キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

牧師の地位について

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今回は「牧師の地位」について考えてみましょう。

 

「悩めるクリスチャンの日記」というブログの「教会に行きたくないという気持ち」という記事から引用します。

plaza.rakuten.co.jp

2015.03.17

教会に行きたくないという気もち
カテゴリ:最近思っていること・一般
キリスト教信仰をつづけると、何か大きなつまずき、または、とても不愉快なことが原因で、教会に行きたくなくなるし、中にはクリスチャンをやめたいという人も多いと思います。

最大の問題は3つあり、クリスチャンの人格であり、その他に「聖書中心主義」と「牧師による聖職者独裁制」があります。
「聖書中心主義」というのは、聖書に忠実な生き方をすることです。または聖書の言葉を文字通りに信じることです。でも、いったいどの解釈が正しいのでしょうか。

もう一つは、牧師による独裁的な教会運営、または聖職者制度のことです。これはカトリック教会の悪いところを受け継いだのが原因だと思います。牧師には上司がいない。怠けようが何をしても叱る人がいないというパワハラとは無縁の職業。でも、結果としてでてくるのが献金の金額と日曜礼拝の出席人数なんです。逆に長年、信者として聖職者ではない年長のクリスチャンはさまざまな苦労を知っているので、牧師を叱りたくても叱れないという悩みを抱える場合もあります。

口先だけの謙虚さではなく、本当の謙虚さになるには全ての人が平等の位置にいるのべきなんでしょうか。その意味で聖職者制度には強く反対をしています。

最後にはクリスチャンの人格の問題があり、常に人を見下すことなんです。変な意味での正義感があることです。自分の場合、口下手すぎるのが致命的過ぎるほどの欠陥(短所も見方を変えれば長所となるが)で、つねに誤解され続けていて、それが原因で教会で傷つけられることが良くあります。時には怒鳴り散らしたい気持ちになることもあります。

キリスト教会には本来「会衆制」と「長老制」という制度があり、聖職者制度はカトリック教会のときの名残です。
クリスチャン歴が長く世間でも良く思われ家庭をちゃんと納めている人が長老として運営し、一人一人の意見をちゃんと聞く教会が健全だと思います。

とにかく信頼関係がなければ、または、バカにされていれば何を言っても無駄なんです。人間関係を断ち切る勇気を持つことも大事なんです。リセットして、よく反省し再起動をすることも重要なんだと思います。

自分の居場所がない。一人の人だけが奉仕活動を独占してしまっているなど。気がつかずに迷惑をかけることもたびたびある場合もあります。

とにかく、余計な事を言ってバカにされないためには、無口なほうがいいです。
余分な事を言わないことが無難です。

 ここで、「キリスト教会には本来「会衆制」と「長老制」という制度があり、聖職者制度はカトリック教会のときの名残です。」と述べておられるのですが、正確ではありません。「キリスト教会には」は「プロテスタント教会には」というべきですし、「会衆制」「長老制」というのは教会政治の行い方であって「聖職者制」とは別のものなのですが、そもそもプロテスタント教会には「聖職者」がいませんので「聖職者制度]というものも存在しません。

カトリックには「叙階」というサクラメントがあって、司祭になったり司教になったりすることは神の介在による特別な印、という考えがあるのですが、プロテスタント教会宗教改革によって、この考えを捨ててしまいました。プロテスタント教会における司祭は、信徒各々がそれであって、信徒は司祭を経由せずに、神から直接あらゆる恵みを受ける、と考えるのです。これを「万人祭司」と言って、「聖書のみ」、「信仰義認」に並んで「宗教改革の三大原理」と言います。プロテスタント教会には「司祭」という特別な職制は不必要で存在もしない、という意味ですね。

ですので、カトリック正教会の神父さんに該当するのは、プロテスタントでは牧師さんである、と考えるのは、厳密に言えば間違いなのです。

では牧師とは何なのか、と言いますと、要するに「教会の管理人」だといえばほぼ正確だと思います。牧師は信徒の使用人だということですね。

上記ブログでも言及されている通り、プロテスタント教会は、長老教会や改革教会の「長老制」、バプテスト、組合教会の「会衆制」、また、聖公会やメソジスト、ルター教会などのような「監督制」と言ったような制度を通して、信徒による運営を行うことが正しい状態です。カトリック正教会は、聖職者による教会組織が直接に運営していて、信徒は教会に従属しているという状態ですので、プロテスタントの組織イメージとは全く異なる、ということがおわかりいただけると思います。

プロテスタントの牧師は、信徒の使用人ですので、教会がその収入から給料を支払い、信徒は牧師の給料の額を知っていますが、カトリックの神父は神の使用人であって、給与は神に代わって(教会ではなく)教区が支払っている、ということになります。

同じプロテスタントであっても、教派によって多少牧師の重みに差があるかもしれませんが、「万人祭司」を否定するプロテスタント教会はあり得ません。

例えばナサニエル・ホウソーンの「緋文字」という小説がありますが、これは清教徒の、現代でいえば「組合教会」のお話ですが、お読みいただければ登場する牧師は信徒の言いなりで、権威も説得力も何も無い、という様子がお分かりいただけると思いますが、プロテスタントの牧師というものは、本来そういうものだということなのです。

よく「偶像崇拝」と言ってカトリック教会を非難する場合がありますが、聖人の画像や聖像を安置して礼拝を行うことであるよりは、神父や司教、教皇を絶対視するような行状を指摘して、そのように批判することが本来の意味ではないかと思います。

 

おわかりでしょうか、上記ブログで「逆に長年、信者として聖職者ではない年長のクリスチャンはさまざまな苦労を知っているので、牧師を叱りたくても叱れないという悩みを抱える場合もあります。」と記されていますが、牧師の間違いを指摘できない教会は、プロテスタントとしての本来の機能が失われてしまった状態だと理解するべきです。

牧師が信徒に什一献金を強要することなどはまったく見当違いですよね。 牧師は信徒の召使いです。召使いが主人に自分が受け取る賃金の額の多寡をどうこう言うなどもってのほかだということなのです。