淀城(京都府伏見区) | おおとり駆の城日記

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京都市伏見区にある淀城です。



淀城というと太閤秀吉が側室・淀殿のために建てたというイメージが強いですが、実は現在残っている淀城はその淀城ではありません。

正確には淀城は歴史上3つ存在していました。
一つ目の淀城(古淀城)は、室町時代後期管領細川政元が築城したもので、天正元年(1573年)最期の将軍足利義昭の追放とともに信長によって落城しています。

二つ目の淀城は豊臣秀吉が天正17年(1589年)愛妾茶々のために弟秀長に命じ、この細川氏の淀城を改修したものです。 
このため、茶々は「淀殿(淀の方)」と呼ばれることになります。
ちなみに「淀君」という呼び方は明治時代になってから使われだしたもので、蔑称にあたるという説もありましたが、現在では否定されています。
同年、茶々は嫡子鶴丸を産みますがが、その鶴松はわずか3歳で死去しています。
この淀城も文禄3年(1594年)伏見城の完成に伴い廃城となります。

三つ目の淀城は徳川時代、二代将軍秀忠が松平定綱に宇治川、桂川が合流する水陸の要衝の地に新たな城を築くことを命じ、元和9年(1623年)に着工、2年後に完成します。
淀城には廃城となった伏見城の資材が転用されました。
これが現在も残る淀城で、本丸と二の丸を内堀で囲み、周囲に三の丸・西の丸・東曲輪を配して淀川・宇治川を外堀とした巨大な近世城郭で、門の数は21箇所、櫓も38棟あったと言います。本丸には二条城から移築した5層の天守が建っていたといわれます
その後、永井氏、石川氏、戸田氏、松平氏と城主はめまぐるしく交代し、享保8年(1723年)稲葉正知が下総佐倉から10万2千石で入封以降は稲葉氏12代の居城として幕末まで続きます。

淀城が再び歴史の表舞台に登場するのはその幕末、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた旧幕府軍は一旦淀城に入って戦況の立て直しをはかろうとしますが、譜代である淀藩に入城を拒否され、仕方なく大坂城まで落ちていくことになります。
淀城は本来大坂城とともに西国への抑えとして築城されたはずでしたが、土壇場で薩長中心の官軍に寝返った形となりました。
この時の戦火で淀の城下町と城内の一部が焼失し、明治になって残っていた建物もすべて破却されました。

淀城の特徴として、城の西と北側に直径16mもの大型水車が2基設けられていました
二の丸の居間や西の丸の庭園の池に水を取り入れていたのに使用されていたと考えられています。
現在この水車や櫓の復元計画もあるそうですので、今後に期待しましょう。


与杼神社(よどじんじゃ)

本丸入口に建っている与杼神社は応和年間(961年~963年)の創建。
淀城内に遷座されたのは明治時代ですが、立派な拝殿は、江戸時代初期の建物で国の重要文化財に指定されています。 


「淀城之故址」「淀小橋旧趾」「唐人雁木旧趾」

天守台の前に3つの石碑が並んでいます。
このうち唐人雁木とは江戸時代に大陸から来た使節用の船着場のことで、淀城が水運に恵まれていたことを示しています。


本丸跡

現在は淀城址公園となり、ブランコや滑り台などの遊具が設置されています。


絵図

当時はまさに川の中に建っていた城です。


「明治天皇御駐蹕之址」

明治天皇が明治初年に大阪に行幸された際に廃城前の淀城で一泊された史実を後世に伝えるため、昭和3年に建てられたもののようです。


北西の櫓跡に立って、本丸西側の堀を見下ろします。

水藻が生い茂っています。このハスは廃城後の明治18年に植えられたもので、名前を「淀姫」というそうです。


天守台

京阪電車のガード下からは見事な天守台を見ることができます。
天守台の内部は穴蔵になっており、地階が存在した構造だったようです。
残念なことに天守台内部へ立ち入ることはできません。


なお、淀殿の居城のあった淀古城は現在の淀城跡より北東へ500mほどのところにあり、現在は妙教寺境内に「淀古城址」の碑を残すのみとなっています。



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