岡山城 その1 | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

岡山県岡山市北区にある岡山城です。

日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれています。
その黒い外観から、白鷺城の姫路城と対比して、烏城(うじょう)とも呼ばれます。
今回も出張のついでに訪城しましたが、時間がたっぷりあったのでじっくりと見ることができました。
2回に分けてレポートします。

現在の城郭を築いたのは豊臣政権で五大老の一人でもあった宇喜多秀家。秀家は当初、現在地にあったとされる、父の宇喜多直家の築いた石山城を受け継いでいましたが、57万石を領する大大名としては手狭なため天正18年(1590)城の大改修に着手します。築城計画は秀吉の指導のもとに進められたといいます。
東の「岡山」に新たに本丸を築き、石山城の本丸だった場所を二の丸に、二の丸だったところを西の丸に、そして内堀を挟んで二の丸、三の丸を整備し、いわゆる梯郭式平山城の縄張りを行います。
また、防御が弱い東側は、旭川の流れを変えて、天然の堀とする大工事でした。そして、金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守も建造したのですが、一説には安土城天主を、または大坂城天守を模したとも伝わります。
秀家は城の名を「岡山城」と改め、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ばれるようになりました。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで、西軍の石田三成に与した宇喜多秀家は敗戦後、八丈島に流刑となり、代わって岡山城に入ったのは関ケ原の戦いのキーマンこと西軍を裏切った小早川秀秋でした。
しかし、秀秋は、入封後わずか1年10ヶ月で急死し、小早川家は断絶、備前28万石は姫路城主・池田輝政の次男である池田忠継に与えられます。
以降明治まで池田氏が岡山を治めることとなり、その間に池田氏は岡山城をさらに拡大させ、現在の岡山城の縄張りが完成しました。
本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層櫓が9棟、さらに2層の櫓・櫓門などが多数あったと言います。
明治になって廃城となった岡山城は、明治12年(1879)の民立博覧会開催後に御殿・櫓・門など建築物の廃棄が始まり、明治15年(1882)3月には天守以下4棟を残して全てが破却されました。
そして、昭和20年(1945年)6月29日、太平洋戦争中のアメリカ軍による岡山空襲では国宝だった天守や石山門などが焼失してしまいます。
現在の岡山城の天守は、昭和41年(1966年)にコンクリート復元されたものですが、宇喜多秀家が築城した天守の外観が忠実に復元されています。
また、池田家4代藩主綱政が貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて造営した林泉回遊式の大名庭園が水戸・偕楽園、金沢・兼六園とともに日本三名園に数えられる後楽園です。
旭川を隔てて本丸のちょうど対岸を取り巻くように築かれているため、本丸の防備を強化する曲輪の役割を果たしていたという説もあります。後楽園は藩主の好みや使い勝手に応じて幕末に至るまでたびたび改修が加えられ、明治4年(1871)になって一般に公開されるようになりました。

南側の大手門から城内に入ります。大手門前の広い内堀。向こうに本丸の不明門が見えます。

城域一帯は烏城公園として整備されています。
大手門は現存していませんが、鏡石とも言われる巨石がたくさん石垣に埋め込まれています。

とりあえず本丸の中に入る前に周囲をぐるりと一周してみました。

本丸南西隅の石垣
なぜか赤茶色に変色してしまっています。

本丸西側の石垣
こちらは池田氏時代の石垣のようです。綺麗な打ち込み接ぎです。

月見櫓
本丸北西隅にある月見櫓。
本丸にある唯一の櫓で、江戸時代からの現存櫓で重要文化財となっています。格子窓の下には石落としも設けられています。

廊下門
江戸時代はこの上の中段(表書院)と上段とを渡した廊下になっていたことから、廊下門とよばれていました。
戦災で焼失しましたが、天守と同時期に鉄筋コンクリートで再建されています。

この角度から眺めると天守台と天守下層が不等辺五角形をしていることがよくわかります。
八角形の安土城天主を模したのものでしょうか。

北面から見上げる天守
石垣の上部が赤く変色しているのがはっきりとわかります。
空襲の激しさを物語っています。

本丸南側の石垣
西側と異なり、こちらの石垣は角度が緩やかな野面積みになっています。宇喜多期の石垣と思われます。

南の鉄門(くろがねもん)跡から本丸にはいってきました。
さきほど見た西側の石垣を上から眺めます。

本丸の中は上段、中段、下段に分かれています。
中段には表書院という広大な御殿がありました。居住用ではなく、岡山藩が政務を行った建物のようです。
月見櫓以外は失われてしまっていますが、かつて本丸には大納戸櫓、数寄方(すきかた)櫓、伊部櫓、多門櫓など多くの櫓や建物が建っていました。


宇喜多家時代の石垣
中段地面の下からは埋まっていた宇喜多秀家が築城した頃の石垣が出土しており、その一部を常時見られるよう現地展示しています。

その2に続きます。

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