体感覚がよいと、こんなことがある。






こころの中を支配している
あんなことやこんなこと。

それを、こころの中の手でぎゅっと握りしめているのが私たち。

それが執着となり悩みとなる前に、

そっとでいいから
こころの中の握りこぶしを緩めて、
そっと、おそるおそる開いてみるの。


そして中を覗いてみる。

そこに乗っている
あるがままを見てみると


沢山の思いが湧いてくるとおもいます。


時に怖くてとても不安。


自分の中でとっておきたい
他人に自慢できる物事への固執。




それを、責めたり恥ずかしがったり、怖がっていてもいいから、

とにかく何もジャッジを下さず、
全部を、一つ一つ見ていくと


いろんなことが分かるんだよ。


気づきが起こる。



それができれば自分の本音の中のさらに本音がでてきてくれる。




それを見つけることができたら、

こころの掌をパーにして、


自分の気持ち、相手の気持ち、その出来事を
あるがままで置いておけるようになるんです。


怖いよ、不安も出てくるよ。

でもいいの、それで。


それでもあるがまま 置いておけばいいんです。


するとやっぱり気づきが起こるから、
自然と体は必要な行動をとるのか、
不必要な行動をやめていくんです。





人生全てそれだけ。

毎日これだけ。


ほんと。




難しくないシンプルなことだけれど、
難しくするのが、人間だし、

実際に、物事によっては激しく葛藤がおきるから
やっぱり難しいのかもしれません。

が、


シンプルさを覚えていてほしい。



掌パーの極意は、
こころを緩めること。
そしてこころを緩めるには
体を緩めること。


それだけ。





だから私は体を使ってそれを伝えつづけているの。

だって本気でこれだけなんだもん。




こころの掌をパーにする方法。




すると、拘りや余計な思考でエネルギーを無駄遣いしなくなるので、心も体も軽くなってくる。

そして、体感覚の感度が上がっていく。







体感覚がよいと、こんなこともよく起こります。





昨日、お友達と紫陽花を見に行き、
お夕飯を自宅でご馳走になりました。


そろそろ帰ろうと時計を見ると21時40分。



帰りのバスの最終は22時。


そのバスが発車する駅まで車で20分。



不可能だよな。と思ったけれど、
なんとなく間に合う気がしたの。

「乗れる」ってね。体が反応した。

乗れなければ電車で大回りして帰ればいいだけのこと。


でもそれには、バスの発車する駅より、
同じ距離で行ける正反対側にある別の駅のが家までは近い。


迷いながらも、体感覚を信頼して
友達にバスが発車する駅まで送ってもらうことになりました。



この時すでに21時45分過ぎ。

普通なら間に合わない。







駅までの道のりは驚くほどスムーズでした。

けれど、駅が見えてきた時点で22時4分。
バスの始発駅なので、遅れることはないはず。
ああ無理だと思ったら、


私たちの車の前に  まさに乗ろうとしていたバスが。駅を出発したところでした。


おお、まさかこんな形でチャンス到来。


「やっぱり乗れるんだ」とそう思い、


信号待ちの車を降りて、すぐ次にあるバス停まで走りました。


結果。バスよりも余裕で早くバス停につき、
無事乗ることができました。




体感覚がよく、心にこだわりが少ないと


物事のタイミングが合ってくるんです。


体感としてキャッチしやすくなる。
頭で考えない。



やっぱり掌パーだよ
ラブ




昨日、紫陽花を見に行ったお寺に、
大きな老木が生えていました。






そこには、何度も木生かそうと、

手当てした跡があり、生き延びてきた跡があり、、、。


けれど一度は死にかけたのかな。

もう駄目だと諦めた気配も感じられました。




でもね、すごいんだよ!


その切られた大きな幹や枝の先から

まだ青い枝が、にょきにょきと力強く

生えているの。



これを生命力と表現するのだろうけど、



私は違う部分に感応したんだ。




命のエネルギーって、

ただ流れる場所があるから流れてるだけなんだなってね。




そしてそのエネルギーで、木が生かされてる。



というか、死なせてもらえないというか、




ただ木というものを表現してる。




生きる力って

死ぬその時までただただ肉体を生かそうとする働き。 



以上。



なんだなあ。



たったそれだけのことなんだった。


そうだった。




あとの命に付属したものは、

全部おまけの部分。




私たちは生きているだけで、

ただ存在しているだけが全て。



あるがままで完全なんだ。



そんな風にまた心に雷が落ちました。


言葉にすると超絶浅くなるけど、





命です。

以上。




としか言えない。





肉体が朽ちても、その生命を表現させているものは、

ただただ何も変わらないんだけどね。 




朽ち果てた木にも、生命の電気は流れ続けてる。




ただそれだけなの。




ああ。



深いとこ突かれたな。

と思いました。





本気でこころの掌をパーにするだけなんだ。



この気づきが起きたのはずいぶん昔だけれど、


私の人生で、これまでも、たくさんの不必要なこだわりを手放してきました。


それでも、まだまだ握りしめているものがたくさんあります。


手放せなくて、怖くて大きく掌をひらけない事。

今日の心に落ちた雷で、



またもや



私の掌からほろほろと

こぼれ落ちていきそうです。


しかも、結構でかいもの。


ああ、


これも、あれも、、、




また緩む。緩んでしまう。

また頭の中が暇になる。


幸せになってしまう。


今ここにしかいられなくなる。



あるがままだ。






夏至の大きな気づきというか、

確信が深まった1日となったのでした。