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【現代思想とジャーナリスト精神】

【日本歳時記2019・6・9】~TBS報道特集~  櫻井 智志

Ⅰ:スポーツの階級性とスポーツを悪用する国家主義

父親が外国人のサニブラウン選手が、記録を伸ばすたびに、日本のマスコミと日本社会は、やたらちやほやしマスコミは「日本人最高記録」と騒ぐ。
サニブラウン選手の100メートル9秒97は、やはり素晴らしい。けれど、彼は実に冷静だ。ロサンゼルス大学で大きく羽ばたいた。環境のよさ、指導法のすばらしさ、人間関係のよさを指摘する彼は、実に淡々としていて、落ち着いている。ナショナリズムを煽るためにか、大枚はたく陸連推奨のオリンピック育成作業はもう何年も実をむすばなかった。
悲劇的だった自衛隊の円谷幸吉選手。1964年の東京オリンピックには、寺沢徹・君原健二・円谷幸吉の3選手が出場した。淡々と走る円谷はなんと前ローマ大会優勝者エチオピアのアベベに続いて二位でゴールスタジアムに入ってきた。激戦の末にイギリスのヒートリーに抜かれたが、堂々の三位で日本人トップだった。
その円谷が、次のオリンピックを前に自死をとげた。死者をあげつらう無礼は避ける。ただ彼の遺書を、倉本聰の映画『時計』の中で聴き、涙がとまらなかった。
ウキペデイアはこう円谷幸吉を叙述している。以下に長文となるので部分的に引用する。

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円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち1940年(昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月8日)は日本の陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官。
福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。第一級防衛功労章、勲六等瑞宝章受章。
須賀川市立第一中学校を経て福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、青森東京駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰椎のカリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。
1962年(昭和37年)に、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集した際には腰痛のため選考会に出られなかった。しかし、円谷の走りを知っていた駅伝チームのコーチ畠野洋夫の推薦を受けて入校する。
体育学校入校当初は腰痛が治らず、満足に走れなかった。しかし畠野が根気よく指導し治療を続けた結果、レースに復帰。10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。
翌年の1963年(昭和38年)8月には20000mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して10000mのオリンピック代表選手に選ばれた。この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。しかし、日本陸上競技連盟の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目してマラソンを走ることを勧めた。
東京オリンピック開催年の1964年(昭和39年)に、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施)に出場、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。
なお、オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では森下広一(2回)に次ぐ少ない記録であるが、初マラソンからオリンピック本番までの期間は森下が1年半あったのに対し、円谷は7か月(正確には7か月と1日)でこれは戦後では最短記録である。
東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。一方、最終日に行われる男子マラソンについては、日本人では君原と及び当時持ちタイムが一番良かった寺沢徹の二人がメダル候補、と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。
しかし、男子マラソン本番ではその君原と寺沢がメダル・入賞(当時五輪入賞は6位迄)争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直なまでに守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きができなかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2時間16分22.8秒(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。また銅メダルではあったものの、国立競技場で日の丸が掲揚されたのは、メダルを獲得した日本選手では円谷のみであった。
メダル獲得時、円谷は中央大学経済学部(夜間部)の学生でもあった。中央大学は師事した村社講平の母校で、箱根駅伝6連覇達成の記録継続中であった。箱根駅伝に出場することは、自衛隊体育学校との二重登録などの壁のために実現しなかった。
次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されてきた特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。吉池は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可(「娶妻願」の提出と受理・承認)を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ」と抵抗した畠野が突然転勤となり、円谷は孤立無援の立場に追い込まれた。東京五輪で8位と敗北の後、結婚を機に鮮やかな復活を果たしたライバル・君原健二とはあまりにも対照的であった。
さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するようになる。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年(昭和42年)には手術を受ける。病状は回復したものの、全盛期のような走りはすでに出来るような状態ではなくなっていた。
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年(昭和43年)の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺。27歳だった。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。さらに、同年のメキシコシティ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得することになる君原も、大きなショックを受けたという。
川端康成は、円谷の遺書について、「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評した(「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」の「十一」、『風景』1968年3月号初出)。当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫はこれらの無責任な発言に対し『円谷二尉の自刃』の中で、「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」と強い調子で批判し、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」と締めくくった。また、沢木耕太郎は「円谷の遺書には、(円谷が)幼いころ聞いたまじないや不気味な呪文のような響きがある」と述べている(『敗れざる者たち』所収「長距離ランナーの遺書」)。
円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評する。その性格はしばしば自らの不成績を責めるというかたちになって現れ、それを克服するためにオーバーワークを招きがちだったことが、自殺という悲劇につながったとする見方も強い(当時の日本陸上界は技術論より精神論を至上とすることがまだまだ多く、本人の意思にかかわらず過度の練習を美徳とする関係者の慣習もあった上、メンタル面でのサポートやケアなどは考えられていなかった)。また沢木耕太郎は上記の自著の中で、1968年の正月に帰郷した際に(上官のために破談に追い込まれた)かつての元婚約者が別の男性と結婚した事実を知ったことも、円谷が自殺に至った直接の引き金になったのではないか、という推論を述べている。
また後年、ピンク・ピクルスにより円谷の苦悩を描いた曲「一人の道」が発表された。
出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があったが、遺族の高齢化により、2006年(平成18年)6月に展示品を市に寄贈したのち秋に閉館した。その後、市によって市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、2006年(平成18年)10月の「円谷幸吉メモリアルマラソン」開催記念の特別展示を経て、2007年(平成19年)1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。
円谷幸吉の自殺は日本のスポーツ史に最大級の痛恨事として記されている。円谷の悲劇の後、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体では、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポートやメンタルヘルスケアが実施されるようになっているが、これは円谷の自殺が契機となった苦い教訓の産物でもある。
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サニブラウンの9秒97は、陸連やJOCの中心的強化選手以外からの青天の霹靂だ。マラソンの川内選手や短距離のサニブラウン選手。近視眼的なメダル獲得なんかよりも、自分を見失わないスポーツマン・シップにあふれた、いい走りを今後長く見せてほしい。

Ⅱ:安倍政権の酷さ
年金に関する政府のでたらめ無責任政治。あまりにもひどすぎる。 「貧乏人は麦を食え」に昔大人たちは怒っていた。怒ることさえ、押さえつける。それで政権最長記録ねらいのためか、国会開会中にもかかわらず、予算員会も審議に自公与党は欠席、イメージ作戦狙いのための横暴だ。イージス・ジョアの虚偽でたらめに地元横須賀市民は激怒している。その声に聴く耳を持たない政府。「選挙だけ勝てばいい」と考え、選挙には勝って当選したら、やりたい放題の乱行政治が延々と続いている。自民党・公明党・日本維新の会に議席を持たせることが、今では元凶となっているのだ。

Ⅲ:「ひきこもり」騒ぎと若者たちの自主自立課題

東京の教師奥地圭子さんは、不登校指導で自身の子どもたちを見ていてはっと気づく。「東京シューレ」のきっかけとなって以後フリースクールは全国の教育問題への処方箋を掲示した。アメリカの大学教授は、学生に1年間のモラトリアムを保証する試みによって青年期の自立の実践を構築した。

ひきこもりと社会的自立と犯罪とは全く異なる。元農水次官の苦悩は推測するが、息子は父を誇りにしていた時期もある。狭い点数偏差値競争で、子どもたちを歪める日本社会。有名医大が男尊女卑の続出。建前だけの日本の空洞化。

ひきこもりは、青少年から中年層へと広がっているという。多くの人間が、足を踏み出せない社会は、社会が病理状態にあると私は考える。社会を人間同士のこころの繋がる世の中に変えるべきだ。大江健三郎さんの説く「炭鉱のカナリアたち」の予兆を大事に汲むべきだ。

Ⅳ:天安門事件と権力の横暴

天安門事件の背景に「黄雀行動」とよべれる歴史の知恵があったことを初めて知った。天安門事件の首謀者と疑われて容疑をかけられた青年たちを、香港へ牧師、弁護士、知識人、市民たちがリレー方式で救出し亡命を成功させた史実のことである。
日本の60年安保では樺美智子さんが死亡し、ベトナム反戦運動や大学闘争でアメリカでも学生・青年への鎮圧があった。雨傘事件への裁判の様子を見て、左右を問わず権力の横暴をまざまざと感じた。

中国政府による弾圧としての天安門事件ゆえに、アメリカトランプ暴政や日本安倍盲従政治をいささかもよいとは思わない。
両方とも、だめだ。
その認識をもとに、人権宣言を葬る一切の権力を、私たちはしっかりと凝視していこう。歴史の裏で犠牲となった多くの無名の民衆の鎮魂のためにも。

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