[Reborn]
1912年4月14日(午後11時頃)北大西洋で
あの豪華客船タイタニック号が遭難した。
その時のSOS(注1)世界初に発信した
遭難信号と言われている。
しかし、SOSが国際遭難信号として
正式に採用されるのは同年の7月5日、
第2回国際無線電信会議で
国際的な規制が採択された以降で
タイタニック号のSOSは
20日余りも早く使われた事になる。



イタニック号の遭難当時、
世間一般的に使用されていた信号は
CQD(注2)だった。
しかしSOSも
第1回の無線会議で提案されており、
のちに開催される第2回の会議では
SOSが正式に採用される事
タイタニック号の無線通信士は
すでに知っていた
あの遭難の時、
彼は最初にCQDを発信したが
将来のSOS採用を考慮し
SOSをも発信した。
これは当時、
通信システムの規定が相当曖昧で
どちらか一方では不安という
切迫した気持ちが伝わってくる。
SOSはその後、
海上の人命救助のサインとして
永年寄与してきたが1992年2月、
全世界的な海上遭難・安全システム
GMDSS(注3)が導入され
ついにその役目を終えた。

学校2年生、
私は毎日20分の野原の中を歩き
登下校していた。
短縮授業を終えたある日どうしても早く
家へ帰る必要があった。
それは最終の授業で催していた
便意の為に帰る事。
学校のトイレで
ウンコをするという事はタブーであり、
それだけでイジメに遭う可能性がある為。
私は下校のチャイムを聞くやいなや
脱兎の如く家に向かって駆け出した。
あぶら汗は額を伝い、
やがて小走りを止めると
苦痛と悶絶が交互に訪れその歩幅を苦しめた。
途中、野良作業の老婦人に
助けて!
と思わず懇願したが、
彼女たちはミレーの落穂拾いの様に
その動きは冷たかった。

イメージです


やがて、軽い放屁と共に
怒涛の一瞬が訪れ、
やり場の無い諦めと恍惚感
私の足を止めた。
その後何処をどうして
帰宅したのか覚えていない。
そして、その一大事に
母の“キャー”という大きな悲鳴が
いまだに私の記憶の中にある。
人生の最初に出した
恥ずかしくも臭いSOSの話。
トホホ・・・。

(注1) Save Our Ship (我々の船を救え)
          Save Our Soules(我々の生命を救え)他、諸説
(注2) Come Quick Danger(急いで来い、危険)
(注3) Global Maritime Distress and Safely System