カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

奉献文は誰が唱えるのか ー 第39回横浜教区典礼研修会に出る(2)

2020-02-13 11:02:07 | 教会

 

 

 午後の部は、O師による奉献文の説明と、第3・4奉献文の共同の「唱和」だった(1)。

 O師はまず、神秘(ミサ)に「与る」というのは、「上からいただく」という意味ではなく、「参画する、くみする」という意味だと説明された。そして、奉献文は感謝の祈りであり、「会衆の一致」が強調されていると説明された。「会衆」と「群衆」が対比的に説明され(2)、「主日ミサにいる人々は会衆なのか群衆なのか」と問われた(3)。

 ついで、参加者が二組に分かれ、対面して、第3奉献文と第4奉献文が唱えられた。私は奉献文は読んだことはあっても唱えたことはないので驚いた。司祭もミサごとにこの長い奉献文を祈っているのだから本当に大変だと感じた。特に第4は長い(4)。

 このあとの質疑応答は長く、また真剣なものだった。だが結局時間切れになってしまった。出た質問を思い出すままに書いておきたい。

①奉献文は四種類あると言うがどう違うのか。
主にO師が答えておられた。どう使い分けるのかについては説明は簡単だった。


②奉献文は誰が作ったのか。なぜ4つなのか。
これは難しい質問だったらしく、O師は音を上げてマイクをK師に渡された。K師が答えておられた。歴史的説明から入り、丁寧な説明であった。第二バチカン公会議のあと、日本独自の奉献文を作ろうという動きもあったが沙汰止みになったという興味深い話もされた。


③年間主日の叙唱はどう選んだらよいのか。
O師が答えておられたがわたしには理解できなかった。私が質問を聞き違えたのかもしれない(5)。


④感謝の典礼なのに奉献文に赦しの話がないのはなぜか。
これも第二バチカン公会議における奉献文の扱いの話でK師が答えておられた。また、日本語では「奉納」と「奉献」の意味や語感が近すぎて区別が難しいとの指摘は興味深かった。

 この後、ごミサがあった。講演のあとなのでなにか新鮮に感じられた。福音朗読をされた若い(協力)司祭によるボストンでの神学校での経験を交えたお説教は熱意が感じられて心を洗われた。こういう人たちがこれからの日本の教会を支えていってくれるのだと安堵感があった。

 ということでこの研修会は大いに勉強になった。準備された藤沢教会の方々や、教区典礼委員会の神父様方の熱意には胸を打たれた。だがなにか運営にもう一工夫があっても良さそうだった。参加者は高齢者ばかりではない。女性ばかりではない。また質問から見て参加者の要求水準も高そうだ。もう一段工夫されたというか丁寧な研修会を望みたいところだ。
 例えば、この研修会の成果のフィードバックはどうなっているのだろうと思う。参加者が旧交を暖め、新たな知識を吸収してそのまま自分の教会に帰るだけではあまりにももったいないと思う。ここで得た成果を自分の所属の教会にフィードバックする手立てをこの研修会のなかで話し合うことは出来ないのだろうか。私のような第三者があれこれ言う筋合いの話ではないが、各教会の典礼委員の責務の大きさを強く感じた。ご苦労様だがこれからも頑張って欲しいと願う。

1 質疑応答のなかで、「歌う」と「唱える」はどう違うのかというのがあった。音楽的には「節」がついているかどうからしいが、ミサのなかではどう区別しているのか。神父様方もうまく答えられず、珍しくしどろもどろだった。わたしなども、「栄光の賛歌」は唱えるときはすらすら出てくるが、歌うとなるとつまづく。「主の祈り」は「唱えろ」と書いてあるが、歌えと言われたら歌えるのだろうか。
2 O師は総則78を引用して、会衆という言葉を使っておられるようだ。社会学から見れば、群衆の対概念は公衆であって、会衆というのは聞いたことがない。会衆とは、教会用語としてはcongregationの訳語であり、教会の構成員という意味なのではないだろうか。
3 O師は質問のなかで、司祭とか神父という言葉を決して使わず、「司式者」という言葉をずっと使っておられた。ミサの話だからそういうものなのかもしれないが、私にはなにか違和感が残った。また、この問いにも質疑応答のなかで質問が集中した。例えば、奉献文は、数も多く、歴史的経緯もあるとは言え、現在は人間の側からの賛美と感謝の祈りとされている。昔は(ローマ奉献文では)悔悛と生け贄が強調されていた。O師は「会衆の一致」ということを強調しておられるが、それが奉献文の中心なのか、という質問もあった。かなり手厳しい質問であった。
 O師は答えてはいたが、それにしてもまだお若い師はご高齢の質問者に対してどうしてこういう「上から目線」の応答をされるのか。公会議で時代が変わったというのは致し方ない。質問の妥当性より、回答の正邪より、こういう場でのやりとり・交流は、信徒を励まし、信仰を深めることが目的のように思える。司祭の霊性というと大げさだがなにか株主総会みたいな印象を持った。
4 質問としては出なかったが、やはりかすかに疑問は残った。奉献文って信徒が唱えるものなのだろうか。特に「栄唱」は司祭にのみ許された祈りであり、今まで(日本でのみ)許されていた「すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」は信徒は唱えないで、「アーメン」とのみ唱えるようにとの話が教会で繰り返しなされてきていたこととどう整合するのだろうか。
 例えばわたしの所属教会ではこの件はあるときミサの司会者がミサが始まる前に唐突に「通告」した。理由も背景の説明も全くなかった。われわれ信徒は次のミサからは注意して唱えなくなったが、それでも数十年唱えてきた祈りだからすぐに止めるわけにはいかない。ついつい口にしてしまう人もいる。するとまわりからかすかな失笑が起こる。ご本人は当惑するしかない。なぜきちんとした説明がないのか不思議である。
5 叙唱は恐らく旧約や書簡との関連で選ばれるのだろうが選択の根拠の説明はなかった。典礼書通りということなのであろう。叙唱(かっては序誦)は奉献文の一部なのか独立しているのかもはっきりしない。『キリストと我等のミサ』だと「叙唱」「叙唱前句」は独立しているような印象を与える。『ミサに親しむためにーバージョンⅡ(式次第と解説)』でははっきりと奉献文の一部として位置づけられている。
 ちなみにその文言(翻訳)も興味深い。普段われわれはこう唱える。
  司祭:  主は皆さんとともに。
      会衆:  また司祭とともに。
      司祭:  心をこめて神を仰ぎ、
      会衆:  賛美と感謝をささげましょう。
英語だと
  Celebrant: The Lord be with you.
      Congregation: And also with your spirit.
      Celebrant:  Lift up your hearts. または Let us lift up our hearts.
      Congregation: We lift them up to the Lord. または We have raised them up to the Lord.
      Celebrant: Let us give thanks to the Lord.
      Congregation:  It is right and just. または It is right to give him thanks and praise.
日本語訳では最後の1行が訳されていないことがわかる。
公会議前はこう訳されていたようだ。
  司祭:  主は、あなたたちとともに。
      会衆:  またあなたの霊とともに。
      司祭:  心をあげよ。
      会衆:  われらは、心を主にあげ奉る。
      司祭:  われらの神なる主に感謝しましょう。
      会衆:  それは、ふさわしく、正しいことである。
「あなたの霊とともに」「ふさわしい」「正しい」は今になると新鮮に聞こえる。
といってもラテン語だったからなにもわからなかった。
  Celebrant: Dominus vobiscum.
      Congregation: Et cum spiritu tuo.
      Celebrant: Sursum corda.
      Congregation: Habemus as Dominum.
      Celebrant: Gratias agamus Domino Deo nostro.
      Congregation: Dignum et justum est.
今はいろいろな教会でいろいろな言語でミサが挙げられているようなので聞いてみたいものだ。『6ヶ国語ミサ式次第(会衆用』には日本語・ローマ字・英・西・ポルトガル語・タガログ語)が収められている。

 

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