カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

啓示神学の課題ー現代の啓示論(4)

2019-09-24 10:20:25 | 神学

久しぶりの学び合いの会は、来日されるフランシスコ教皇様の教皇ミサの話から始まった。東京では、Papal Mass in Tokyo  11月25日 15:30~17:45 東京ドーム の募集が始まったのだ。私どもの教会では参加希望者が90名を超えている。当教会への割り当てが何名になるのか、抽選に漏れれば個人申し込みしか方法はなさそうだが、これも抽選だろう。楽しみに待とう。

 

 今日の会は、前半は「啓示憲章」の内容の紹介、後半は小笠原優師の啓示論の紹介であった。

 

まず、「啓示憲章」の内容だ。これは、わずか20ページ余の短い文章なので、要約するより読んだ方が早いし、理解も正確なる。念の為要約しておこう。

 

・序文 この憲章は、トリエント公会議と第二バチカン公会議を踏まえながら、神の啓示とその伝達についての正真の教えである

・第1章 啓示そのものについて:啓示とは何か キリスト以前の啓示 啓示の頂点であるキリスト 啓示への人間の応答 啓示の内容と種類

・第2章 啓示の伝達:伝達者である使徒と教導職(司教) 聖伝 聖伝と聖書の関係

・第3章 聖書の霊感とその解釈:霊感の事実と本質 聖書解釈の方法(文学類型)

・第4章 旧約聖書:旧約における救いの歴史 キリスト者にとっての旧約の重要性 旧約と新約の一貫性と一致

・第5章 新約聖書:新約の優越性 福音書の優越性 福音書の歴史性 福音書以外の新約の諸文書

・第6章 教会生活における聖書:聖書の尊重 正しい解釈 聖書学者の任務 聖書の神学的重要性 聖書の朗読

 

 ざっと以上のような内容だが、公会議が「聖書」および「啓示」について論じたのはこの第二バチカン公会議が初めてだという。これまでの公会議はもっぱら異端に反駁するための教義確定が主要な課題であったが、第二バチカン公会議は初めて正面から啓示と聖書を論じた。この公会議がいかに画期的であったかを今一度思い起こしたい。

 

 以下は、小笠原優師による啓示論である。小笠原師はかって当教会の主任司祭でもあったが、神学者でもあり、現在は東京カトリック神学院で教鞭をとっておられる。印象として言うと、師は教区司祭としては信徒にきちんとした信仰生活を求められ、どちらかといえば厳しい司祭であったが、神学的にはオーソドックスな立場をとっておられるようである。

 

一 第二バチカン公会議の啓示観

 

1 第二バチカン公会議の啓示理解

 これは言うまでもなく「啓示憲章」Dei Verbum(1965/11/18) に示されている。啓示とは、「神自身の自己譲与の出来事」と定義され、断片的な諸真理の集合のことではない。啓示は、単なる認識論的な神の自己開示ではなく、自己譲与であるとされる。自己譲与とはなんのことか。近代社会を支える啓蒙思想はこう言う啓示理解を克服しようとしてきた。啓示の反対概念は啓蒙だった。だが、第二バチカン公会議は、教会の啓示理解と啓蒙思想は対立するものではなく、相互依存関係にあると理解しようとしていると言う。啓示か啓蒙か。これは神学というより哲学の問題のようで、小笠原師は深入りした議論は展開されない。

 

2 啓示理解の出発点

 啓示観には大きくみて二つある。

従来の啓示観:預言者などが特別な恍惚状態の中で新しい知識を得ること。特定の人間が超自然的召命を受けて絶対的真理を授かられること。

新たしい啓示観:神が人間と関わり、交流し、対話関係に入ること。

 前者は「天啓」論といって良いし、後者は「対話」論とでも呼べようか。岩下壮一師は一貫して天啓という言葉を使っておられたようだ。

新たしい啓示観に基づかなければ、カロリック神学は環境問題や解放の神学が提起する諸問題に対応できないだろう。

 

3 啓示と聖書

 神の人間への働きかけが啓示であり、それへの人間の応答が信仰である。この信仰の後の世代への伝達が「聖伝』であり、文書化された聖伝が聖書である。つまり、聖書とは文書化された啓示の伝達である。聖書が一言一句神の言葉と言えるかどうかはわからないが、聖書は文書化された啓示という説明は第二バチカン公会議のもののようだ。

 

4 啓示の段階

 啓示には段階があるという。①人間と自然界との関わりのなかの啓示 ②イスラエルの歴史に見られる啓示 ③イエス・キリストの啓示(啓示の頂点)

 

二  啓示そのものについて(啓示憲章第1章)

 

1 啓示とは何か:啓示とは神の愛と英知に発する行為で、神が自らの意思と計画を明らかにする。その計画とは、人間を三位一体の生命に参与させること。

 

2 啓示の方法:「わざ」と「ことば」による。神のわざとは奇跡のことであり、ことばとは、預言者の言葉・イエス・キリストの言葉のこと。言葉は文字とは限らない。

 

3 キリストによる啓示:イエス・キリストは最終的啓示で、啓示の頂点である。

 

4 啓示に対する人間の応答:啓示への自発的・肯定的応答が「信仰」。人間は啓示する神への信仰への服従を示す必要がある。信仰には神からの先行する「恩恵」と、聖霊の内的助力が必要であり、人間の側からの意思と努力だけではかなわない。仏教にある「信心」という概念にはこの恩恵という考え方は含まれていないようだ。

 

三 啓示をめぐる神学的探求

 

1 啓示と歴史

① ヘブライ人の歴史観:ヘブライ人は、歴史を直線的な時間の流れと考え、歴史とは神の救いの計画だとする。歴史を東洋的な循環の周期だとは考えなかった。歴史による啓示は、出来事と言葉が結合するとき明らかになる(出エジプト、契約、約束の地への到着など)。この出来事の理解のために言葉が必要となる。言葉が出来事の救済史的意味を開示する。啓示は、体系的思弁によってではなく、具体的な歴史的事実と預言者を通して明らかになる。

つまり、預言者とは、出来事による救いの内容と神の契約を明らかにし、神の言葉を人間の言葉で語る。預言者は啓示を明らかにする歴史の証人であり、注解者である。

②新約における啓示:新約においても啓示は歴史の形で与えられる。イエスは福音によって自分の行為の意味を告示した。新約のおける啓示はキリストの生活と行為のうちにまとめられた。神は自己譲与を人となったキリストによって行われた。

 

2 啓示と信仰

 したがって信仰とは、神の呼びかけに応え、自発的に従順と信頼を持って全面的に自己を神に委ねることを意味する。とは言っても、信仰は盲目的、非理性的なものではない。信仰は理性を凌駕するが、理性に照らして十分に正しさが裏付けられる行為である。信仰は神の賜物である。

 

3 秘儀としての啓示

 啓示は秘儀(misterium, mystery)を基盤とする。人間の思考を超えるもので、理性で全面的把握できるものではない。秘儀の究極は神であり、この秘儀は「類比」を持って人間の言葉と置き換えられる。キリストは類比(たとえ)を用いて秘儀を述べた(1)。

 秘儀は教義とは異なる。教義(dogma)は秘儀を人間の言葉で断言する試みだが、完全に語りつくすことはできない。だから、教義は進歩する。変化するというよりは進歩するという方が正確な表現だろう。教会は啓示内容を教義という表現形式で提示するという。だから教義は何か固定的なものとは考えない方が良いのかもしれない。

 教会は人間が外的世界・自然を考察することによりある程度神を認識しうるとする。神は知り得る。だがこの自然的認識は暗示的なものであり、限界があるという。公教要理は、いつも、宗教とは何か、神は認識し得るか、という問いから始まるが、この認識はまず自然的認識の話から始まる。

 

 少し長くなったので、後半は次回に回そう。

 

 

1 類比論である。奇妙なことに、小笠原師も、報告者のS氏も、この類比論の部分を論じていない。それが意図的なものなのかどうかは私にはわからなかったが、なぜ詳しく論じないのかと不思議に思えた。類比論も、「存在の類比」、「関係の類比」などの概念を持ち出せばカール・バルト論になってしまうが、啓示を恩寵というならここは論じて欲しいところだ。カトリック神学はやはりまだプロテスタント神学に立ち向かえないのだろうか。小笠原神父様、頑張って、と思わずつぶやいてしまう。

 

 

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