三柱の神々の存在から思うこと 前編

◎出口王仁三郎著作集 第一巻

 

先日、ちょっときっかけがあって、ひさしぶりに「出口王仁三郎 著作集 第一巻」を手に取って開きました。

 

その中で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、天照太御神、月夜見尊、素盞嗚尊の三神を生んだ後、

 

「此の三柱の神さえ在れば、何事も成就すべし」

 

と喜んだ、という内容がありました。

 

そのことについて、受け取った内容とそれについての私なりの解釈です。

 

簡単に書けば、

 

「それぞれの神さまたちが司っているものを理解し体得できれば、どんな思いも遂げられるよ」

 

ということになるようです。

 

私達が目指す完成形(この宇宙と私達のゴール)を、こういう形で伝えていたのかもしれません。

 

 

 

◎天照太御神

 

天照太御神は光明思想として、あらゆるものごとに光をあてて認める全肯定の象徴。

 

「有」全体に対して、あらゆるものごとを「ある」と認め、その存在を肯定することが、歪みなく全存在を認めることです。

 

歪めるとは、そうしたあらゆる存在をなにかしら否定すること。

 

存在というのは、見ために形のあるものばかりでなく、見えない世界、思い、考え、仕組み、働き、作用、あらゆるものです。

 

高天原を治める存在ですから、その名を通して考えても、そのような解釈はできると思います。

 

 

 

◎月夜見尊

 

月夜見尊は、因果応報を司る存在。

 

因果応報は、自分の取り組みの結果が、繋がりを通して自分に返ってくる仕組みです。

 

全部つながっているから、自分がやったことが自分に返ってきます。

 

それが、ところどころ抜けていたり、自分だけ、この世だけ、そういう考え方で完全につながりが無い、そう思い込んでいると、返ってくるという発想にもならないため、因果律を理解できません。

 

隠れてやればバレない、人のせいにすれば自分は助かる、大丈夫。

 

そうした自分を特別視することや、周りの存在を同等に認めない行為は、自らを歪めて生きづらくさせていきます。

 

否定を変えていくことで歪みを減らしていく肯定とセットで考えることで、因果応報について、自らを生きやすくするための理解が進んでいきます

 

 

 

 

 

◎素盞嗚尊

 

素盞嗚尊は、草薙剣のお話から、自分を生きる、自分の出した方向性、思いを生きる、そういうことを表している、といまのところは考えています。

 

前回までのブログでも書きましたが、自分を犠牲にして他者の思いを生きることは、不満を残し、自分の思いを納得して成就させることはないでしょう

 

八岐大蛇というのは、八個の頭を一つの胴体に持つ化け物として描かれています。

 

その名前の「八」というのは、「八百万の神」という言い方もそうですが、「たくさん」ということの一つの象徴や比喩のように私は考えています。

 

自分を犠牲にして他者の思いや目線を気にしすぎて生きた結果、自分の思いは一番うしろの尾に追いやられ、自分を無くして、たくさんの他者の都合に振り回される化け物になり果ててしまう、それが八岐大蛇ではないでしょうか。

 

それを成敗して尾から草薙剣を手に入れるお話は、自分を取り戻す一つの例え話のようにも思えてきます。

 

 

 

 

次回に続きます。