子の二代目枝雀は彼に憧れていたと言う。同業者でも意見が分かれている。難しいことは抜きにして大衆にとにかく笑いを与えることが彼の落語哲学であったのかも知れない。

 1957年に、上方落語協会の設立に際しては初代会長に推された(#294参照)。“上方落語五人男”の中の最年長者であったことと豊富な実業経験がその理由であったようで、芸の力から推されたものではなかったようである。素質を持ちながらも稽古不足で終わった落語家というところであろうか。いずれにしても上方落語を聴く上で外せない一人である。

 日常の生活は高座の顔とは打って変わって厳しい人で、弟子たちはピリピリしていたが、その一方で、人情に厚い人でもあったと言う。

 得意ネタは義太夫を活かした「堀川」「片袖」の音曲噺それに幇間ないしはお調子者が登場する滑稽噺「猿後家(#310)」「幇間腹(#251)」「ふぐ鍋(#116)」「源兵衛玉」「莨の火」などと言われている。前者の音曲噺は私は聴いたことがないので何とも言えないが、後者は彼の風貌が幇間を連想させる関係で、地で演じている臨場感があって確かに聴き物である。

 

 

#296 私の落語家列伝(1)

 

 

#298 私の落語家列伝(2)

 

 

#300 私の落語家列伝(3)

 

 

#304 私の落語家列伝(4)

 

 

#307 私の落語家列伝(5)

 

 

#309 私の落語家列伝(6)

 

 

 

 

 

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 川上屋という大店の後家さん、後ろ姿は美しいが前へ廻ると猿そっくりの皺くちゃの赤い顔をしており、当人もいたく気にし、劣等感を持っている。店では“さる”という言葉は禁句になっており、奉公人全員、ピリピリしている。今日も外ですれ違った見知らぬ男に「わあッ! お猿さんそっくりや」と言われ、大泣きして家へ帰って来た。店の女中が「お内儀(かみ)さんはちっとも猿に似ていません」と慰める。「そうかい?」「はい、猿がお内儀さんに似てるんです」。即刻この女中は首になった。

 

 川上屋へ出入りしている太兵衛(たへえ)という男、おべんちゃら上手でお内儀に気に入られ、酒食の接待を受けたりお小遣いを貰ったりしている。お内儀を褒めるのが仕事という位のごますり男である。「こんにちは」「まあ、太兵衛さん、よう来てくれました。これ、賄い方、鰻を焼いて一本付けなはれ」「どうぞお構いなく。今日はまた一段とお美しい。大津絵の藤娘かと見紛うほどです」「まあ、お口が上手い。で、今日は?」「はい、今度仲間とお伊勢参りに行くことになりまして、道案内役ですので抜けることができません。で、4、5日顔が出せませんのでお許しを乞いに参りました」「まあ、それはご丁寧に。神信心を止めると罰が当たると言いますから止めませんよ。これは餞別です、取っておきなさい。これ、店の者たち、皆も餞別を出しなさい」。太兵衛は上々の首尾で旅立って行った。

 

 4日後、太兵衛が土産を持って川上屋を訪れた。「まあ、太兵衛、寂しかったやないの、お帰り。これ、太兵衛さんが見えたで、早う鰻を焼いて1本つけてお上げなさい!」とお内儀が奥へ向かって嬉々として命じる。太兵衛が一通りお詣りの様子を報告した後に、「今年は帰り道に奈良を見物して来ました」と切り出した。お内儀が行ったことがないと言うので、南円堂に始まって奈良公園近辺の観光名所の案内をとうとうと話し始めた。

 

(猿沢池・奈良 2002年)

 

 「……、春日大社、灯籠の多い所でございます。ここをちょっと参りますとのの字の形をした池がございまして、魚半分水半分、竜宮まで届くという猿沢の池でございます」「何やて!? ちょっと待ちなはれ、太兵衛。もう一度池の名前を言うてごらん」「池の名? さる、さ、さ、しもうた!」「この恩知らず奴が!! 私の前でそんな名前がよう言えたもんや。もう、出入り禁止や! これ、誰か! 太兵衛に煮え湯を浴びせて追い出しておしまい!」。太兵衛は方々の体で逃げ帰った。

 

(春日大社・奈良 2009年)

 

 後日、太兵衛は番頭に取り成しを頼む。出入りが禁止されては妻子を養うことができなくなるからであった。番頭は以前にも“さる”という言葉を失言して出入りが禁止された手伝いの又兵衛の話をする。

彼は「ある大家(たいけ)」を「さる大家(たいけ)」と言ったばっかりにしくじったということであった。だが彼は、数日後に美人の錦絵を持って訪れ、「お内儀さんによく似たこの錦絵を壁に貼って毎日お詫びを申し上げています」と弁明し、出入りを再度許されたということであった。もっとも、その後で又兵衛は「川上屋さんをしくじったら木から落ちた猿も同然です」と失言してまたしくじったという話ではあった。

 

 

 太兵衛は番頭に昔の有名な美人の名を教えてもらい、川上屋を訪れる。「先日は失礼いたしました。実は、奈良のあの池は深いので傍に立つとゾッーと寒気がするので、“寒そうの池”と言ったのです」と誤魔化す。お内儀は「なんや、私の聞き間違いかいな。許すさかい、また、出入りしいや」「有難うございます。ところで、お内儀を昔の美人に例えますと…」「もうそんなおべんちゃらはええで…」「我が朝では小野小町か照手姫(てるてひめ)はたまた衣通姫(そとおりひめ)、唐(もろこし)では玄宗皇帝の想い者の…」「想い者の一体誰に似ていると言うんや?」「はい、ようひひ(楊貴妃)に似ておられます」。口は禍の元、太兵衛さん、また、しくじりました。

三代目林家染丸が十八番とした「猿後家(さるごけ)」という滑稽噺で、代表的な上方噺の一つである。言い立て(奈良公園周辺の観光案内)に出てくる奈良の名所は、南円堂 北円堂 興福寺 東大寺 手向山八幡宮 三笠山 春日大社 猿沢池である。参考までに記しておく。この他にも猿沢池の近くに在って町並みの風情が楽しめる“ならまち”もお薦めである。なお、猿沢池は興福寺が生き物を放した人工の放生池で、亀が観察できる。

 

(ならまち・奈良 2002年)

 

 

 

 

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25四代目 三遊亭圓馬(1899-1984 さんゆうてい えんば)

 私のライブラリーには「須磨の浦風(#210)」「にゅう」「棒屋」というマイナーなものしかないが、踊りや二人羽織というお座敷芸を得意とした人気者であったようだ。東京落語界に籍を置きながら上方でも活躍したこともあり、三代目三遊亭遊三を始めとして弟子が多く集まり、現在でも一つのグループを形成している。「淀五郎(#246)」「宮戸川」を得意としたようである。

1960年代ではまだお座敷での宴会が主流で隠し芸がよく観られたものである。三味線を伴奏にした小唄や都々逸、香具師の口上などと共に二人羽織も人気があった。

 

(ハギ)

 

26六代目 三遊亭円生(1900-1979 さんゆうてい えんしょう)

(アジサイ)

 

私の好きな落語家十指に入る一人である。高座の冒頭に音を立ててお茶を飲むのがトレードマークで、淀みない明快な語り口調が魅力的であった。ジャンルは人情、滑稽、芝居、怪談、音曲噺と幅広く、持ちネタの多さはトップクラスの名人であった。また、著書も多くあり、端正な顔立ちの文学博士というイメージであった。

大阪市の名主家の女中の子に生まれたが実子として育てられ、幼少の頃から義太夫の稽古をさせられた。だが、家は没落、両親は離婚し、母と二人で義太夫芸人として生計を立てることになる。この頃から聞き覚えた落語を舞台でも披露するようになっていた。評判がよく、9歳の頃落語家に転身した。師匠は母の再婚相手の五代目三遊亭圓生であった。この芸歴の長さと記憶力の良さから300題とも言われた持ちネタの多さが彼の財産であった。

戦後に一挙に芽が出て五代目志ん生らと並ぶ第一人者となり、1973年には昭和天皇に呼ばれて御前落語を演じた。演目は「お神酒徳利(#91)」であった。芸に厳しい人で、1978年、落語協会の真打ち大量昇進に反対して協会を脱退し、“三遊協会”を設立した(現在も“圓楽一門会”として引き継がれている)。

得意ネタを選ぶのは難作業であるが「鰻の幇間(#180)」「火事息子(#174)」「小間物屋政談(#179)」「子別れ(#44)」「唐茄子屋(#19)」「鼠穴(#125)」「妾馬(#170)」「淀五郎(#246)」「豊竹屋」それに圓朝作の怪談噺を挙げておく。人情噺と義太夫で鍛えた喉を活かした音曲噺に彼の真骨頂が観られる。

習志野市の商業施設の一角で開かれた彼の後援会で小品の「桜鯛(#155)」を演じた後に倒れてそのまま帰らぬ人となった。幾多の大舞台を踏み、幾多の大ネタをも自家薬籠中の物とした彼とはあまりにも対照的な最期が語り草となっている。

 

27初代 柳家金語楼(1901-1972 やなぎや きんごろう)

(チューリップ)

 

私が知っている金語楼はエノケン(榎本健一)と並ぶ喜劇俳優としてであって、落語家であったことは知らなかった。彼を知ったのは、剥げ頭の芸人を売りにして、テレビの草創期に「ジェスチャー(1953年放映開始)」や「おトラさん(1956年放映開始)」で、また、映画で超人気者となっていた金語楼であった。彼は1942年に落語家を廃業していたと言うから、私が落語に興味を持った頃には既に廃業していたのであった。

 だが、廃業しても落語と縁を切ったわけではなく、有崎勉というペンネームで多くの新作落語を創作し、彼が六代目柳橋と一緒になって立ち上げた落語芸術協会の会員に提供を続けたのであった。

 “私のライブラリー”には「きゃいのう(「団五兵衛」の改作)」「身投げ屋」の2席、それに自分の軍隊時代を漫談風に話した「落語家と戦友」「落語家の兵隊」があるだけで、特に聴き物はない。他に、「我が生い立ちの記」という50分に及ぶ一席というか随談があり、金語楼ファンには必聴ものである。

 

彼は正に多才な人で、劇作家でもあり発明家でもあった。児童が体操の時に被る赤白帽と爪楊枝の頭の切り込みは彼が発明したものである。

 なお余談だが、1960年前後に平尾昌晃、ミッキー・カーチスと共にロカビリーブームを巻き起こした山下敬二郎は彼の息子である。

 

28三代目 桂三木助(1902-1961 かつら みきすけ)

十代後半に落語家となったが博打にのめり込み、“橘ノ圓”という高座名より“隼の七”という博徒名の方が有名であったという。好きな女性が現れ、落語家として名を成したら結婚させてやると言われて心機一転、落語に打ち込んだ。そして、それまでの自分の生き様を反映したかのような心情で演じた「芝浜(#109)」で人気が爆発し、念願の結婚もできたという根性の人であった。

後年は実力を発揮して名人の域にまで達し、六代目柳橋と共にNHKラジオの“とんち教室”のレギュラーともなったから頭の回転の速い人だったのだろう。後に売れっ子になる九代目入船亭扇橋林家木久扇ら多くの弟子を育てた功績も大きい。

最後の高座は「三井の大黒(#161)」「ねずみ(#198)」も彼の代表作と言われており、左甚五郎が好きだったようである。名人級の中では残されている音源が極端に少なく、40演目位に止まっているというのが残念である。上述の他では「たがや(#207)」「竃幽霊(#249)」「味噌蔵(#135)」、小品の「加賀の千代(#164)」、文芸ものの「左の腕(#151)」がお薦めである。

 

(アガパンサス)

 

#296 私の落語家列伝(1)

 

 

 

#298 私の落語家列伝(2)

 

 

 

#300 私の落語家列伝(3)

 

 

 

#304 私の落語家列伝(4)

 

 

 

#307 和足の落語家列伝(5)

 

 

 

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