脳卒中の日記 

40代の前半 病院(脳出血)・・・
50代から、見たり、読んだり、書いたり・・・
日々の生活や散歩。

(7) 社会人(独身時代)

2020年09月22日 | 私の闘病記
何とか就職(高校教師)できた。
最初の配属先は、なかなか厳しいところだったが、やりがいのあるところ。
・都立M高校(定時制)
・都立K高校(全日制)
 アフター5もあまりなかったし、家に帰っても勉強勉強の毎日。
でもこの時期に頑張っておいて良かったかな…と思う。

 学生時代の彼女と離別。
何度も危機があったが、それを乗り越えられたのは、いつも近くにいたから。
仕事場も違い、それぞれの世界ができて、だんだん疎遠になった。
彼女には別に好きな人ができた。
仕方がないと思った。
彼女と結婚はできないだろうなあ…とは、学生時代から感じていた。
 
 社会人5年目位までは、仕事が楽しくて仕方がない時期だった。
趣味と一致した職業に就けた喜びとでも言うのだろうか。
結婚などは眼中にもなかった20代だった。

 スキーに夢中になった。
シーズンには10回くらいは愛車を駆って雪山に向かった。
基礎スキーを学び、バッジテストも何度も受けた。
SAJ2級まで取得。1級はとれなかった。

 そんな折、学生時代に付き合っていた彼女の結婚通知が届いた。
披露宴は欠席。祝電を打つ。

(6)大学(昭和50年代)

2020年07月30日 | 私の闘病記
第1志望ではなかったけど、都内の私立大学法学部に入学した。
新しい世界に感動!
勉学よりも、遊びや社会勉強に日夜努める毎日であった。
あるサークルに入った。
高校時代に覚えたギターを本格的にやりたかった。
クラシックギターを買い、教則本も買って一から勉強した。
サークルでは電気楽器やリズム楽器も併用したアンサンブル主体だったので、パーカッションも一緒に練習した。
そこでドラムスやラテンパーカッション(コンガやボンゴ)も習った。
隔週日曜日に銀座の山野楽器に行って習ったのも懐かしい思い出。
いろいろな音楽にも出会った。クラシック、ジャズ、ロック、邦楽…。
恐る恐るジャズ喫茶などにかよい始めた。
サークルで知り合った子と付き合うことになった。
都内のあっちこっちをデートした。
いろいろな店や遊園地に行った。
東京の街のよさを再発見した時期でもあった。
バイトはデパートの販売員、警備員、家庭教師、塾講師などいろいろやった。
就職活動は全然やらなかった。
なぜなら、公務員試験(教員)一筋だったから。
ダメなら就職浪人をしようと、結構気楽に構えていたが、背水の陣を敷かないと、なかなか本気にならない自分をよく知ってから。
結果は高校教員に合格した。


(5)予備校(昭和50年代)

2020年07月10日 | 私の闘病記
高田馬場にある予備校に通う。
現役時代の勉強不足を痛感する。
将来の進路や人生についていろいろ考えた一年だった。


(4)高校(昭和50年代)

2020年07月08日 | 私の闘病記
私立高校2校、都立高校1校を受験。
2校に合格した。
迷わず都立高校に入学した。
制服もない、校則もない(と記憶している)自由な高校だった。
バドミントン部と天文部を掛け持ちで入る。
かけもちというのが、どうも自分らしい。
いろんなものに関心を寄せるが、大成しない…。
好きな人ができた。毎日が楽しかった高校1年生の時代。
「青春を謳歌する」という言葉がまだあった時代。
勉強も結構好きで、図書館で勉強したりもした。
大学受験もこのころから意識していた。
音楽に目覚めた。当時はみんなフォークギターを買ったものだ。
教室の後ろに数本ギターがあって、放課後にコードを覚えて、井上陽水やかぐや姫の歌で練習した。
時代はフォークソングの時代からニューミュージックの時代に変りつつあったが、
個人的には南こうせつやNSP、オフコースにはまっていた。
高校2年の時、少しでも背伸びをしたかった時代。
でも、一番輝いていた時だった。
高校3年。大学受験の勉強に明け暮れた。
ところが、秋になって、なんとなくセンチメンタルになった時、
高校2年の時から思いを寄せていたある女の子に告白をした。
結果は…。
「失恋という言葉は知ってたけれど…。」
受験はすべて失敗した。

(3)中学校(昭和50年代)

2020年06月30日 | 私の闘病記
私立中学校を受験する友達は、当時は少なかった。
ごく当たり前に地域の中学校に入った。
K市も急速に宅地化が進み、子供時代に遊んだ雑木林も無くなり、原っぱは住宅に変っていった。
中学時代は陸上部に入った。
小学校の頃から走るのだけは速かったから。
でも生来の怠け者で、地道な練習はしなかった。
たいした成績を上げずに終わる。
中学1年の時に初恋をした。
同じクラスの女の子。
ちょっと噂になったりした。
後ろの黒板に相合い傘の落書きを書かれたりした。
でも何もできずに、当然思いも告げられず、クラス替えになった。
中学2年の時に初めてラブレターというものを受け取った。
男はオクテなんだね。返事も書かずにほったらかしていた。
中学3年は、何となく自分の人生の中で記憶から消してしまいたいような時代。
友達関係がうまくできない、不器用な自分がとても嫌だった。
受験勉強に逃避していた時代でもあった。
性格を変えたい…と真面目に悩んでいた

(2)小学校(昭和40年代)

2020年06月28日 | 私の闘病記
都内の古い家を引き払い、東京都郊外のK市に引っ越した。
当時は周辺は雑木林ばかりで、家や商店がほとんど無かった。
とても淋しいところにきたなあ…と感じた記憶が鮮明に残っている。
小学校まで約20分歩いて通学。
国語・社会・図工が好きで、算数・理科が嫌いな平均的小学生だった。
でもなぜか学級委員には選ばれやすかった。
適性は絶対無かったのに…。
塾には行かなかったけど、ホンの少しだけピアノを習いに行った。
理由は、近所にピアノ教室があったというそれだけのこと。
美人の先生に憧れた。
まだ原っぱ(空き地)がたくさんあった。
学校から帰るとそこで暗くなるまで遊んだ。
野球、缶蹴り、鬼ごっこ…。
鉄道も大好きだった。
父からもらいうけたカメラを持って、近所の電車を撮りに行った典型的な鉄道少年時代を迎える。
オタクという言葉も無かった時代で、男の子は鉄道派と自動車派に分かれていたような気がする。
この時代に流行ったもの・・・。
切手収集、酒フタ遊び、学研の科学と学習、子供の科学、野球、缶蹴り etc


(1) 生まれ(昭和30年代)-佃島

2020年06月27日 | 私の闘病記
生まれ(昭和30年代)
東京都中央区築地の病院で生まれた。
5歳まで、佃島に暮らす。
銀座まで10分くらいだったので、休みの日は銀座のデパートの屋上に連れて行ってもらっていた。
まだ東京都電が銀座4丁目を走っていた記憶がある。セピア色の記憶…。






私の闘病記

2020年06月27日 | 私の闘病記
はじめまして。
よろしくお願いします。
東京都中央区、東京都郊外のK市に引っ越しをしました。
しかし、私は脳出血で倒れました。
救急車で東京都立F病院救命救急センターに搬送されました。
上肢機能障害、下肢機能障害、音声・言語機能障害‥‥
治療とリハビリを含め約6ヶ月病院に入院していました。
それから‥‥、始まります! 


静かな環境、家。

2018年05月15日 | 
場所、間取り、金額がとても気に入った家に出会いました。
何となく「この家いいな」と目に留まった事がキッカケでしたが、実際に住んでみて今は運命の出会いだったと思っています。
日当たりも良く、静かな環境でゆったりと毎日過ごしています。
家で過ごす時間をさらに充実したものにできればと思っています。







金沢2泊3日(10月25日・水曜日)

2017年11月14日 | 旅行
帰り日

尾山神社

御朱印が頂きたくて朝行きました。

加賀藩主・前田利家と正室・おまつが祀られています。


和漢洋を取り入れた珍しい神社で、神門の最上階にはカラフルなステンドグラスがはめ込まれています。


おみくじも種類が多く男みくじを引いたら見事に大吉でありました。


長町武家屋敷跡

細い路地に石畳が続き、建物が続いていてとても風情があり印象に残りました。

ここは加賀藩の中級武士の住まいだったそうです。



金沢‥‥また行きたいと思います!