魔法少女まどか☆マギカ が描く「願いの代償」と「思春期の感情エネルギー」の秘密

魔法少女まどか☆マギカが描く「願いの代償」と「思春期の感情エネルギー」の怖さと裏解釈

 

2011年の放送以来、未だ人気の衰えない『魔法少女まどか☆マギカ』ですが、以前当サイトでもコラムを配信し、安定して閲覧数の高い人気のコラムとなっております。前回のコラムを配信して一年以上経ちますが、改めて、色んな発見や『まどマギ』の真髄に気付いてしまったので、なぜここまで『まどマギ』の人気が高く、指示され、人の心を掴むのか。そういった、魅力について述べていこうと思います。

ストーリーに関しては、前回のコラムをご覧下さい↓↓

魔法少女まどか☆マギカの何が面白いのか?

 

願いと呪いは表裏一体

「魔法少女は願いから生まれ、魔女は呪いから生まれ出ずる」

魔法少女を生み出すインキュベーターの「キュゥべえ」は、思春期の少女の「願い」を一つ叶える代わりに、魔法少女となって、魔女と戦うように持ちかけます。そして、魔法少女になったら、魔女と戦うようになり、戦いの中で次第にソウルジャムが濁り、やがて絶望し、魔女になってしまう。その、魔法少女が魔女になる時のエネルギーを抽出することで、宇宙の発展と延命に繋げるというのが「キュゥべえ」の目的(大義名分)です。

ちなみにキュゥべえは、地球とは異なる惑星で高度な文明を発達させた知的地球外生命体(ようするに宇宙人の端末のようなもの)で、宇宙のエントロピー増大の問題解決をするため、その異星人は「感情」をエネルギー転換できる技術を発明します。しかし、彼ら自身が「感情」を持っていないために、それを利用することが出来ませんでした。そこで宇宙を探索した結果、銀河の端っこ太陽系の地球という星に住む人類、特に第二次性徴期の少女の「感情の起伏エネルギーの大きさ」に注目したのです。女の子の魂をソウルジェムという宝石に加工し、ソウルジェムがグリーフシードに転化する(魔法少女が魔女になる)際に強大な感情エネルギーが発生します。そこで、まず始めに願いを叶えるという「希望」を与え、然る後に少女を「絶望の淵」に追い込みます。願いが叶った時の希望、そして魔女化する時の絶望…この激しい感情の変化からくるエネルギーの搾取こそインキュベーターの目的ですだからこそ言葉巧みに少女たちを勧誘し、より多くの希望と絶望を与えようとしていたのです。キュゥべえは、人間に例えると感情欠如や共感能力のない「サイコパス」のような思考回路をもっているので、おそらくその異星人の性質を表していると思われます。なんとなく、この世界の「芸能界(特にアイドル)」の仕組みにもよく似てるなぁ~と感じるのは私だけでしょうか…?

もうこれだけで、聞く人が聞いたら、ビクンビクンと反応するような内容となっています。(笑)

このキュウべえは、見た目はこのように可愛らしいのですが、実際に言うことや、やることはかなりエグイです。まるでブラック企業の悪徳営業マンのごとく、あの手この手を使って思春期の女の子たちを「魔法少女」に勧誘していきます。

このような比喩的表現も、どこぞの「カルト宗教」や「某ファンタジーランド」や「芸能界」のような、表向きは善人を装った可愛らしい姿とは裏腹に、とても巧妙にカモフラージュされた「闇」があるように感じられますね。

魔法少女たちの願い

魔法少女になるには、もれなく願いを叶えてもらう動機がないと、なることはできません。

暁美ほむらは「まどかとの出会いをやり直し、まどかを守れるようになりたい」

美樹さやかは「恭介の腕が治りますように」

巴マミは「事故に遭って死にかけた時、自分の命が助かること」

佐倉杏子は「お父さんの話を聞いてほしい」

鹿目まどかは「過去や未来全ての魔女を生まれる前に消し去ること」

※ほむらがループする前の最初の世界線では「車に轢かれた猫を助けてほしい」という願いを叶えてもらうことによって、魔法少女になりました。

そして、魔女と戦い、後々は戦って死ぬか魔女になるのですが、どの願いも叶えられたものの、全て報われませんでした。

願いが叶えられただけで、その願いが生まれた思いは報われないのです。
そして、報われないどころか、その願いの反動が自分に返ってきているのです。

わかりやすく順番に追っていきますが、

美樹さやかは、恭介の腕は治りましたが、その後友人に奪われ、自分の恋心が報われないことで自暴自棄になり、最終的に魔女になりました。そして、佐倉杏子がさやかを止める為に戦い、腕を切り落とします。その後、「一人では逝かせないよ」と、さやかを道連れにして死を選びました。恭介の腕を直したことの引き換えに、自らの腕を斬り落とされたのです。

その佐倉杏子は、お父さんの為を思って、願いを叶えられましたが、それにより父には魔女呼ばわりされ、家族は自分を遺して心中しました。美樹さやかとは度々衝突し、先輩魔法少女として何度も忠告しますが、さやかは何一つ京子の言うことを聞きませんでした。最後には分かり合えたように見えましたが、結局さやかも魔女になり、当然かもしれませんが、京子の問いかけに反応することがなく、話を聞いてもらえませんでした。そして、魔女さやかと共に死を選びました。

巴マミは、家族で事故に遭い、自分の命が助かる願いを叶えてもらい魔法少女になりましたが、自分だけが助かり家族を救おうとできなかったことを悔やみ続け、魔女になることもなく、魔女に殺されました。自分の命が助かったからこそ、殺されてしまったのです。

ほむらは、まどかが命をかけて守られて助かりましたが、まどかは死んでしまいます。そのことで、円を守れる自分になりたい。まどかとの出会いをやり直したいと願い、時間を巻き戻す能力を持った魔法少女になり、まどかとの出会いをやり直します。しかし、何度ループしても、魔女「ワルプルギスの夜」に敵わず、まどかを失います。その度にループするのですが、最終的にまどかは宇宙の円環となり、二度とまどかに会うことができず、助けることも、やる直すこともできなくなりました。

まどかは、ほむらがループする前の時間軸では、猫のエイミーを助ける願いを叶えられて魔法少女になりましたが、物語のメインとなるほむらの最後のループでは、
「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で。」
と願いますが、「すべての宇宙」という、人としての枠を超える願いによって、「宇宙の円環」となり、概念そのものになりました。それにより、ほむら以外には認識すらされることはなくなります。自分に自信がなかったまどかは、魔法少女になることで、人の役に立つことを望んでいました。結果として、自分自身の存在がなくなってしまいました。

それぞれの魔法少女が、自分の願いに相反するものが跳ね返ってきてしまい、結局、願うに至った自分の想いは報われませんでした。むしろ、魔女になってしまうことで、より大きな悲劇を生み出すと言えるでしょう。

ではなぜ、この作品が、これほどまでに多くの人々を引き付けるのでしょう?

その理由は、ある種この世界の「秘密」というか「裏事情」のようなものを、無意識に感じとっているからではないでしょうか。

登場する少女たちの姿は、もしかしたら私たち人間の「根源的エゴの欲求」の体現者ということもできます。少女たちは、始めは「その願い」を切に望みます、そしてその結果、さらに「願うしかない状況」がやってくるということです。そう願うしかないのに、一時的には報われたように見えるものの、最終的には呪いを生み出し、より大きな悲劇を生み出してしまうカタストロフィが訪れます。

この何とも救われない、報われない結末が「鬱アニメ」という称号を欲しいままにしているのですが、まさにこれがこの作品の魅力だともいえます。

そして、キュウべえが魔法少女たちが魔女になる時に生まれるエネルギーを抽出していますが、おそらく、この思春期少女の「絶望」と「悲哀」の感情こそが、一番純度の高いエネルギーなので、異星人たちはエネルギー転換以外の「何か」にも使用していると思われます。(意味深)

 

願いが叶うことは時として不幸を生む

ここまで、願いが叶うことで魔法少女になり、その後の経緯を述べてきましたが、願いが叶ったことで得られたものもありますが、最終的には皆不幸になってしまったといえます。それこそ、こんな風に不幸になるくらいなら、願いが叶わない方が良かったと思えるほどに…

しかし、なぜ願いが叶ったことで不幸になったのでしょうか?

ここには、我々の世界にも共通する「ダークサイド(闇落ち)」「代償の法則」のようなものを感じます。

人生をプラスマイナスゼロにする「正負の法則」はあるのか?

よく、人生は良い出来事も悪い出来事もプラスマイナスゼロになっているという説を唱える人がいます。私はこの考えを以前は否定的に捉えていましたが、様々な人生経験をそれなりにしてくると「ある状況的」にはそうなのかもしれないとも思うようになりました。

仮にプラマイゼロ理論だとしたら、願いが叶うことは、大きなプラスを生み出します。プラス50だとしたら、バランスを取ってゼロにする為にはマイナス50の出来事が起こらないとゼロにはなりません。その落差は100にもなります。願いが叶うということは、プラス50の状態から体感マイナス100の出来事が起こるわけです。プラス50が帳消しになるくらいなら耐えられるかもしれませんが、それを超える絶望や衝撃が起これば、闇落ちしたり魔女落ちするのも頷けます。

先ほど「ある状況的に」と言ったのは、おそらくこの世界は、正負の法則というよりは「(陰陽の)バランスを取る原理」が働いているものと思われます。代償の考え方は、仏教では「因果応報」、ジェームスアレン的には「原因結果の法則」、エマソンやナポレオンヒル的には「代償の法則」とよばれたりします。要するに、自分自身の正しい努力や修練によって叶った願いなら、その過程で受け取る準備や平常心を保つためのマインドセットが自然に身についているので、結果的にマイナス100の出来事は起こらないようになります。この場合、そもそも願いを叶える為に、相当量の時間と労力、エネルギーを捧げていることで、マイナスの出来事が起こるだけの代償を既に払っているといえます。

よく「宝くじで高額当選した人」のその後の末路という話も聞きますが(すべての人がそうではないですが)準備もなしに急に大金が入ってきてしまうと、多くの人は舞い上がって判断能力を失い、結果散財してしまって以前より厳しい生活状況になる人も多いといいます。また、あまりにも簡単に願いを叶えてしまった「消えた天才」という逸話も、思っているよりも多く世の中には存在します。

スターウオーズの「ダースベーダー」もそうですが、大きな力(フォース)を持つことは、それと同じくらいの大きな負荷を背負うことになります。ジェダイの戦士にそれ相応の修練が科せられるのは、ダークサイドに堕ちないための予防線だといえますよね。

まどマギの作中では、キュウべえによって願いを叶えてもらう代わりに、後々大きな代償を請求されるわけです。願いが叶うという幸せに対する呪いという不幸な形で。

例えば、我々の現実世界では、腕を負傷して治す為には、医者の力とお金が必要になります。少なくともお金という「代償」を払うわけです。

つまり、願いが叶う(力を持つ)には叶うだけの「代償(プロセス)」がいるのです。

叶うだけの「代償(プロセスや対価)」を払っていないのに願いが叶うことは、土台がユルユルで柱がスカスカの建物のようなものといえるかもしれません。外から見たら、立派な建物のように見えても、中身はスカスカで空洞だらけ。そんな建物にいざ住んだとしたら、ちょっとした地震ですぐ崩壊して潰れてしまいます。

努力や時間、お金や価値や貢献という代償(対価)を先に払った上で、相応の願いが叶うことは何の問題もないでしょうが、対価を払わずに叶った願いは、必ず後から代償を支払うことになります。

これは「HUNTER×HUNTER」に出てくるキルアの弟(妹?)のアルカとナニカにおける「お願い」と「おねだり(等価交換)」も、同じようなものを暗喩しているものと思われます。

注意すべきなのは、願いを叶える際に、カルト教団や悪徳スピリチュアルもどきに頼ったり、それらも真っ青のサイコパス(キュウべえ)のような「他者」に願いを叶えてもらうということです。

なぜ人が、簡単に洗脳され宗教にハマるのか、詐欺に遭うのか。それは他者依存によって願いを叶えるという希望や、一時的にでも願いが叶ったという思い込みによるものです。

この辺は、ごく普通の一般生活を営んでいる我々も気を付けないといけないポイントかも知れません。「願いが叶う」という甘い響きには、その裏に「毒」が隠れていることがあるということを認識しておく必要があります。特に女性は願いを叶えてもらう相手を慎重に吟味したほうがよさそうです。

 

思春期の少女の「感情エネルギー」の凄まじさ

名作に多い、思春期の主人公たち

魔法少女になるキャラは皆中学生です。この若い思春期の少女のみが、魔法少女になることができ、台風のような自然災害のクラスのエネルギーを持つ魔女になることができます。

名作『エヴァンゲリヲン』のパイロット達も中学生です。そして、コラムでも取り上げた『化物語』は高校生が中心に描かれており、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』も高校生が中心です。

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創世記のアダムとイブの失楽園の話を筆頭に、こういった、「魔法」「怪異」「思春期症候群」という普通では考えられないようなエネルギーを生み出す作品の主人公は、おっさんでもオバハンでもなく、思春期の少年少女なのです。

古今東西、様々な神話や物語でみられることですが、意図してか知らずしてか、思春期の少年少女を主人公にすることで、こういった超常的な作品にすることができます。それは、思春期特有の妄想、厨二病といった独特な世界観を抱ける世代であるからと、これから何にでもなれる無限の可能性を秘めているからです。

ということは、これからの時代は、若い世代の観測と認識によって、如何様にもなるということですね。

量子力学的にいえば、一定量の存在が観測して認識したことは、エネルギーが大きければ確率論として一気に現象化する(百匹目のサル現象のような)こともあり得るということです。とういうことはつまり、観測して認識さえしてしまえば、自分の内部世界においてはあり得ることで、魔法でも魔女でも「存在」しているということです。西洋の歴史においては弾圧され封印されていた「裏歴史」ともいえる「魔法・魔術の世界」は、ある種の人々にとっては「実際に存在する世界」でもあり、現代でも秘密裏にそれを使いこなしている人々もいるかもしれません。

まあ、「科学」というものも、広義で言えば「魔術」ともいえないこともないですよね。SF作家のアーサー・C・クラークは「高度に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」と言いました。もし現代人が今の知識と技術を1000年前に持って行ったとしたら、きっとその人は「神」「魔法使い」と言われることでしょう。

 

作画という偽装(カモフラージュ)

『魔法少女まどか☆マギカ』の作画は、シャフトというアニメ制作会社が作っています。シャフトと言えば、『化物語』も制作していて、同コラムでも取り上げていますが、独特な表現力があります。『化物語』『まどマギ』の世界観は、シャフト無くしては描けなかったといえるでしょう。

特に『まどマギ』に関してですが、魔法少女のキャラクターデザインは、アニメ好きの間でも賛否両論があり、あまり万人受けするものではなく、どちらかというとヲタ受けしやすい作画だと言えます。

そのキャラデザインもあって、正直、内容を知るまでは、私も偏見を持っていました。(笑)

しかし、その内容は、「魔法少女」という枕詞に反して、子供向けでは決してない、とても深淵なダークファンタジーであり、グロテスクなものです。魔女も一言では説明できないような形態と形容をしていますが、もし、普通に万人受けしそうな美作画だったら、そのディープな内容のシュールさは、現実感が強すぎて、きっと「R指定作品」になるのではないかと思います。

つまり、敢えてヲタ受けしそうな作画にすることで、わかる人にしか分らない「一見さんお断り」的な意味合いにしているのではないでしょうか?

そして、見た目にフィクション感を強めることで、描かれているエグい部分もやわらぎ、観やすくなると同時に、一度観たら最後、その深い世界観にハマり、様々な考察が繰り広げられ、キャラ好きな人にとっては、さらに萌える訳です。

作画がカモフラージュとして描かれたことで、この世界に入りにくくなっていますが、それには意味があります。

それは、この作品にとても重要な「秘密」が描かれているからです。まあ、重要と思うかはどうかは人それぞれですが(笑)、その秘密とは、ここまで述べてきたことで感の良い方には察しがつくと思います。作画やキャラは、この解り難い本質をさらに見えにくくする為だと思っています。むしろ、漫画やアニメ、ゲームの世界は、そのことをカモフラージュ(偽装工作)するのに最適な媒体なのです。

この世界の真の姿は、実は、表に見えているものこそ「幻想(ファンタジー)」で、本当の現実は「裏側(オカルト)」に隠されている、というのが、この世界の真相です。

元々オカルティズムは「隠されているもの」という意味で、ヨーロッパなど西欧の歴史を少し調べれば、表向きはキリスト教的な教義や世界観で構成されているように思えますが、アニメ作品「魔法使いの嫁」にも見られるように、実際は至る所で、その国や民族(古代エジプト・古代ユダヤ・ギリシャ・アラビア・北欧・ケルト神話等)ごとに暗喩された神秘主義的・魔術的なシンボルで満ち溢れていることに気付くはずです。

漫画やアニメ・ゲームのクリエーターはもちろん、漫画やアニメが好きなヲタ的傾向を持つ人達は、この世界の真相に、意識的にせよ無意識的にせよ、直観的に気付いている人々ともいえます。だからこそ、その秘されたメッセージに敏感に反応するんですね。

 

本質は「裏側」に隠れている

最後のまとめに入りますが、この作品でも描かれているように、物事の本質というのは多くの場合「裏側」に隠れているのではないでしょうか?

この作品で言えば、独特な作画はより目を引くようにして、本質はわかりにくいように隠されているということです。

例えば、政治家が選挙の時に国のことについて熱弁を奮っても、ごもっともだし、そりゃそうだし、どうせその場限りの「嘘八百」だということが見え見えで、別に大して響きませんが、優れた歌手やアーティストが国のことを歌ったり語った方が、よっぽど心に響くものがあったり、影響力もあったりします。

真面目なことを真面目な人が言っても、意外と説得力が出なかったりしますが、一見不真面目な人が真面目なことを言うと、そのギャップからか、伝わりやすくなります。

まさに、「エガちゃん方式」と言えるかもしれません(笑)

エガちゃんが震災後にボランティア活動をする方が、その価値は伝わりやすかったりします。なので、本質は裏に隠れていると言うか、むしろ裏に隠した方がいいのかもしれません。

『まどマギ』のように、一見萌え要素の強い作画の裏に本質を隠すことで、かえってこの作品はここまで人気が出る作品になったのではないかと思います。

もちろん、変な作画で内容もない、と言う作品もたまにありますが(笑)、本当に伝えたいことは、それを表立ててストレートに言うのではなく、歌や漫画やアニメという形で、それを受け取った視聴者が純粋に楽しめるような「表側(建前)」を作り、さらに深堀したり、考察したくなるような魅力的な「裏側(本音)」に、本当に伝えたいことを潜ませる方が、より魅力が増して人気が長続きするのかもしれません。

このサイトでは、優れたクリエーターやアーティストは「預言者(予言者)」であり「魔術師」でもある。という視点とスタンスでコラムを作成しています。

『化物語』『HUNTER×HUNTER』『ONE PIECE』などの人気作の本質は、まさにそういうところにあるのだと思います。

こういう視点で改めて『まどマギ』を観てみたら、また違う発見があるかもしれないので、ぜひ観てみて下さいね!

 



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