溶けた小さな記憶 | 風のたまごを見つけた   

風のたまごを見つけた   

for pilgrims on this planet.
この惑星はなんて不思議!

 

 

 

 

昨日からずっと

 

こころに

 

無音の時間が流れている。

 

 

 

これは、変化のサイン。

 

 

私の場合、

 

こころがお引っ越しを決めると

 

過去のいろいろな情報の整理が始まって

 

思考が止まって、

 

 

外から見ると、

 

かなりポカンとした、おばさんになってしまう。

 

 

 

 

けれど、

 

その整理過程で

 

すっかり忘れていた思わぬ自分が

 

すごくクリアな再生映像みたいに脳裏に浮かび

 

大切な作業が内面でなされているので

 

 

周囲のみなさん、

 

ちょっと辛抱してくださいね(笑)

 

 

以前は、こんな非生産的な時間を費やしてはならぬ、、

 

と自分を戒めていたこともあったけれど

 

 

今はむしろ、

 

最優先するくらいに許容している。

 

 

 

 

 

今日、

 

ふと現れたのは

 

小さい頃、教室で立っている自分だった。

 

 

どうせなら、キラキラした初恋みたいな

 

情景の方がよかったけれど、、、

 

 

三つ折りソックスの、小学生の私が

 

ぽつんと、教室にいる。

 

 

先生も、クラスメートもいるのだけど

 

マインド的に

 

ぽつん。

 

 

 

それはスライドで映写された

 

とても美しいブルーの映像だった。

 

 

なぜそんな映像を見せられたのか、それが

 

写真だったか、絵だったかは記憶にないけれど

 

心に響く美しい、青色の記憶だけが残っている。

 

 

私は、吸い込まれるようにその映像を

 

見つめている。みんなと一緒に。

 

 

 

先生がひとりひとりに

 

連想するものを尋ねてゆく。

 

「海」、

 

「空」、、、、、

 

私の番になり、わたしが

 

「えいえん」と答える。

 

 

 

教室が

 

一瞬しんとした。

 

先生が板書の手を止めて、振り返り

 

「なんだ、何かの本で読んだか?」

と、カッコつけんなよ~と笑い、そして

 

みんなも、一斉に笑った。

 

たったそれだけの、何でもない、

 

本当に些細な瞬間。

 

 

けれど、その瞬間は、

 

自分が心のどこかで感じていた

 

孤独という感情を、

 

初めて露わに体感した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

今なら、

 

恥ずかしくないかもしれない。

 

けれど当時のムードを客観的にみると

 

確かに観念的で、空気を読んでない答えかも、と

 

大人の私は思う。

 

 

こんな場で、こんな時は、

 

アルアルな単語を発言することが

 

みんなとの連帯感を生むというもの。

 

 

 

けれど、

 

 

その言葉を発したときの心は

 

みんなと深くつながりたいという衝動が溢れて、

 

自然に口から出た言葉だった。

 

 

その教室で

 

みんなで見つめた映像は、

 

自分が無意識に探している、無限のいのちに

 

つながっていると感じた。

 

それは、とても大切なことだった。

 

 

 

普段はつながれない

 

こころの奧の永遠につながっていると感じて

 

みんなの心と一番深く

 

つながろうと、ちょうど手を繋ごうと

 

差し出した手のひらのような、

 

素朴なひと言だった。

 

 

きっと、

 

誰かが同じ思いで

 

「私も」と握り返してくれれば、

 

その思いは、広がってゆくと

 

期待していたのだろう。

 

 

しかし、無残にもナイーブな心だけが

 

宙に浮き、、、

 

永遠は、ぷつんと切れた断片になってしまった。

 

 

宙に浮いたままの、凍った時間。

 

 

それなりに協調性があった私は、

 

学校では、自分の感覚は控え

 

その場で求められることを、ちゃんと考えて

 

発言しましょう、という自分の

 

教訓の引き出しに、

 

「注意」という札をつけて収納したまま

 

すっかり年月が過ぎた。

 

 

ほんとうに

 

ちっちゃな点みたいな

 

些細な記憶。

 

 

 

なぜ、引き出しが引かれて

 

今更、記憶が鮮明に浮き上がったのか

 

説明がつかないけれど、、

 

驚くのは、

 

その頃の、永遠というものへの執着が

 

おばさんになった今も

 

ちっとも、変わってはいないことだ。

 

 

変わっていないどころか、

 

ますます

 

「永遠」というものを

 

人生のなかで見つめ、生きたいという

 

そして、そこから人や物事に

 

つながりたいという、

 

内に秘めた思いが

 

強くなっている。

 

 

 

 

何十年も経って

 

氷が溶けるように思い出し、、

 

こうして言葉にできる環境が

 

ここにあること。

 

 

思えば

 

本当にありがたいことだ。

 

 

感謝します。

 

 

多分、ずっと恥じていたのだ、、。

 

 

子どもの頃は、

 

小児ぜんそくだったり、お肉を食べられず

 

母を心配させて、自分への

 

肯定感が薄かった。

 

 

ごめんね、そのときの自分。

 

 

 

年月を経て

 

淡々と自分の中心を晒し、もし

 

手を繋いでもらえなくても、

 

もう傷ついたり、恥じたりしないくらいには

 

成長した、いまの自分にも

 

 

感謝します。

 

 

 

 

 

 

自分にとっての永遠は

 

いのちを生かしきる、母なるもの。

 

 

緑を芽吹かせ、枯らせ、海を満たし、そして引く、、

 

その大元にある、とてもやわらかく

 

微細で、強い力。

 

やさしい循環。

 

 

無音の日は、

 

あまり読書したくないけれど

 

記憶の扉が開いたことで

 

本棚の前に立ち、


ぴかっと光ったのが

 

師を学ぶ愛読書『目覚めよ、子どもたち!』

 

 

摩耗し、劣化しきった

 

ピンクの表紙の第五巻。

 

新たな気持ちで、読み始めてしまった。

 

 

 

優しかった祖母も、

 

愛らしかった母も他界し

 

もうこの地上に母はいなくなり、

 

 

愛する家族の価値観や、その概念すら

 

もう超えて生きなさい、と言われている

 

時期を迎えた。

 

 

そんな自分にとっての

 

宇宙の母を体現してくれる

 

アンマが存在してださる奇跡。

 

 

永遠の体現。

 

感謝の言葉では足りない。

 

ありがとうございます。

 

 

 

ちょうど、フランシスコ・ローマ教皇が来日され

 

故郷広島で強く平和を訴求するスピーチをされた。

 

 

そのフランシスコ教皇がバチカンに、アンマを招かれた、

 

「世界の精神指導者による奴隷制撲滅へのコミットメント宣言」

 

の際のアンマのスピーチを貼りました。

 

 

 

これは、私は何かに流されそうになったりするときに

 

お守りのように見返す動画。

 

 

ケーララ語で、翻訳がなく、

 

内容の詳細も理解できずに、申し訳ない限りだけれど

 

バチカンでも、アンマがいつものアンマであり、

 

決して、場の空気を読むことなく(よい意味です!)

 

川が流れるように、自らが語るべき言葉を語り尽くす姿に、

 

さらにサインの際、

 

母なる眼差しで

 

教皇を見つめられる姿に感動し

 

勇気づけられるのです。

 

 

 

 

さて、最後に、

 

過去の小さなわたしから、

 

大人になったわたしへ、そして、みなさまへ、、。

 

 

もし、ちょっと抽象的な発言をしたり、

 

場にそぐわない子どもがいても、どうか

 

その子の内面を、尊重してあげてください。

 

もし、同調することを強いる空気があったら

 

気づいた人が、それをやわらげてあげてください。

 

ただ、その子が自分が感じたことを

 

感じたまま、受け入れられる空間を

 

穏やかに、自然に、守ってあげてください。

 

その子は本当に、みんなのことが

 

大好きなのです。

 

 

 

 

朗読動画サイト「本の向こうへ」 →  ☆☆☆

*ぽかんとして貼り忘れていました。すみません。

 

 

 

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