どこまでもついて回る特別視

成長するごとに気づいていく

 

これまでブログでは特別視について何度も触れてきています。

 

これはどこまでやればクリアできるのでしょうか。

 

自分への特別視、他人への特別視、そうしたものは意識していれば、日常で気づくことが度々あると思います。

 

今回Tさんが覚醒に向けての指導を受けていますが、そうした段階になってくると、指導する存在に対する特別視というものに気づくことも必要になります。

 

いわれることを考えなしに信じ込んでしまっては、「自分を生きる」ということからずれが生じます。

 

方向性を確認しながら、あきらめずに取り組み続ける。

 

そんなことわかっているよ、という方もいるかもしれませんが、その難しさをTさんは実感しているのではないでしょうか。

 

 

 

特別視の影響

 

例えば、「月読の大神」「覚醒」という言葉、それらが「たった一言」でるだけで、どれほど冷静さを失い、それに付随する言葉に取り込まれ、勝手な解釈を無意識に始めてしまうのか、それはそうした状況にならないとわからないのではないかと思います。

 

神さまの名前や覚醒といった言葉は、ある人が抱いている特別視の対象です。

 

私たちは他人のことはわかりますが、自分がどういう特別視をしているかは自覚がありませんので、個々に合わせた指導がはいったとき、そうしたところにつけ込まれたりくすぐられて、自分の立ち位置を知ることになります。

 

彼はいまそうしたお試しを繰り返されながら、彼の立ち位置などを確認され、彼のさらなる成長と可能性を指導する存在たちと探る毎日を過ごしています。

 

 

 

特別視と向き合うこと

 

特別視をとるには、ひろかねさんから教えられてきた対等公平と因果応報についての理解が、とくに大事だと思っています。

 

「神」という存在と向き合うにしても同様です。

 

聞きなれた言葉や説明ばかりですから、あまり実感もなく軽く聞き流されることも少なくありませんが、実際はどれも大事なことですよ。

 

理解に自信がない方は、今一度確認されてはいかがでしょうか。

 

覚醒してもなお、エゴは残ります。

 

エゴの完成形という段階に至り、ある程度クリアしたといえるのではないかと思いますので、それまではずっとあるものとお考え下さい。

 

 

 

余談

 

最近火山や地震がやや活発になっています。

 

気になる方は、折に触れて備えの確認などされておくといいと思います。