#307 私の落語家列伝(5) ―拙ブログ#296参照― | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

20二代目 桂枝太郎(1895-1978 かつら えだたろう)

(ツバキ)

薬科大学生から落語家に転身した変わり種で、“インテリの枝太郎”と呼ばれた。明快な語り口調で新作ものに特化した落語家であった。「アドバルーン」「自家用車」が代表作であろう。彼が日本芸術協会(現:落語芸術協会)の幹部であった時、浅草演芸ホール(写真)の設立に奔走し、実現させたと聞く。落語定席の誕生はその後の落語界の発展に大きく寄与したことは間違いなく、彼の功績は大きいと言えよう。刑務所など更生施設へ訪問して落語を披露し、篤志面接委員として更生に尽力したそうである。川柳と都々逸作家でもあったそうだから、落語への情熱と併せ、粋人であったと言えよう。

 

21八代目 林家正蔵(最後は林家彦六)(1895-1982 はやしや しょうぞう)

死去するまでの最後の1年間は借りていた“八代目正蔵”を海老名家へ返して林家彦六を名乗った。“トンガリの正蔵”と綽名され、曲ったことが大嫌いですぐにカッとなる、怪談噺と芝居噺を得意ネタとした正に噺家であった。死ぬまで現役を通し、かくしゃくとした高座を見せたという。

 落語家らしくない、いつも気難しい顔をした取っつき難い人であったので私は長らく敬遠していた。彼を聴いたのは21世紀に入ってからで、NHKの“ラジオ名人寄席(1996~2008年)”を聴くようになってからであった。落語家と言うよりは味のあるいわゆる語部(かたりべ)の名手というべき人で、その分、客を選ぶところがあったのではないかと私は思う。

 弟子の林家木久扇がこんなエピソードを語っていた。「師匠、お餅にはなんでカビが生えるんでしょうね?」「バカヤロー、そんなことも分からねえのか! 早く食わねえからだよ」、人柄がよく表現されている逸話である。

 得意ネタは圓朝作の怪談噺全般、「淀五郎(#246)」「中村仲蔵(#235)」という芝居噺、「五月雨坊主(#202)」「笠と赤い風車(#36)」という文芸もの、それに「一眼国(#74)」「ぞろぞろ(#216)」「藁人形(#218)」といったところであろうか。

(シャガ)

 

22八代目 三笑亭可楽(1897-1964 さんしょうてい からく)

(ツツジ)

苦虫を噛み潰したような顔をし、陰気に喋る地味なというか玄人好みの落語家であった。歌手のフランク永井が大のファンであったという話が伝えられている。媚やへつらいが大嫌いで仲間内での衝突が多かった為に実力が過小評価されたきらいがあったという。晩年になって、八代目文楽六代目円生五代目小さん八代目正蔵らの名人級と同等の扱いを受けることになった矢先に他界した、不運な落語家であった。

 低くて舌足らずで早口の籠った声は聞き取り難く、私はほとんど敬遠していた。短気からか古典の長い名作をコンパクトに演じる傾向が観られ、それなりに存在感がありそうである。「らくだ(#126)」「二番煎じ(#104)」「三方一両損(#138)」「反魂香」「猫の災難(#95)」などが代表作と言えよう。

 

23五代目 古今亭今輔(1898-1976 ここんてい いますけ)

持ち前のだみ声を活かして演じた「青空おばあさん」「お婆さん三代姿」や「くず湯」のいわゆるお婆さんもので一世を風靡した噺家である。新作ものを中心に古典も演じた芸域の広い語部だったと私は位置付けている。「霜夜狸(#134)」「もう半分(#87)」「ラーメン屋」は絶品で「おいてけ堀」「囃子長屋」や圓朝作の「塩原多助一代記」などが代表作と言えよう。

落語芸術協会の第2代会長も務め、弟子の四代目米丸、孫弟子の歌丸もその後の会長を務める等落語界に大きな影響力を持った人であった。

(レンギョウ)

 

24六代目 春風亭柳橋(1899-1979 しゅんぷうてい りゅうきょう)

私が六代目柳橋を初めて知ったのはNHKのラジオ番組「とんち教室(1949-1968年放送)」であった。この番組は大喜利の嚆矢とも言うべきもので、会社経営者、作家、漫画家、漫談家など各界の有名人が生徒(先生は青木一雄アナウンサー)となって言葉遊びを楽しんだ娯楽番組で、これに落語家では六代目柳橋と三代目桂三木助が出演していたのであった。二人は頭の回転が速く、人気もあったのであろう。

「~でありましてな」「~と申しますで」が口癖のゆっくりと落ち着いて話す落語家で、「蒟蒻問答」は絶品であった。「長屋の花見(#157)」「時そば(#88)」「天災(#66)」もまずこの人で聴きたい。「掛取り早慶戦(“掛取万歳”の改作 #108)」では応援歌の“都の西北”などを披露しており、歌好きであったようだ。

1930年に落語協会の古い体質に落語界の将来を案じて脱会し、日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を立ち上げ、初代会長に就任した。以来44年間も会長職に在ったという政治・経営手腕も持った人であった。六代目柳橋一門は有能な弟子や孫弟子を輩出し、東京落語界の隆盛に大きく貢献した人であった。

(ハナミズキ)

 

#296 私の落語家列伝(1)

 

 

 

#298 私の落語家列伝(2)

 

 

 

#300 私の落語家列伝(3)

 

 

 

#304 私の落語家列伝(4)

 

 

 

 

 

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