キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

神と悪魔が同じ称号で呼ばれていること

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キリスト教世界には、「明けの明星」とか「暁の明星」などと言う称号(タイトル)があって、悪魔(ルシファー)やイエス・キリスト、教派によっては聖母マリアに対して用いられます。「明けの明星」「暁の明星」とは、朝、東の空にひときわ明るく輝いて見える金星のことを指す言葉です。

神と悪魔のタイトルが同じであるとは奇異なことのように思えるのですが、それはなぜなのでしょうか。

まず、悪魔についてです。明けの明星が悪魔を象徴する言葉であるというところの根拠は聖書にあるようです。

ルシファー(wikipedia)には、

イザヤ書の聖句は第一義的にはバビロンの王を指しているものであるが、アウグスティヌスはこれは預言者イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的に表していると説明している[9]ビリー・グラハムはここにルシファーの5つの「私は行おう」という罪が見られると解説している[10]

とあります。キリスト教世界では、このアウグスティヌスの思いつきによって、ルシファーという名の悪魔が実在することになってしまっているのですが、旧約聖書の本家本元であるユダヤ教にはそのような考え方はありません。ルシファーとは明けの明星を示す一般名詞なのであって、イザヤ書においてはバビロニアを暗喩する言葉であると考えられているようです。

イザヤ書から問題の箇所を引用してみましょう。

イザヤ書 14:12
黎明の子、明けの明星よ、
あなたは天から落ちてしまった。
もろもろの国を倒した者よ、
あなたは切られて地に倒れてしまった。

ルシファー(明けの明星)が実在の悪魔を指し示している、と考えるよりは、バビロン捕囚に対する記憶として、バビロニアという国またはその君主を暗喩するために用いられていると考えるほうが自然であると思います。

ルシファー(wikipedia) にはまた次のような説明もあります。

ルシファーと大天使ミカエルは双子の兄弟だという説がある[註 8]が、これはゾロアスター教で善なる光の神アフラ・マズダと暗黒魔神アンラ・マンユ(アーリマン)とが双子だという話の翻案である。

悪魔の恐怖に抗うことが第一義であるように教える現代のキリスト教は、イエス様の教えに従うものというよりは、ゾロアスターの後継者であるように思えます。

次はイエス・キリストです。明けの明星はイエス様に付するタイトルでもあって、その根拠も聖書にあるようです。引用してみましょう。

ヨハネの黙示 22:16

わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。

あたかもイエス様本人がそのように述べたかのように記述されているのですが、これは、ヨハネの黙示を記述した人の創作ですよね。これが著された当時は、まだイザヤ書のルシファーが悪魔だという考えは出てきていませんでした。明の明星といえば、イスラエルの属するカナン地方の土着神を意味する言葉であったのです。

シャヘル(wikipedia)には、

シャヘル (Shahar) は、カナン神話英語版ウガリット神話)における曙(明けの明星)の神。黄昏(宵の明星)の神シャレム英語版[注釈 1]とは対になる神とされる。

とあって、アッタル(wikipedia) には、

アッタル(Attar)はカナン神話(ウガリット神話)における金星、すなわち曙(明けの明星)の。同様の神格にシャヘルがいるが、アッタルはより当時の民衆の信仰を集めていた。

とあります。

つまり、土着神に対する民衆の信仰を、あなたがたの拝んでいる明の明星とは、実はイエス・キリストのことなのだよ、という恣意が、黙示録のこの箇所に含まれていて、イエス様のタイトルの一つに明の明星が含まれるようになったのだ、ということだと思います。

日本にも本地垂迹(wikipedia)という考え方があって、大日如来とは、実はお伊勢さんのことである、とか、阿弥陀如来は、実は八幡さまのことである、などと言うのですが、これとよく似たことだといえるでしょう。

最後は聖母マリアです。マリア崇拝を行う教会の中でも、特にカトリック教会は、明の星、暁の星、海の星、などと言って、聖母マリアを象徴するようですが、これは聖書に根拠を置かない事柄であるようです。カトリック系の団体が経営する暁星、明星、海星などの学校の名前は、聖母マリアを象徴している場合がほとんどです。

聖母マリアに明の明星というタイトルが付せられている理由はイエス様の場合とよく似ています。

地母神(wikipedia)から引用してみましょう。

メソポタミアの各地で、起源を同一とするとみられる一連の地母神がみとめられる。すなわち

などである。イシュタル、アシュトレト、アスタルテは、祭祀上と言語学上から、同一の神格がそれぞれの地方で信仰されたものとみられる。彼女らは金星神であり、また天の女主人と呼ばれた。

フェニキアのアスタルテは、ギリシアに伝わり、アプロディーテーとなり、キプロスを中心として信仰された。

アプロディーテー(wikipedia)からも引用しましょう。

本来、豊穣多産の植物神としてイシュタルやアスタルテー同様に金星の女神であったが、このことはホメーロスやヘーシオドスでは明言されていない。しかし古典期以降、再び金星と結び付けられ、ギリシアでは金星を「アプロディーテーの星」と呼ぶようになった。現代のヨーロッパ諸言語で、ラテン語の「ウェヌス」に相当する語で金星を呼ぶのはこれに由来する。

グレゴリオ聖歌でも歌われる中世の聖歌『アヴェ・マリス・ステラ』の「マリス・ステラ(Maris stella)」は、「海の星」の意味であるが、この星は金星であるとする説がある。聖母マリアがオリエントの豊穣の女神、すなわちイシュタルやアスタルテーの系譜にあり、ギリシアアプロディーテーや、ローマ神話ウェヌスの後継であることを示しているとされる。

また、

ローマ神話ではウェヌスVenus)をアプロディーテーに対応させる[1]。この名の英語形は「ヴィーナス」で、金星を意味すると共に「愛と美の女神」である。

ともあります。

なにしろ、ヴィーナス信仰の歴史は4万年(wikipedia)です。キリスト教とは一桁ちがうのです。ヨーロッパ人にはキリスト教よりもヴィーナス信仰の血のほうが濃く流れているわけです。そして、カトリックやアングリカン、ルーテル、メソジストなどにあるマリア像は、実際はヴィーナスであり、キリスト教徒が神の母だといって拝ませられているものは、実際には地母神だということになるわけです。

 

以上が「明けの明星」が悪魔と神、神の母に共通のタイトルであることの理由だと言って良いのではないかと思います。キリスト教は、発足当初、異教徒を取り込むために仮の姿を装ったのです。われわれはキリスト教だと公言しているが其の実、礼拝しているのは今まで通りあなたがたが礼拝している神と同じ神なのだよ、と唆して信者数を確保してきた、というわけです。そして、本来の姿に戻る機会を逸したまま現在に至ってしまっている、ということなのでしょう。

 

教会での“性暴力”

www.jprime.jp

 

週間女性プライムに「「この瞬間にも誰かが神父の餌食に」教会での“性暴力”、おぞましい実態と被害者の闘い」という記事があります。読んでみましょう。

 

 1977年。鈴木ハルミさん(当時24)は、宮城県沿岸部にあるカトリック教会の日本人司祭・A氏に救いを求め、相談に乗ってもらっていた。

 そのころの鈴木さんは多くの問題を抱えていた。職場では病院の不正行為を告発し、共闘するはずの仲間に「あなたひとりでやったこと」と裏切られ、自殺を図った。家庭では夫からDVを受けていたのに加えて、義母の介護に集中するため、カトリックでは罪となる中絶をした。

 その苦しみからの救いを求め、A司祭に話を聞いてもらっていた。ところが3回目の相談で、A司祭は突然、鈴木さんを抱きしめ、耳もとで「後悔しないね?」とささやいたのだ。鈴木さんは、「神の代理人」の予想外の行為に頭が真っ白になった。気づけば別室のベッドにいて、全裸の司祭が身体の上に乗っていた。その後、帰宅までの記憶はいっさいない。

 これは司祭の立場を利用した性暴力で、重大犯罪だ。だが当時、鈴木さんは被害の意識よりも、むしろ「私は教会を汚した」と罪悪感を抱いた。罪悪感から逃れるために依存したのが、酒とパチンコと買い物だった。

宗教とは常識人にとっては害悪でしか無い、という事実の好例だと思います。次をご覧下さい。

 ’16年2月、鈴木さんは日本カトリック中央協議会に「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」という救済窓口があることを知り、電話で事件を申告した。カトリック仙台司教区は第三者調査委員会を設置し、委員会はA司祭にも聞き取りを行い、調査報告書を10月19日にまとめた。

 だが11月11日に、鈴木さんが報告書の受領のため教会事務局を訪ねると、対応したH司教(当時)はこう言った。

「あなたは合意してやった」

自浄作用が機能していない、危険な組織である、と評価せざるを得ないでしょう。そのような組織を構成する要員であれば同じ色に染まる、これも当たり前の話です。常識人でありたいと望むのであれば、いますぐ離れるべきです。他のキリスト教の教派、教団、全て同じようなものだと思います。

バベットの晩餐会

prtimes.jp

プライムビデオで「バベットの晩餐会」を観ました。とても良い作品だったと思います。今回の記事は、ネタバレを含んでいますので、ご注意いただければと思います。

ja.wikipedia.org

デンマークの海辺の村で倹しく暮らす姉妹と、村の人々、姉妹に思いを寄せた二人の男性と、その縁で姉妹のメイドとして働くことになった、主人公のフランス人バベット。

かつて、パリの有名レストランのシェフであったバベットは宝くじで大金(1万フラン。現在の日本円でおよそ5000万円)を手に入れますが、姉妹と村の人々のため、フランス式の料理でパーティーを開こうと計画をし、旅にでて食材や食器を買い付けて、帰っては自ら料理をし、姉妹と、以前は仲良しだったのに、年を取って意地悪になってしまった村の人々に振舞います。

姉妹は、これでお別れ、と覚悟を決め、さようならと挨拶をするのですが、バベットは、これからもこの家で働くつもりだと告げます。宝くじの当選金はどうしたのかと問い質すと、パーティーのために全て使いつくして無くなってしまったのだ、と答えます。

戸外からは、パーティーの帰り、その料理に感銘を受けた村の人々が和解し、互いにゆるしあい、手を繋いで神を称える賛美歌の歌声が聞こえてきます。


僕は、この作品が、福音書の精神性を簡潔に表現しているように感じました。すなわち、財産とは自らのためではなく、人様のために使うものだ、というイエス様の教えです。金なんて生きるための不足がなければそれで十分なのです。余った分は助け合いのために役立てればいい。

また、次の箇所を思い起こしました。

ヨハネ福音書 12:3

その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。

 

キリスト教のチューリップとは

www.hibiyakadan.com

キリスト教のチューリップ」をごぞんじでしょうか。ウィキペディアの「ドルト信仰基準」をみてみましょう。

ドルト信仰基準(ドルトしんこうきじゅん)あるいはドルト信条(ドルトしんじょう)は、1618年ドルトレヒト会議で決められた信仰基準。

オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウスの死後、1610年に彼の支持者たちが、自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出し、アルミニウス主義の認可を政府に求めた。これが元で1618年にドルトレヒト会議が開かれ、その際に信仰基準が決められた。この会議では、アルミニウス主義は公式に認められなかった。その基準は、改革派教会長老派教会といったカルヴァン主義の特徴を5つの特質として明確にしたことで神学史上大きな意味がある。

  1. 全的堕落(Total depravity) - 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
  2. 無条件的選び(Unconditional election) - は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
  3. 制限的・限定的贖罪(Limited atonement) - キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
  4. 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) - 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
  5. 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) - いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。

この頭文字をとって「TULIP」(チューリップ)の神学と呼ばれる。「カルヴィニズムの五箇条」として、カルヴァン主義の中心的な教理として扱われることがあるが、このドルト信仰基準はあくまでアルミニウス主義陣営の信条に対抗してつくられたものである。

とあります。改革派成立当初からあった、改革派の信条、と思っている人が多いように思いますが、ウィキの説明にある通り、アルミニウス主義の台頭に触発されて開催された、「ドルト会議」において決定された事柄である、というところが実際です。

このような考え(全的堕落)があるので、福音派など、カルバン主義に依拠する教会は、聖書は人が著したものではなく、神が人に憑依して直接著したものだと主張するわけです。全的に堕落した人間には聖書を記述する能力がないはずだと理解しているからです。

これに対してアルミニウス主義は何を主張しているのでしょうか、ウィキペディアの「アルミニウス主義」を見てみましょう。

アルミニウス主義アルミニウスしゅぎ)は、オランダ改革派出身のヤーコブス・アールミニウス(ハルメンセン)カルヴァン主義神学予定説に疑問を持ったことから生まれた、中知ミドル・ノウレッヂ主義神学も含むカルビニスム修正主義神学カルヴァン主義傍流神学である。

論争途中で亡くなったアルミニウスの死後、1610年に、彼の支持者たちが、ウーテンボハールトを中心に自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出、アルミニウス主義の認可を政府に求めたことから、レモンストランスと呼ばれた。この問題を解決するために1618年ドルトレヒト会議がもたれたが、この会議では、アルミニウス主義は、公式に認められなかった。現在では、メソジストホーリネスなどがこの立場を取っている。

とあります。主張の内容はさまざまあるようですが、最も印象的で、おそらくは保守的なカルバン主義者たちが反発したであろうと思われる箇所は、

カルヴァン主義同様、アルミニウスも「全的堕落」「全的無能力」の教理を受け入れた。ただし、この世に生を受けた人で、全的堕落の状態のままで放置されている者は一人もいない、キリストの十字架による贖いの恵みによって、少なくとも神の呼び掛け・救いへの招きに応答する能力が恢復されたと考えたのである。これに対し、カルヴァン主義は、「全的堕落」をこのような能力すらない堕落した状態であると考える。

であって、「条件的選び」として、

神はあらかじめだれがキリストを信じるか見ており、その予知に基づいて信じる者を天国へ選ぶことを決める。救いは信仰に条件づけられているので、万人救済主義ユニバーサリズム)ではなく、救いの備えが、万人のものであるとする。

と定義しているところがそれであろうと思われます。

しかし双方とも、そのように主張するのであれば、結論として「教会へ行く必要性が何も無い」ということになってしまうのではないでしょうか。

人類が全的に堕落していて回復の可能性がなく、神の決定を変更することもできないというのであれば、何のために教会へ行くのでしょうか。また、万民に救いの備えがあるというのであれば、教会へ行く必要は失われるはずです。つまり、そういうのであれば、教会も不必要になった。だから、教会組織は解散しよう、と言って実際に解散してこそそれらの主義主張は、社会において完全に実践されることになるはずです。

なぜそうはならないのでしょうか。それはつまり、人間が宗教に求めるものの究極の実態は「迷信」だからです。カトリックや正教のように、誰でも教会の言う通りにしていれば救われて天国で神と相まみえることができますよ、と考えていたいから、頑張って献金をするのですよ。

『情けない牧師』とは

laurel8.jimdofree.com

 

KOBEインターネット教会、光のイエス・キリスト教会 のサイトに、『情けない牧師が多すぎるのではないか?』という記事がありました。引用してみましょう。

今、日本では牧師が不足しています。無牧師教会も増加の一途です。

これは、高齢化の影響もあって、牧師が高齢で引退する事もあると思いますが、ほとんどは、牧師の収入が安い事が原因です。

しかし、牧師の収入が安くとも、平日に教会を訪れる信者様はほとんど居りません。牧師だって、一般信者様と同じ様に働けば良いではありませんか。

僕もそのように思います。当ブログにおいても常々同様の主張を行っています。しかし、次節がよろしくありません。御覧ください。

…この様な話を、他の牧師にすると、「平日も結構忙しい。」と言う返事が返って来ます。しかし、忙しいのは誰しも同じではありませんか? 牧師だけが忙しいのではありません。牧師だって教会以外の仕事を持って、働けば良いのです。

何がよくないのかといいますと、「牧師は忙しい」のだと同意していることがよくありません。牧師は忙しいでしょうか。牧師が忙しいのは、日曜の礼拝とその前後を含めたとしてもせいぜい3時間、週にたったの3時間程度でしかない、と思います。

この牧師さんのように、交通事故鑑定士という職業人としての側面があるのであれば忙しいかもしれません。学校の教師、医師、看護師などを兼務している場合などもあるかもしれませんが、そういった人たちも忙しいだろうと思います。しかし、そういった兼業は、牧師の仕事がヒマだからできることなのだ、とも言えると思います。

そして、世の中の大多数の牧師は牧師一本の専業牧師だと思います。

最後はこのように締めくくっておられます。

しかし、残念ながら、「甘ったれた牧師」が多いのは事実です!         今こそ、牧師の意識改革が必要な時です。そして、イエスエルサレムの神殿で見た様な、「金まみれの宗教」から脱却する為の「宗教改革」を行うのは今です。

皆で、もっと、真剣に”キリスト教”と言うものを考えてみようではないですか!

私は、他の”インターネット教会”のHPも見ましたが、本気で真剣に行って居るとは思えませんでした。

しかし、「甘ったれた牧師」が多いわけではなくて、「甘ったれた考えの人間」が牧師になるのではないかと思います。楽して生きていく術、と高を括っているようにしか思えませんし、実際、さほど立派な牧師(神父もですが)に出会ったこともありません。

この牧師さんの改革案を実現するのであれば、プロテスタントの牧師按手、カトリックの聖職叙階の条件として、就業していて、一定以上の収入があること、を定めればよいのです。もちろん、牧師や神父としての報酬はゼロです。そうすれば、『情けなくない牧師(神父)』が現れるかもしれません。

宗教を産業と捉える経済理論の紹介

note.com

宗教は産業である、という事は、当ブログにおいて常々主張していることなのですが、上にリンクを貼らせていただいた武内和人さんのnoteに「あらゆる宗教を産業と見なし、経済理論で分析した『信仰の行為』の紹介」という記事がありましたのでご紹介します。

引用しましょう。

著者らは、人間の感情的、精神的、文化的な欲求を満たすための産業として宗教を捉えることを提案しています。この産業で主な消費者となるのは高学歴者であり、特に自然科学の分野で大学教育を受けた人々はそうでない人々よりも信仰の保有率が高いと著者らは指摘しています。宗教家はこの顧客を自らの宗教団体の信徒とするために、さまざまな競争戦略を採用しています。

宗教とは産業、つまり、商売であり、商品は「人間の感情的、精神的、文化的な欲求を満たすための」ものである、と説明されています。

その通りだと思います。専任職業者(神父や牧師)が存在すことがそれを裏付けています。

さらに引用します。

著者らは信徒が他の宗教へ改宗する事態を防ぐために、定期的な礼拝や集会への参加率を高めることも戦略的に重要であると論じています。このような場面で信徒は単に交流を重ね、社会的ネットワークを強化するだけでなく、その宗教が提供している商品、つまり信仰が「実際に効く」ことを裏付ける証言を共有することができます。これは信仰に投資することで将来的に期待される利益、幸福、救済を信徒により強く確信させることに繋がります。ただし、宗教的な救済や利益を確信させるだけでは十分ではありません。信徒の中では最小限の負担で得ようとして、「神を騙す」こともあります。このような逸脱行為に走る信徒が増えると、宗教団体の存続を危うくする恐れがあるため、信徒同士を絶えず接触させ、教義から逸脱しないように相互に監視させることが有効です。

宗教という産業の卑劣なやり口、商品管理の方法ですが、理解できますね。信者という肩書の顧客、その顧客同士をピア・プレッシャーによる緊張下に配置して支配する、という反社会的なそれである、ということになるでしょう。

リタジカルな礼拝を行う教会

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今回は、世界中にあるキリスト教の教会のうちから、リタジカル(儀礼的)な礼拝を行う教会の、礼拝式の様子をYou Tubeから集めてまとめてみました。

カトリック正教会をはじめ、リタジカルな礼拝をおこなう教会は案外たくさんあって、実際には大多数の教会がリタジカルな礼拝をおこなっていることになると言えると思います。それでは見ていきましょう。

 

ギリシャ正教

ギリシャ正教」という言葉はオーソドックスチャーチ全体を示す場合もありますが、この場合はギリシャ地方の正教会という意味だと思います。動画タイトルの「シノディカル」という言葉が具体的に何を指すのか、不勉強で申し訳無いのですが、わかりませんでした。

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ロシア正教

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アルメニア使徒教会

youtu.be

ジョージア正教

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神聖ケルト教会

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コプト教会

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カトリック(旧様式)

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カトリック 15世紀の様式を再現

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カトリック(新様式)

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カトリック・マロン派

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リベラル・カトリック教会

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パルマリアン・カトリック教会

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フィリピン人の「反ローマ法王」教会

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アメリカ聖公会

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アングロ・カトリック(英国聖公会・高教会派)

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英国聖公会

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聖パトリック正教会

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アンティオキア教会

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ルーテル教会

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メソジスト教会

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長老教会

リタジカル、というほどではないのですが、クワイアがキャソック(黒衣)とサープリス(短白衣)を着用しているのを珍しく感じましたので掲載しました。長老教会の礼拝式では、司式牧師がガウンやストールを着用する場合がよくあるように思います。

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テゼ共同体

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以上に、You Tubeに挙がっている動画から引用させていただきました。私自身は、生後、台湾の長老教会で幼児洗礼を授けられ、小学生からは京都の日本基督教団(旧組合教会)の教会員として育ちましたが、いずれの教会も、牧師は背広姿であって、礼拝の様式にも、ほとんどリタジカルな要素は含まれていませんでした。しかし、これらのような動画を見ると、プロテスタントも(ルーテルやメソジストだけでなく、長老教会であっても)、リタジカルな要素を含む礼拝をおこなう例があることがわかります。プロテスタント全体主義ではありませんので、同じ教派であっても、礼拝の様式などは個々の教会による場合が多いのでしょうが、案外とリタジカルな礼拝を行う教会は多いようです。リタジカルではない礼拝を行うプロテスタント教会は、改革派などカルバンの影響が強い教会と、福音派など、組織としての歴史が浅い新興教会などでしょう。