千田嘉博先生講演会 | おおとり駆の城日記

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先日、小牧山城史跡情報館「れきしるこまき」のオープン1周年記念講演が開かれました。


本来は4月に行われるはずだった講演会でしたが、新型コロナウイルスの影響で延期となり、今回も直前まで開催が危ぶまれましたが、なんとか参加者を定員の半数に減らして事前予約の形で行われました。
とはいえ、講師は、最近はお城や戦国時代を特集する番組ではNHK、民放問わず見かけない日がないといっていいほど、大人気の奈良大学教授・千田嘉博先生です。
  
お城や歴史の講演会というと普通は自分世代より上の男性が多いのですが、千田先生に限っては女性の比率が圧倒的に高いです。
私自身千田先生の講演会を聞くのはこれで5回目か6回目くらいですが、巧みな話術が年々バージョンアップしていることもさりながら、テレビで見るように動きがマリオみたいでかわいいという女性ファンの目線もうなずけます。
 
さて、肝心の講演のテーマですが「信長の小牧山城からその歴史的意義を読み解く~」ということとで、近年の小牧山城の発掘調査からの知見によって、数十年前と小牧山城の歴史的評価が180度変わったことが冒頭に強調されました。
 
信長が美濃攻略のために、清州城から拠点を移し、わずか4年しか在城しなかったことから単なる陣城程度にしか見られていなかった小牧山城ですが、発掘調査の結果、本格的な石垣が山頂全体を囲むような形で見つかり、安土城に連なる近世城郭の嚆矢であったことが確実視されているのです。
 
小牧山城築城以前、尾張の城郭は平城が主流で、事実、信長がそれまで居城としてきた勝幡城、那古野城、清州城などは中世の典型的な「館城(やかたじろ)」でした。
館城とは周囲を簡易な堀や土塁で巡らし、その守られた館(屋形)の中に主君が居住し、その周囲に家臣団が住むといった形で江戸時代ほど明確に上下関係が分かれていたわけではありませんでした。
 
ところが信長は小牧山の頂上に本丸と自分が住むための御殿を築き、家臣の屋敷を麓に配置しました。
つまり、小牧山城、岐阜城、安土城はいずれもあえて階層的に曲輪を配置することで、次の時代を見据えて、自分と家臣との関係を物理的に規定していったのではないかと指摘されました。
 
石垣から墨書が見つかったことから、工事を区画ごとで担当させる割普請を行ったこともわかっており、これは後の天下普請につながるものである可能性も指摘されました
 
また城下町もそれまでの正方形をした区画から京都の町家のような短冊形の区画で町割りをしていたことがわかっており、限られた城下町の面積で人口の集積を限界まで高めようとしたのではないかとも説明されました。
岐阜や安土をしのぐ壮大な城下町がすでに小牧にあった可能性も捨てきれないと説明され、現在の小牧市民はずいぶんと誇らしく思えることでしょう。
 
 
会場となった小牧市民会館は定員800名ほどだと思いますが、その約半分約400人もの熱心なお城ファンが寒空の中詰めかけました。
 
 
小牧山城の石垣実物大模型
高さは3メートルほどながら、かなりの巨石が使われています。
 
 
市民会館から見る小牧山城
標高わずか80メートルほどの小山ですが、周囲に高い山などがないことから濃尾平野全域を見渡すことができます。


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