いよいよ秋らしい気候になってきた。

こうやって涼しくなって来ると何故かあの暑い夏を惜しむような気持ちが生まれてくる。

灼熱地獄のあの炎天に何の未練など無いようにも思えるのだが、物寂しい秋の訪れが心を感傷に浸らせ、過ぎ去りし日の追憶を呼び起こしてしまうのか。


今年の夏は例年になく静かで薄口の夏であった。


さて、本格的な秋へと向かう前に一つだけやり残した事に気がついた。

怪談話というか不思議な話について、今夏はまだ語る機会が無かったような気がする。

そこで、今日は民俗学者の柳田國男が子供の頃に体験した不思議な話について語りたい。


柳田國男と言えば民俗学の父と呼ばれた人物で、とくに岩手県遠野に昔から伝わる民話を蒐集し、「遠野物語」を執筆した事でも知られている。

一般的に柳田と言えば、日本各地を回りながらその土地に伝わる民間伝承を聞き込みしつつ蒐集するという、いわば在野の民俗学者というイメージがあるけれど、実際の本業は農商務省に勤める高級官僚であった。

柳田は、東京帝国大学で農政学を学び、農商務省の官僚となってからは、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めて行ったそうである。

最終的には貴族院書記官長や枢密顧問官など、官界の頂きにまで登り詰めたエリート中のエリートとも呼ぶべき彼が、何故地方の民間伝承に其処までのこだわりを持ち続けたのだろうか?

それは幼き日に体験した様々な不思議な体験に起因していると言われている。



柳田國男は、明治八年に兵庫県神東郡辻川村に、儒学者の父・松岡操と母・たけの間に六男坊として誕生した。

松岡家は代々医者の家系で、祖母の小鶴、父の操、長兄の鼎、三兄の通泰も医師であった。

國男は、幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破したと言われる。


彼が12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの集落・布川に住むことになる。


國男は、この布川の地で後の人生に大きな影響を与えるような大きな出来事に遭遇する。



それはとても不思議な体験でもあった。



詳しい話は、彼が晩年に口述筆記させた回想録「故郷七十年」の中に書かれているのだが、顛末はだいたい以下の通りである。



この当時、國男は兄の鼎とともに布川にある旧家・小川家で生活していた。


小川家は松岡家と同様に医者の家系だったが、当主の東作は若死にしたたため家計が困窮していた。


鼎は小川家と同業の縁で親しくなり、布川に赴任しそこで医院を開業する事になったのである。


國男は明治20年の初秋に布川にやって来て、13歳の時から約3年間の多感な少年期を布川で生活することになる。


國男は小川家の広い敷地内を恰好の遊び場として縦横無尽に走り回っていたのだが、その中に一つだけ気になる場所があった。


小川家の敷地のいちばん奥の方に、綺麗な土藏が建てられていて、その近く二、三本ある木の下に小さな石の祠が祀られていたのである。


その祠には、小川家の亡くなったお婆さんが祀られていると家人から聞いていたのだが、いけない事とは知りつつも、いちど祠の扉を開けてみたいという衝動に駆られていた。



ある春の日の午後。


誰がに見られると、たちまち叱られてしまうので、誰もいない時を見計らって祠の扉を開けてみることにした。



恐る恐る扉を開けてみると、中には、握りこぶしくらいの蠟石が納まっていた。


その蠟石はとても綺麗な色をしていて、生前にお婆さんが中風で寝た切りになっていた時に、しょっちゅうその石を飽きる事なく撫で回していたという。



その後、お婆さんが亡くなると、孫の東作が形見の蠟石を石の祠に祀ってお婆さんを家の守り神にしたのである。


さて、國男が祠の中の蠟石を眺めていたところ、突然何とも言えないような奇妙な感じに襲われる。


國男は全身の力が抜けてしまい、祠の前にへたり込んでしまった。


そして、何気なく空を見上げてたところ、澄み切った春の空に、なぜか数十の星辰が煌めくのが見えた。


昼間に星が見えるはずがないことは子供ながらに知っていた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしても拭い去ることが出来ない。


いよいよ忘我に至ろうとしていたその時である。



鵯(ひよどり)が高空で、ピイッと一声鳴く。


それを耳にした刹那、國男はふたたび我に帰ったのである。


國男は後年、その出来事について回想しながらこう語ったという。


もしも、あの時、鵯が鳴かなかったら、自分は間違いなく発狂していただろうと。


あの時の体験は一体何だったのだろうかと、子供の頃の経験を振り返りながら時々思う事がある。


それは柳田のみならず、誰にでも存在するような体験である。


しかし、柳田は子供の頃の何気ないこうした経験を非常に大切にして来たのである。


大人になって思い出した時にこうした経験を、単に価値のないものとして捨て去るのか、それとも子供の時のママの瑞々しい記憶として心の中に仕舞っておくのか、そこに大きな違いが生じるような気がする。



批評家の小林秀雄は、柳田のこの体験を読んでいたく感動したという。


そして柳田という人間の実像がわかったと感じた。  


柳田の繊細な感受性が、彼の学問のうちで大きな役割を果たしている事に気がつくのである。


言うなれば子供の頃から失われないままの純粋な感受性と言い換えられるのかもしれない。


こうした感受性は齢を重ねることに鈍感になり、合理的な思考のバイアスに引っ張られて、その多くがやがて失われていく。



しかし、失われたままで本当に良いのかという疑問は確かに存在するような気がする。


何でも合理的に説明されなければ済まされない様な現代社会の風潮にあって、曖昧なものは糢糊であるがために簡単に斥けられ排除される傾向にある。


ただ、そんな我々も子供の頃には色々な不思議な経験を多く持っているものである。


あの頃の純粋な目で見たからこその、忘れ得ぬかけがえの無い経験の数々である。


時にはそれを思い出してみて、その時に感じたままの気持ちになって見たら如何だろうか。


瑞々しい気分に浸り、見えないものが見えて来るかもしれない。



ところで、柳田國男が不思議な体験をした、あの石祠もあの蠟石も現存しているようだ。


気になる方がいらしたら、茨城県利根町布川に行ってみたらいかがだろうか。