#269 猫化け騒動記 ~「猫忠」~ | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

義経に最後まで忠実に仕えた鎌倉時代の武将・佐藤忠信を扱った演目がジャンルの異なる古典芸能でいくつか見られる。即ち、能の「忠信」、文楽の「義経千本桜」そして落語の「猫忠」である。

“能の「忠信」”は、

吉野山中に身を潜めていた義経を僧兵たちが夜討にやって来た時、弓を持って獅子奮迅の活躍で義経を護ろうとした忠信を勇壮に描いている。ほぼ史実に近い筋書きと言われている。

“文楽の「義経千本桜」”は、

 狐が忠信に化けて現れる。静御前が義経から賜って大切にしている“初音の鼓”を奪いに来たのだ。その理由を訊くと、「自分はその鼓の革に使われている狐の子だ」と打ち明ける。人間から狐への早変わりなどアクロバティックな動きが見所となっている。

 

以上が能と文楽のざっとしたシナリオであるが、落語「猫忠(ねこただ)」の筋書きはどうなっているか、上方落語を牽引した初代橘ノ円都の高座で聴いてみよう。上方では「猫の忠信」という演目になっている。

 浄瑠璃「義経千本桜」の発表会が近づき、駿河屋の次郎吉が師匠のお静さんの家へ久し振りに稽古に赴くと、主役の忠信を割り振られた吉野屋の常丸が師匠と差し向かいで一杯やっている。当然にこの役は自分に振られると思い込んでいた次郎吉は、「成程!そういうことだったのか」と配役に合点すると共に妬みからこのことを常丸の焼餅焼きの女房に告げ口をしに行く。

 

これを聞いた女房は怒りを抑えながら「冗談でしょう?」と訊き返す。「嘘ではないよ。今、私が見てきたところだから」と次郎吉が答えると、「やっぱり冗談だね。うちの主(ひと)は今昼寝をしていますよ」と女房が笑い出す。これを聞いていた常丸が起き出してきて、「他人の家に波風を立てるなよ」と文句を言う。

 

狐につままれた次郎吉は常丸を伴って師匠宅へ行き、そっと覗くと、やっぱり常丸と師匠が差しつ差されつでいちゃついている。「これは狐狸妖怪の仕業に違いない」と判断した常丸は座敷へ飛び込み、偽常丸の手を調べると、果たして5本の指はなく丸くなっている。正体がばれた化物は身の上話をする(ここから先は芝居風に演じられ、聴きどころとなっている)。

 それによると、化物の正体は仔猫で、殺された父母の皮で作られた三味線がこの家にあると知ったので父母恋しさに会いに来たということであった。

 

これを聞いた次郎吉、「皆さん、今度の会は上手くいくという吉兆だよ。出し物が千本桜だろう、猫がただ酒を飲んでただ飲む(忠信)、私が次郎吉で駿河の次郎、吉野屋の常さんが吉常(義経)、師匠がお静さんで静御前というわけだ」と言う。これを聞いた師匠が「いやですよ、私みたいなお多福に静御前が似合うものかね」と謙遜すると、仔猫が「ニヤーウ(似合う)」。

 

最後の部分は“義経千本桜”の筋書きを知らない人には今一つ理解出来ないであろう。この部分が言いたくて作られた感の強い怪談風芝居噺である。ただ、登場人物名はあまりにも作為的に過ぎ、大ネタだが傑作とは言い難い。

主人公が実在の人物であったり、狐であったり、猫であったりと正に三者三様に扱われており、こうした比較鑑賞も一興であろう。なお、“義経千本桜”は歌舞伎の演目にもなっている。

 

 

伝統芸能には他にも歌舞伎、浪曲、講談、漫才と大衆から見放された芸能がある。日本の文化だからあるいは伝統があるからと何がなんでも守って行かなければならないものなのか、難しい問題である。時代の流れに合わず、人の心に訴えるものがなくなった芸能は淘汰されていくのが自然の摂理であろう。迎合する必要はないが常に大衆目線で芸に精進することが大切であると私は思う。落語とて現在の人気に慢心してはならない。