2020年9月5日土曜日

日本人の一人当たりの生産性の低さ(1)―勤勉革命

 前々回の記事で、「国民性」という言葉は好きではないと書いたが、最近、個人的に懸念しているのが日本人の一人当たりの生産性の低さで、これが「国民性」ではないのかと気になっている。現在、先進国の中ではかなり下位に位置するようだ。世界の人々に豊かになって欲しいという理想はあるものの、日本が相対的に貧しくなるのはやはり避けて欲しい。これが「国民性」によるものなのか、生産システムや経済システムなどの制度によるものなのか、特に後者については素人なのでわからない。

 日本の文化的伝統あるいは習慣についていえば、生産性向上を阻む要因がいくつか考えられる。たとえば、個人的な話で申し訳ないが、何年か前から、私の株を管理してくれている証券会社から手書きの誕生日カードが届くようになった。私の株など微々たるもので、顧客全員にこんなことをしているのかと考えると、なんと非効率的な会社だろうと思ってしまう。必死に顧客サービスをしているつもりなのかもしれないが、こんなことをしている暇があったら、もっと経済の動向と株価の変動を研究してくれよと思ってしまう。

 まあ、百歩譲って誕生日カードを嬉しく思うとしても、手書きであることが必要なのだろうか。概して手書きは「心がこもっている」と想定されているが、「心がこもっている」ことが、他国と比較して日本においてとくに重要な気がする。たとえば、スーパーでのレジ打ちは日本では立って行うのが当たり前だが、多くの国では座って行われる。立って行う必要があるだろうか。座ってレジ打ちするとお客様に対して失礼で、「心がこもっていない」ことになるのだろうか。私は、立っていては疲れるだろうし、疲労度が高ければ非効率だと思うのだが、この非効率を容認する風土が一人当たりの生産性の低さに結びついているのではないかと思う。橘玲氏がどこかで述べていたが、まさしく「日本人は合理性を憎んでいる」のではないかと思う。

 どこの文化でも、謝罪にしても、感謝にしても、「心から」行うことは大切である。しかし、謝罪会見等で、謝罪の仕方から「心がこもっている」かどうか、あれだけ批評されるのは日本の特徴ではないだろうか。この「心から」(私が好きな二重過程理論では、「直感」からということになるが)が要求される傾向が強いのは、人間関係が固定的で長期的な文化においてであると言われる。人間関係が長期的であることがデフォルトである状況では、何度も裏切ったり迷惑をかけたりする人物は忌避されるわけである。

 もう一つの文化的要因は、産業革命(industrial revolution)とほぼ同じ時期に日本で起きた勤勉革命(industrious revolution)だろう。この用語は速水融氏によって提唱されたもので、江戸時代の農村部に生じた生産革命である。産業革命では、機械化を資本が支えて、人間による労働を節約することによって生産性が向上したが、日本の勤勉革命は、家畜が行っていた労働を人間が肩代わりする資本節約・労働集約型の生産革命である。たとえば、室町時代には田畑を耕すのに牛馬がよく使われていたが、江戸時代になるとこれを人間が行うようになった。進歩とは逆行のように見えるが、耕地面積の少なさから牛馬の維持にコストがかかり、単位面積当たりの収穫量を増すためには、人々が組織的に集約農業を営むほうが良いというわけである。これが日本人の勤勉的な労働観に影響を与えたと考えられているようだ。明治の殖産興業や昭和の高度成長期にはプラスだったかもしれないが、グローバル化された合理主義の状況では、勤勉の無駄遣いが至るところで見られるように思える

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