2020年3月11日水曜日

犯罪が増えた? (2)―やっかいな反資本主義イデオロギー


 前回の記事では、犯罪が減少しているにもかかわらず「増えている」という主張を批判したが、もう一点違和感を感ずる点がある。それは、「最近は不可解な犯罪が増えてきた」という主張である。そして、それが、競争を原理とする資本主義によって「物質的には豊かになったが、精神は貧しくなった」ためであると締めくくられている点である。私も資本主義が必ずしも最良のシステムと信じているわけではないが、反資本主義イデオロギーは事実認識に大きなバイアスを与えているようでやっかいだ。

 殺人事件等がメディアで特に大きく取り上げられるようになったのは高度経済成長以降で、起きるたびに「現代社会の病理」というレッテルが貼られてきた。2001年の附属池田小学校事件や2008年の秋葉原通り魔事件などでこのような論評が目立ち、「不可解な犯罪」の典型とされた。しかし、この原型がアモックにあるという主張はほとんど見かけなかった。アモックとは、東南アジアの狩猟採集民で観察された現象で、部族内でトラブルなどがあった後に引きこもっていた男性が、突如多くの村人を殺害するという引き起こす大量殺人である。現代の大量殺人の多くもこの延長である可能性があるという論評は、なぜほとんどなされなかったのだろうか。

 また、19801990年代は、青少年による殺人があるたびに、当時の大学・高校受験システムや競争社会が悪いとする論評が多かった。1980年の神奈川金属バット両親殺害事件や予備校生による1988年の女子高生コンクリート詰め殺人事がそうである。このような事件では、「犯人も受験などの競争社会の被害者」とされていた。

 そうした中で、いわゆる「高学歴者」が殺人を犯したりすると、学歴社会がやり玉にあげられ、「知識は身に着けたかもしれないが人間性の教育が忘れ去られた」など、「物質的に豊かになったが精神は貧しくなった」の延長で論じられることが多かった。ところが、このようなメディアが「成長」を遂げたなと感じられたのが、2014年の名古屋大学女子学生殺人事件と佐世保女子高生殺害事件である。私は、これらこそ「不可解」と感じた。おそらくメディアも、「不可解」すぎて、「学歴社会によって人格がゆがんだ」のような単純な図式を当てはめることが困難と思ったのだろう。

 私がもう少し話題にならないかと思っていることは、血縁者による殺人である。血縁者殺人は、昔は全殺人に占める割合は多くなかった。しかし、殺人が全体的に減少している中で、家族内殺人などの血縁者による殺人だけはあまり減少せず、その結果、現在の日本では、殺人の約半数が血縁者によるものとなっている。血縁者は、進化的な適応という点で最も信頼できるはずで、互いに殺しあうことは少ないはずである。たとえば13世紀のイングランドでは殺人の約6パーセント程度であった。血縁者による殺人あるいは家族内殺人は、人間の精神の病理が反映しているようで、これこそ「不可解」である。このような殺人は、現代のモラルや人権意識の向上という文化背景の中で、抑止されにくいのかもしれない。

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