2019年09月07日
『樋口一葉の誕生』【樋口一葉】
明治二十四年四月五日、夏子はその後の人生に大きな影響を受ける人物に会う。半井桃水(なからいとうすい)だ。妹邦子の友人である野々宮きく子に紹介をしてもらい、弟子入りを決意しやって来た。
半井家には二度ほど訪れた事はあったが、いずれも頼まれた仕立物を届ける為の裏口からの出入りであったので、主人である桃水に会うのは三度目にして初めてのこと
ドキドキしながら待っていた夏子の前に現れたのは、すらっと背の高い、気品のある美しい顔立ちの中年の男。夏子のドキドキは消え落ち着きを取り戻す。桃水に自分の決意のほどを丁寧に話し、桃水もそれを真剣に受け止めた。が、桃水は夏子が小説家になることに反対する。何故なら、小説で身を立てていく大変さは桃水自身よくわかっていて、そのように厳しい道に若い夏子があえて入っていくという事に素直に賛成はできなかったからだ。『別の道を選ばれた方がいい』そう夏子に伝える桃水だった。しかし、夏子は諦めない。小さい頃から書くのが何よりも好きだった夏子。持って来たふろしきの中から、この日のために苦労して書き上げた新聞小説一回分の原稿を桃水に差し出した。『お恥ずかしいのですが読んでいただけますか?』桃水は手に取り興味深げに読み始めた。二枚三枚と読み進めるうち夏子のとてつもない才能を感じ取る。
読み終えた桃水は夏子の並外れた才能を感じながらも、よく書けているがこういうものは売れない、と厳しい批評をする。王朝文学の美しい流れと流麗な擬古文、これは今大衆が求めているものではないと夏子に語る。話し言葉のように書き、俗世間が好むものを書いた方が良いと。実は桃水自身、今新聞に載せている小説の稿料で家族を養っているが、その内容は決して桃水が目指す文学の形ではないのだと語る。生活の為に自分を曲げて書いているのだと
※擬古文・・古代の文体を真似て作った文
桃水は夏子がこれから小説を書く手がかりになる手助けをする為、今までに自分が書いた小説を数冊夏子に貸すことにした。夏子は自分が桃水が言うような大衆受けするものが書けるのだろうか?と不安に思うところがあったが、桃水の優しさが夏子の気持ちを軽くしていた。夏子はその日、桃水に晩御飯に呼ばれ、半井家家族と楽しいひと時を過ごすのだった。桃水との出会い、にぎやかな団欒、幸せに包まれた夏子。素晴らしい出来事を忘れない為にも、この日から夏子は日記をつけ始める。(この日記は終生書き続ける事になる)
それから原稿の続きを見てもらうためなど、桃水の元を度々訪れるようになった夏子は次第に桃水に恋心を抱くようになる。桃水の元から帰る時に感じる寂しさ、桃水を思い出す時に感じるときめきと切なさ。桃水が一人小説を書くために借りている下宿を訪ねる時などは『結婚前の自分が男の人一人の下宿を訪れるなんて』と迷う夏子の姿もあった。しかし、桃水はこの時夏子にこう話さねばならなかった『私は一度妻に死なれた三十二歳の中年男。あなたは嫁入り前のまだ若いお嬢さん。この二人がこれから先仕事なり相談なりお付き合いしていくためには、あなたは私を男としてではなく同性の友、女として見ていただきたい。私はあなたを女としてではなく青年として見ますので』と。夏子は『はい』と返事をするも、心の中では自分の恋心が届かぬのだと、もどかしさを募らせるのだった
それから夏子と桃水は原稿のやり取りなどで会う事が多くなった。四月から十月までの間に十篇を書き上げた夏子。この頃初めて『一葉』というペンネームを使ったのだった。『一葉』の名の由来は、だるまが芦(あし)の一葉(ひとは)に乗ってやって来たという故事にちなんでいるもの。だるまには足が無い、自分にはお足(お金)が無い、そういう言葉のシャレから生まれたものだった
その後、桃水についての良くない噂に夏子の心は乱れる。
桃水の家に同居している女学生の鶴田たみ子がお産をし、その子の父親が桃水だと妹の邦子が野々宮きく子から聞き、それを夏子に話したのだ。夏子は一人泣いた。一番大切に思っていた人のふしだらも許せなかった。それから三ヶ月間、一度も桃水に会いに行かなったが、久しぶりに桃水の元を訪れた夏子は、その一件が間違いだったと直接桃水から聞くことになる。鶴田たみ子の相手は桃水の弟の浩(ひろし)だったのだ。疑っていた夏子の心、苦しい心、それが全て緩み涙がこみ上げる。桃水の家からの帰り道、夏子の胸にはまたあのしあわせの感覚が戻っていく
明治二十五年二月四日
桃水に呼ばれた夏子は嬉しい話しを聞く事になる。桃水が仲間と共に『武蔵野』という同人誌を出す事になり、その同人誌に夏子の作品を載せましょうと声をかけてくれたのだ。更に、評判になればお金も入ってくる、そうなったら誰より先に夏子に稿料を払うと
そして四月二十七日、再び桃水の元を訪れた夏子に一冊の薄い雑誌が手渡される。
『武蔵野 創刊号』
ページをめくった目次にある『闇桜 樋口一葉』の文字。嬉しさと恥ずかしさが同時にこみ上げる。「作家樋口一葉の誕生です」桃水は夏子に穏やかな笑顔でそう言った。無限の夢を乗せた新たな船出となったこの日から、夏子は今まで以上に懸命な努力をするようになった。そこには仕立物や洗いはりなどを老眼の目を無理してやっているたきや、若いのに愚痴もこぼさず下駄の蝉表張りに精を出す妹邦子の姿も思い浮かんでいる。原稿料が貰えるようになれば、親孝行もでき、年頃の妹にも服など買ってやれる。こうして武蔵野二号、三号と続けて樋口一葉の小説が掲載されていくのだった
桃水に紹介された改進新聞にも『別れ霜』が連載され始める。ここではペンネームを『浅香のぬま子』としていたが、夏子が初めて原稿料を手にしたのは、この『浅香のぬま子』の時であった
〜つづく
参考引用資料
『樋口一葉ものがたり』
(日野多香子作・山本典子絵)
教育出版センター
画像
photographer『Rebekka D』
by pixabay