#270 用語の曖昧さをついた噺 ~「日和違い」~ | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

「雨が降る」という天気予報を聞くとコンビニなどでは傘の売り場を急きょ設けるということはこれまでにも行われていたが、最近は雨に限らず天候に関する情報を細かに収集して商品の仕入れや陳列に活かそうという動きが小売店で活発になっているそうである。限られた商品陳列スペースを有効に使い、販売の機会損失と売れ残り品を少なくしようというマーケティングという手法である。ただ、50年に一度という気象が多発する昨今、これまでの経験則が通用しなくなっており、予測も難しくなっていると言えようか。

異常気象に関するニュースが流れない日はないくらい地球の近い将来に不安を覚える昨今である。気象が以前のように一定の変化を繰り返す日は帰って来るのであろうか。

 天候を扱った「日和違い(ひよりちがい)」という滑稽噺を聴いて気候の安定化を祈ろう。

 喜六が友達の辰ちゃん宅を訪ね、「これから用事で出掛けるところだ。今は曇っているが雨は大丈夫だろうか?」と尋ねる。辰は、「俺は職人で天気のことはわからんし、忙しくてお前の相手をしている暇はない、裏の易者にでも卦を立ててもらったらどうだ」とにべもなく追い返す。仕方なく易者宅へ行き、今日の天気を占ってもらうと、「今日は降るような日和ではない」と易者は言う。

 

「そうか雨は降らないか」と安心して出掛けた途端、雲行きが怪しくなって来て、ポツリ、ポツリと降り出したかと思うと、アッという間に大雨になった。米屋の軒先を借りて雨宿りをしながらヘボ易者のことを大声で罵っていると、「母が病気で臥せっていますから静かにして下さい」と主人が出て来て、「止みそうにないですな」と言う。喜六が傘を貸してくれるか一晩泊めてくれるかと頼むが主人は断り、「幸い家に米俵がありますのでこれを切って上げますから被って行きなさい」と俄か合羽を作ってくれる。

 

帰宅して易者の家へ行き、「米俵の代金まで取られ、えらい目に会いました」と文句を言うと、「それはあなたの聞き違いだ。私は『今日は降るような、日和ではない』つまり雨が降ると言ったのだ」と答える。「エッ!“日和”の前で切るんですか」と喜六は引き下がる。

4、5日後、喜六が再び用事で出掛け、行く先々で天気を訊ねる。お菓子屋に立ち寄って「あめでっしゃろか?」「いえ、これは砂糖で、有平糖というものです」、桶屋に寄って「ふろうかいね」「いえ、これは盥(たらい)です」、通り掛った魚屋に「大ぶりかな」「さわらならあります。切りましょうか?」「さわら(俵)切るほど降りはしまい」。

 

 言葉の曖昧さをネタにした、出来のよくない言葉遊びの上方落語であるが、“日和”、“天気”という言葉の使われ方は曖昧なところがあるのは同感である。そこを突いたのはさすがに落語であると同慶を覚えるところである。因みに“日和”は空模様、天候という意味が一般的であるが、“よい天候”を意味する使い方もあるようだから易者の用法も間違ってはいないと言える。

 

 

 

 

 

 

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