2019年08月12日
『一廉の者になる』【樋口一葉】(幼少期)
樋口夏子(本名は奈津)。明治五年三月二十五日、樋口家の次女としてこの世に生を受ける
小学校に通っていた七歳の夏子は、何もかもがズバ抜けて良くできると評判の少女。六歳の頃には屋敷の中の土蔵に籠り草双紙(くさぞうし)を読みふけるような女の子で、その物語に登場する宮本武蔵や佐々木小次郎に思いを馳せては、あのような華々しい人生を送りたいと、大きな夢を抱く少女でもあった
(草双紙・・女性や子ども向けの優しい読み物)
家に隣接している法真寺の『ぬれ仏』に向かって『ぬれ仏様、私は一廉の者になりたいのです』と手を合わせお祈りをする姿からも、その夢にかける思いが強く伝わってくる
夏子の父である則義(のりよし)は、一代で財を成した努力家だ。山梨県の山村からたき(妻)と二人江戸へかけおちをして来て、元は農家出身だったのが、苦労して東京府の役人にまでなった。高利貸しなどの事業も行うようになり、大きな屋敷にも住めるようになった。夏子は、そんな父が仕事から帰ってくると、妹の邦子と一緒に「今日のおみやげはなぁに?」と父の腕につかまり、おねだりをするというような、平和な日々を過ごしていた
樋口家とゆかりの深い松永家へ和裁を習いに行っていた時、東京専門学校に通う『渋谷三郎』を紹介された。三郎が祖父と同じ『運動家』だと知った夏子の心は動く。いつしか二人はほのかに惹かれ合い、恋仲となり、やがて許婚(いいなずけ)として親も認める仲になった。十三歳の夏子は、やがて夫になる三郎と幸せな日々を過ごしていた
(祖父・・幕末の百姓一揆首謀者)
(三郎・・自由民権運動家)
明治十九年八月。十四歳になった夏子は、新たに開かれようとしている学問の扉の前にいた。中島歌子の家塾『萩の舎(はぎのや)』だ
当時、中島歌子は女流歌人として著名であり、宮家や貴族、実業家の令嬢などがこぞって歌子に和歌の教えを受けに来ていた。その歌子に教えを受けるべく夏子も弟子入りをした
歌子の教え方は新鮮で、稽古を受ける夏子の内からは、次々と歌が生まれていった
萩の舎の門下生には、貴族の令嬢などがいるグループもあったが、夏子は同じ年の伊藤夏子と、三十歳を過ぎている未亡人の田中みの子と『平民組』なるものを結成し、月一回の例会の時には進んでお茶やお菓子運びを手伝い、手伝いが終わると小部屋でお菓子を食べながらおしゃべりをするという楽しい日々を過ごしていた。それまでは『ものつつみの君』とニックネームが付くほど静かな少女だった夏子が、平民組を結成してからは、明るい少女に全く変貌を遂げたのだった
(ものつつみの君・・古語の「物慎み」から来ていて、物事に遠慮深く、引っ込み思案な人)
数ヶ月後、萩の舎の門下生が一堂に集まる、新年の『発会の日』が来る
〜つづく
参考引用資料
『樋口一葉ものがたり』
(日野多香子作・山本典子絵)
教育出版センター
画像
photographer『Jason Robins』
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