特別永住者【特亜】

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この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。

特別永住者(とくべつえいじゅうしゃ)とは、平成3年(1991年)11月1日に施行された日本法律日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により定められた在留の資格のこと、または当該資格を有する者をいう。

 

目次

概説

詳細は「韓国併合」、「日本統治時代の朝鮮」、および「日本統治時代の台湾」を参照

ポツダム宣言を受け入れた大日本帝国は、アメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印日(1945年(昭和20年)9月2日)以前から、引き続き日本内地に居住している平和条約国籍離脱者朝鮮人及び台湾人)とその子孫を主に対象としているが、朝鮮・韓国系の特別永住者には、戦後の密航者も多く含まれる[1][2]戦後来日の特別永住者も参照)。

第二次世界大戦終結後、日本の領土下にあった朝鮮半島は、ヤルタ協定によって連合国に分割占領され、後に大韓民国朝鮮民主主義人民共和国として独立し、同じく日本の領土下にあった台湾中華民国となった。そして、日本国との平和条約によって、日本がそれらの国または地域の独立を認めるに際して、法務府民事局長から「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」と題する通達が出され、それらの国家の主権が及ぶべき法的地位にあると認められる者は、講和条約の発効(1952年(昭和27年)4月28日)と伴に、一律に日本国籍を喪失する取扱いとなった(日本国籍者で居続けるか、朝鮮籍・中華民国籍に戻るかの選択肢は、当事者に与えられなかった)。

そして、日本国政府は、これら国籍離脱者の関係国への送還を、GHQや韓国政府などと調整していた経緯があるが、受け入れられず、「かつて日本国籍を有していた外国人」を協定永住許可者として在留資格を認めた(一般的な永住資格を持つ外国人である一般永住者とは異なる)。

2018年末時点での特別永住者の実数は、32万1419人であり[3]、2018年12月末時点の国籍別では「韓国・朝鮮」が31万7698人98.8%を占める[4][5][6]

  • 特別永住者は、三大都市圏の10都府県に集中しているのが特徴で、近畿圏(大阪・兵庫・京都の3府県)に45%、首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉の4都県)に22%、中京圏(愛知・三重・岐阜の3県)に11%が居住している。
  • 3大都市圏を合わせると実に78%、3分の2超が、これらの地域に集中している(詳細は以下を参照)。

一般永住者とは異なる枠の「特別永住者」が発生した経緯を概説する。

1895年の台湾編入や1910年の日韓併合により、台湾人や朝鮮人などは日本国籍となったが、1945年、ポツダム宣言の受諾による日本敗戦と第二次世界大戦の終結により、在日旧植民地出身者が、1952年4月28日まで、法律上なお日本国籍を保持していたことに端を発する[7]

1945年(昭和20年)末からGHQ指令による非日本人の送還が始まり、12月には清瀬一郎らの主張により、旧植民地出身者(朝鮮人・台湾人・樺太人[8])を戸籍から外し、その上で戸籍法の適用を受けない者の参政権を「当分ノ内停止」する内容の、衆議院議員選挙法改正案を可決した[9]

終戦直後にはおよそ200万人の朝鮮人が居住していたとされるが、そのうちの150万人前後は1946年3月までに日本政府の手配で帰還している[10](うち、徴用で来日したものは245人が残留)[11]

1946年、GHQ・日本政府は植民地出身者を「日本国籍を保有するとみなされる」とし、地方の法律・規則に服すこと、1947年には、日本学校に通学することを義務づけ、これにより都道府県は、朝鮮学校の学校閉鎖令を出したが、これに反発した在日朝鮮人が阪神教育事件(1948年)を起こしている[10]

1947年には、最後のポツダム勅令である外国人登録令第11条により「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とされ、これにより日本の居住する植民地出身者は外国人登録申請の義務が課せられ、その移動(日本列島内及び朝鮮半島から日本列島への移動を問わず)には特別な規制が課された。もっとも、勅令は入国管理に関するものではなく、朝鮮半島から日本列島への移動を含めて国内移動としての規制である。

1948年、韓国・北朝鮮は、それぞれ1948年に連合国軍政から独立した。1948年4月3日に済州島四・三事件が起こり[12]在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)政府が、島民の動きに南朝鮮労働党が関与しているとして、島民全人口の20%にあたる6万人を虐殺、島内の70%が焼き尽くされた[13]。この事件に続いて同年10月19日、麗水・順天事件が起こり反乱軍のみならず8000人の民間住民が虐殺された。これらの虐殺事件の際にも、済州島全羅南道から、多くの韓国人が日本に不法入国した[14][15](1955年までに1万2500人[14])。

これらの事件について、韓国政府は長い間タブー視し、事件の全容が明らかになったのは、民主化宣言後の1990年代以降である。但し、日本は1952年のサンフランシスコ平和条約発効まで、国際法上の朝鮮半島の領有権を喪失していなかったため、「不法入国」という表記は正しくないという説もあるが、既に朝鮮半島の実効支配権を失っており、またポツダム宣言には朝鮮の自由と独立などに言及したカイロ宣言の条項履行対象が記載されており、日本の朝鮮半島領有権喪失は既定路線となっていた。当時の日本国政府や新聞では、この時期に朝鮮半島から密航してくる者を「不法入国者」としており、日本政府も取締りを行っている[16][17]

1949年には、当時の吉田首相が、在日朝鮮人は100万人程おり、その半数は不法入国で、日本で犯罪を犯す者も多く、日本の復興に全く貢献していないので、「日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人」以外は、日本が費用を持つので母国たる朝鮮半島に帰還して欲しいという「在日朝鮮人に対する措置(1949年)」文書をマッカーサーへ提出している。

1950年6月から1953年7月にかけては、朝鮮戦争が勃発し、半島全土が荒れ地となる。

1952年、サンフランシスコ講和条約発効により日本が国家主権を回復すると、同時に日本領土の最終画定に伴う朝鮮の独立を承認した。これにともない日本政府は「朝鮮人は講和条約発効の日をもって日本国籍を喪失した外国人となる」という通達を出し、旧植民地出身者は名実共に日本国籍を失った[10]

日本国籍を失った在日韓国朝鮮人は法律で「在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」とされた[18]。当時の殆どの韓国朝鮮人は、併合による日本国籍の保持に興味は無く、これらの日本国籍喪失措置に異議を唱えなかった[19]。また韓国政府は、日本の要請があっても在日韓国・朝鮮人の送還を拒否している[14][20]

こうした終戦以降の一連の日本国政府の対応について、旧植民地出身者の国籍は『選択可能』にするのが、当時の国際基準であったにもかかわらず、通達によって一方的に国籍を剥奪した、都合良く「日本国籍保有者」「外国人」の扱いを使い分けた、と批判する研究者もいる[10][21][22][23]。もっとも、この通達は国際的な承認を得たサンフランシスコ講和条約第2条(領土の放棄または信託統治への移管)に伴うものであると、最高裁判所で解釈されている[24]

なお、平和条約第11条に「日本国は、連合国軍戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、かつ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と定めていることから、巣鴨刑務所に戦犯として拘禁されていた29人の朝鮮人と1人の台湾人が「平和条約発効と同時に日本国籍を喪失したので、同条約11条にいう日本国民には該当せず、拘束を受けるべき法律上の根拠はない」として1952年6月14日に人身保護法による釈放請求裁判を提起したが、1952年7月30日に最高裁判所は「戦犯者として刑が科せられた当時日本国民であり、かつ、その後引き続き平和条約発効の直前まで日本国民として拘禁されていた者に対しては、日本国は平和条約第一一条により刑の執行の事務を負い、平和条約発効後における国籍の喪失または変更は、右義務に影響を及ぼさない」と判決が下され、刑期満了又は仮釈放まで服役することになった。

1955年、当時の小泉純也法務政務次官は国会において、在日朝鮮人らは、母国に帰りたいという者が一人もいないと言える状態で、一方半島からは手段・方法を選ばず、命がけでどんどん密航をしてきており、日本が彼らを強制送還をしようとしても、韓国政府はこれを受け入れない為、日本に入れっぱなし状態であり、朝鮮戦争で密航してきた者等を収容していた大村収容所も人員が一杯で、入国管理局だけでは手に負えない状況であることを答弁している[14]

また1959年の朝日新聞によれば、在日韓国朝鮮人は日本政府や連合国の手配を拒んで自ら残留したものである[11]。また同年には、朝鮮戦争にともない、日本でも北朝鮮政府支持者と韓国政府支持者との紛争が多発した(新潟日赤センター爆破未遂事件)。

1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓両国政府間の協定(日韓法的地位協定)により、在日韓国人に「協定永住」という在留資格が認められた。これは国外退去に該当する事由が他の外国人と比べて大幅に緩和されたもので、資格は2代目まで継承できることとし、3代目以降については25年後に再協議することとした[19]

1977年からは在日本大韓民国民団(民団)主導で「差別撤廃・権益擁護運動」が開始され、在日韓国人の参政権獲得運動も始まった。当時、民団は「日本語を使い、日本の風習に従う社会同化は義務」としていた[25]

1991年、入管特例法により3代目以降にも同様の永住許可を行いつつ、同時に韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。また、この時の「九一年日韓外相覚書」には「地方自治体選挙権については、大韓民国政府より要望が表明された」と明記された[19]

日本における外国人参政権」も参照

入管特例法以前の制度

入管特例法以前に存在した類似の制度があった。詳細は以下の通りである。

特別永住者制度前史
外国人登録の表記 制度開始日 申請期限 適用終了日 根拠法令 摘要
4-1-14 1951年11月1日
(1952年4月28日)
任意 1990年5月31日 出入国管理令(昭和26年政令第319号)第4条第1項第14号
(1982年以降の題名は出入国管理及び難民認定法。以下同じ)
(一般永住許可)
(1982年1月1日) 1986年12月31日
(一部例外あり)
出入国管理及び難民認定法附則第7項(昭和56年法律第85号[1] 特例永住許可
法126-2-6 1952年4月28日 自動適用 1991年10月31日 ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係
諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第126号)第2条第6項
1945年9月2日以前から日本に在留
する者
その子で1952年4月28日午後10時半
前までに日本で出生し在留する者
4-1-16-2 出生の日から30日以内
要期間更新
1990年5月31日 出入国管理令第4条第1項第16号
特定の在留資格及びその在留期間を定める省令(昭和27年外務
省令第14号)第1項第2号(1981年末まで)
出入国管理令施行規則(昭和56年法務省令第54号)第2条第2号
(1982年以降)
上欄該当者の子
在留期間3年(更新手数料無料)
1982年に旧4-1-16-4を統合
(不詳) 1953年12月25日 自動適用 1991年10月31日 奄美群島の復帰に伴う法務省関係法令の適用の経過措置等に
関する政令(昭和28年政令第404号)第14条第2項
(1982年以降は第14条)
1945年9月2日以前から奄美群島に
在留する者
その子で1953年12月25日午前0時前
までに奄美群島で出生し在留する者
4-1-16-4 出生の日から30日以内
要期間更新
1981年12月31日 出入国管理令第4条第1項第16号
特定の在留資格及びその在留期間を定める省令第1項第4号
上欄該当者の子
在留期間3年(更新手数料無料)
廃止時4-1-16-2に統合
協定永住 1966年1月17日 1971年1月16日
(一部例外あり)
1991年10月31日 日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する
日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約第28号)第1条
日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する
日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法
(昭和40年法律第146号)第1条第1項
1945年8月15日以前から日本に在留
する大韓民国国民
その直系卑属で協定発効後5年以内に
日本で出生した者
出生の日から60日以内 上欄該当者の子で協定発効後5年
経過以降に日本で出生した者
永住者 1990年6月1日 任意 (1991年10月31日) 出入国管理及び難民認定法別表第2 旧4-1-14に相当
平和条約関連国籍
離脱者の子
要期間更新 1991年10月31日 旧4-1-16-2に相当
在留期間3年(更新手数料無料)
特別永住者 1991年11月1日 自動適用 (現行) 日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国
管理に関する特例法(平成3年法律第71号)第3条
法定特別永住者
出生等の日から60日以内 同法第4条 特別永住許可
任意 同法第5条
  • 制度開始日及び適用終了日のうち、丸括弧を付したものは、その在留資格等自体の創設・廃止ではなく一部の適用対象に限って運用が開始又は終了したことを示す。
  • 根拠法令の条項はその当時のものであり、後の改正により現行の条項とは異なる場合がある。
  • 平和条約国籍離脱者及びその子孫のうち、「法126-2-6」、「協定永住」、「永住者」又は「平和条約関連国籍離脱者の子」に該当する者は、特別永住者制度施行日(1991年11月1日)に「特別永住者」へ自動的に移行した(特例法第3条適用)。当該移行措置に昭和28年政令第404号第14条該当者に関する規定は含まれなかった(その時点で既に該当者が存在しなかったためと思われる)。

要件