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第26話 あわてず攻めろ!の巻
<登場人物紹介>
秋葉:(※小説オリジナルキャラクター)川北の正捕手にして、不動の四番打者。大型選手の揃う川北ナインの中でも、ひときわ目を引くガッシリした体躯の持ち主。まさに攻守の要として、チームを引っ張る。右投げ右打ち。外見とは裏腹に、思慮深い性格である。
1.痛恨の一撃
二回表。川北の四番打者・秋葉が、ゆっくりと右打席に入ってくる。
「バッター四番だ。とくに外野、しっかり頼むぞ!」
倉橋の掛け声に、ナイン達は「おうよっ」と力強く応える。
マスクを被り、屈み込む。横目でちらっと、秋葉の様子を眺めた。やはり長身のがっしりした体躯。さらに四番というだけあり、他の打者よりも眼光が鋭い。
初戦では、ホームランを打った後、すべて敬遠されたんだったな。こんなのを前にしたら、たしかに並のピッチャーだと、腕が縮こまってしまいそうだ。
頭の中で、秋葉のデータをめくる。
こいつはアウトコースが得意だったな。とくにカーブなど緩い変化球は、好物らしい。かわすタイプのピッチャーは、格好の餌食ってことか。
初球。あえてそのカーブを、アウトコースに投じさせる。ただし、念のためボール二個分外す。秋葉は、ぴくりとも動かない。
おや、と倉橋は思った。ボール球とはいえ、得意のアウトコース。それも好物のはずのカーブである。それがコースを見きわめるでもなく、明らかに松川がボールを放った瞬間、打つのをやめた印象だ。
なるほど、真っすぐをねらってるな。
試しにカーブをもう一球、今度はストライクを投じさせた。ボールは緩やかな弧を描き、アウトコースいっぱいに決まる。続く二球目は、インコースにシュート。これは一瞬手を出しかけるが、やはり手を出さず。決まってツーストライクと追い込む。
さぁ、困ったぞ……と胸の内につぶやく。
この一巡目は、川北にうちがデータでは投げてこないと、しっかり印象づけることが大事なんだ。そうすりゃ、やつらを迷わせられる。ただ、さすがに四番かぁ。
それでも四球目は、速球をインコースに要求した。秋葉はやはりバットを出しかけたが、ボールだと判断し見送る。これでイーブンカウント。
四番ともなれば、ボールには手を出しちゃくれないか。さて……どうしようか。
迷った末、倉橋はカーブのサインを出す。バッターが速球待ちだと分かった以上、わざわざそれを投げることはないと判断した。
ところが、松川は首を横に振る。
「……オイオイ、まさか」
速球のサインに変えると、相手はうなずく。驚くよりも「へぇ……」と感心した。
松川のやつ、強気だな。ほんと見ちがえるほどだぜ。たしかに序盤は、少し冒険してもいいと打ち合わせしていたが、あいつからその気になってくれるとは。
頭の中で、倉橋はすばやく計算を立てる。
危険ではある。相手がねらっているタマを、あえて投げ込むんだからな。しかし打ち取れれば、以降がぜん優位に立てる。ようし、いっちょ勝負してみようか。
倉橋は、改めてサインを出す。
速球をアウトコースへ。ストライクぎりぎり……いや、ボールでもいい。中へ入ってくると危険だからな。その代わり、思いきり腕を振るんだ。
マウンド上。松川がうなずき、投球動作へと移る。
快音と同時に、倉橋は立ち上がる。大飛球が、ライト頭上を襲う。松川、そして野手陣が、一斉に振り向く。右翼手の久保が背走するも、フェンスの数メートル手前で足を止める。
くそっ、やられた……
ナイン達の眼前で、ボールはライトスタンドへ吸い込まれる。その瞬間、川北応援団の陣取る一塁側スタンドが、大きく沸いた。歓声の中を、秋葉はゆっくりとダイヤモンドを一周していく。先制のソロホームラン。
相手バッターがホームベースを踏むと同時に、キャプテン谷口はタイムを取った。そして内野陣をマウンドに集める。
「す、スミマセン」
唇を歪めながら、松川が周囲に詫びた。
「相手のねらいダマで抑えれば、こっちに流れを持ってこれると思ったんですけど……甘かったです」
「いや、これは俺の責任だ」
倉橋は庇うというより、率直な思いを述べる。
「ピッチャーが強気で攻めるのは、当然だよ。ここは俺が、もっと慎重に判断すべきだったんだ。今後を考えて、ちと欲ばりすぎた」
「……こら、二人とも」
思いのほか、谷口は穏やかな口調で言った。
「なにを悔やむ必要があるんだ。思いきって、勝負したんだろ」
そうですよ、とイガラシも同調する。
「たった一点じゃないですか。これぐらい、どうってことないですよ」
丸井が「まったくだ」と愉快そうに言った。
「それに……後ろで見てて、痛快だったよ。川北の四番相手に、一歩も引かず真っ向勝負を挑むんだもの。打たれちまったが、俺っちは勇気もらったぞ」
「ありゃ仕方ねーよ」
苦笑い混じりに言ったのは、加藤だった。
「アウトコースぎりぎりのボールだったろ。それをスタンドまで運んじまうんだから、さすが川北の四番と言うしかねぇな」
「分かったか、松川」
谷口は、微笑んで告げた。
「結果はどうあれ、ひるまず相手に向かっていく姿は、チームに勢いをもたらす。今日の松川は、そういうピッチングができてる。自信を持っていけ」
「は、はいっ」
「それと……倉橋、松川」
キャプテンがふと、渋い顔になる。
「いまのは、けっしてベストボールじゃないぞ。少し迷いがあったよな」
えっ、と松川は意外そうな目をした。
「あの一球。ボールでもいいと思って、投げたろう?」
後輩は「あっ」と声を発した。倉橋も、内心ぎくっとする。
「ストライクで勝負するのか、ボール球を振らせるのか。はっきりしなかった分、ボールに力が乗らなかったと思う。そういうスキを見逃さないのが、川北の四番なんだ」
バッテリーは、互いに苦笑いした。完全に図星である。
「まぁ松川、モノは考えようさ」
丸井が笑って言った。
「失投を打たれただけと思えば、諦めもつくじゃないか」
「うむ。つぎこそベストボールで、打ち取ってやれ。いいなっ」
キャプテンの励ましに、松川は力強く「はい!」と返事する。
ほどなくタイムが解け、内野陣はポジションへと散っていく。すぐに川北の五番打者、エースの高野が右打席に入る。
倉橋はマスクを被り、ひそかに溜息をついた。
俺としたことが、中途半端だったな。その迷いが、松川に伝わってまった。谷口の言ったとおり、もっとハラをくくらねぇと。
すぐにプレイが掛かる。倉橋はカーブのサインを出し、外に構えた。松川が「む」とうなずき、投球動作へと移る。
大きなカーブが、アウトコース低めに決まった。高野はまるで反応しない。
高野もアウトコース、しかも変化球は好きなはずだが、手を出す素振りもなかったな。ということは、こいつも速球ねらいか。
しばし悩んだ末、速球のサインを出した。今度はストライクに構える。
これでアウトに取れば、向こうは今度こそダメージを喰う。さぁ松川、おまえのいちばんのボールを投げ込んでこい。
松川はうなずくと、足を踏み出し、腕を思いきりしならせる。
次の瞬間、倉橋は「センター!」と叫んでいた。鋭いライナーが、左中間を切り裂いていく。ボールは二度バウンドして、フェンスに当たり跳ね返った。
「島田さんっ」
中継のイガラシが叫ぶ。その間、高野は一塁ベースを蹴り、二塁へと向かう。ようやく島田がボールを拾い、投げ返す。
「ボール、サード!」
谷口の掛け声より早く、イガラシはすかさず三塁へ送球した。矢のようなボールが、ノーバウンドで相手のグラブに収まる。
高野は二塁を回り掛けたところで、慌てて戻った。捕球した谷口が牽制する。どうにか三塁には進ませなかったものの、ノーアウト二塁。
「……くっ、相手が一枚上だったか」
空を仰ぎつつ、倉橋はほぞを噛んだ。
渾身の一球を打たれた松川が、二塁ベース上の打者走者を睨む。
この回、二度目のタイムが取られた。再び内野陣が、マウンドに集まる。一回目と異なり、誰もがなかなか口を開かない。
さ、さすが川北だぜ……と、丸井は顔を引きつらせる。
松川のボール、この頃は俺っちらも、カンタンには打ち返せないのに。それをあっさり長打にしちゃうんだもの、やはり並のチームじゃないな。
やがて谷口が、一声発した。
「ほら、気落ちしてる場合じゃないぞ」
松川は「分かってます」と、顔を上げる。唇を結ぶその面持ちが、まだ闘志は失われていないことを物語っていた。丸井は少し安堵する。
ぽんと二年生投手の肩を叩き、キャプテンは倉橋に顔を向ける。
「どうやら打ち方を変えてきたな」
「ああ。バッターのちがいもあるが、初回はミート優先だったのに、この回は強振してきてる。これはおそらく、田淵さんの指示だろう」
「俺もそう思う」
正捕手の発言を、谷口は首肯する。
「きっと倉橋の組み立てが、昨年の練習試合とまるでちがうもんで、意図を探りにきたんだろう。ひょっとして苦手を突こうとしないのが、プライドに障ったのかも」
「ま、田淵さん自身は、つまらないプライドに囚われる人じゃないが。何人かムキになりかけたやつがいて、それで手を打ったとも考えられるな」
要二人の言葉に、丸井はちらっと相手ベンチを見やった。
その田淵という人物は、さっきからベンチ隅で腕組みしたまま、グラウンド上へ鋭い眼差しを向けている。胸の内は、やはり読み取れない。
「……それで倉橋」
声を潜めて、キャプテンが尋ねる。
「田淵さんは後続のバッターにも、強振させてくるだろうか」
「いや、それはないと思う」
倉橋は即答した。
「四、五番にそれをさせたのは、できると判断したからだ。バッターの力量を見ずに、やみくもな指示を与えるほど、あの人は浅はかじゃない。つぎからは、またミート打法に戻してくるだろう」
「まったく同感だ。となると……なおさら組み立ては、変えるべきじゃないな」
松川が「いいんですか?」と、意外そうな目になる。
「さらに点差を広げられるピンチなんですよ。ここは慎重にいくべきじゃ」
キャプテンは首を横に振る。そして、思わぬ一言を発した。
「松川。この回、あと二点はやっていい」
さすがに驚いたらしく、相手は目を丸くする。
「みんなも聞いてくれ」
谷口は全員を見回し、話しを続けた。
「この序盤戦は、川北と主導権の奪いっこなんだ。相手の揺さぶりに屈して、こちらの計画を変えてしまったら、それ以後は向こうのペースで進められてしまう。いま凌げたとしても、大事な終盤にしっぺ返しがくる」
「し、しかし……キャプテン」
ふと加藤が、不安げに尋ねる。
「こっちの骨が断たれたら、オシマイじゃないですか」
「その心配はない」
微笑んで、キャプテンは答えた。
「向こうが策を立ててくるのは、マトモにいって松川を打ち崩すのは、ムズカシイと判断したからだ。まだ中軸の個人技で得点しただけ。なおも向こうが警戒してくれているのに、こっちが合わせることもなかろう」
加藤が「そ、そうか」と目を見開く。
「とはいえ……かなり勇気のいる投球を、バッテリーには続けてもらってる」
そう言って、谷口は他の内野陣を見回した。
「だからバックも、それに応えよう。みんなで松川を助けるんだ!」
ナイン達は「おうよっ」と応え、再びポジションへ帰っていく。
セカンドに戻り、丸井は自分のグラブを数回叩く。そして足元をスパイクで均し、試合再開に備えた。ふと感嘆の吐息が漏れる。
す、すごいや。ポイントになりそうな場面で、ぜんぶ谷口さんの言葉が効いてる。こういう試合の時ほど、あの人の存在の大きさが分かるぜ。
ほどなく、アンパイアが試合再開を告げる。
後続となる川北の六番打者は、右打席に入った。こちらも長身ではあるが、上位打線に比べると、やや細身である。しかしバントの気配はない。
初球。松川は、速球をインコース高めに投じた。
これは見せ球だったらしく、ワンボール。次の二球は、外角にカーブを続けた。いずれも決まって、ツーストライク。あっという間に追い込んだ。
「いいカーブよ、松川!」
谷口が励ました。傍らで、イガラシも「思い切っていきましょう」と声援する。
そして四球目。速球が、アウトコース高めに投じられる。明かなボール球だったが、バッターはたまらず手首を返してしまう。
「スイング! バッターアウトっ」
ベンチに引き上げると、田淵が「バカめ!」と怒鳴る。
「きさまは打てるタマも選べないのか。それでよく、レギュラーが務まるな」
「す、スミマセン……」
ははっ、いい気味だぜ。あんな打ち方したら、怒られて当たり前だよ。ミートしか考えてねぇから、つい手が出ちまうんだ。
続く七番打者は、左打席に立った。前のバッターが三振に取られた後とあってか、やや緊張しているように見受けられる。
ふふっ、ちとビビッてるな。こりゃチャンスだぞ。
初球。アウトコース低めに、松川は速球を投じた。その打者は、踏み込んでバットをはらうように差し出す。思いのほか迷いのないスイングだ。
しまった……こいつ、ねらってやがった。
パシッと快音が響く。低いライナーが、二塁ベース付近へ飛んだ。やられた……と思った瞬間、土を蹴る音がした。
「くわっ!」
横っ飛びしたイガラシが、ボールをグラブの先に捉える。
「……へ、へいっ」
はっとして、丸井はすぐに二塁ベースへ入る。
イガラシは起き上がると、手首のスナップを効かせ、すばやくトスした。高野が慌てて帰塁しようとする。その手がベースタッチするより早く、丸井は捕球した。
「あ、アウト!」
二塁塁審のコールに、内外野のスタンドが沸いた。
「……よ、よく捕ったな」
丸井の一言に、後輩は「どうってことありませんよ」と真顔で答える。
「倉橋さんから二塁ベース近くで守るように、直前でサインが出されたので、あらかじめ寄っておいたんです。それと球威に押されたのか、けっこう詰まってましたし」
「な、なるほど」
「ま……三点やるつもりだった状況を、一点に抑えたんですから。これからスよ」
そう言って、イガラシはやっと微笑んだ。
攻守交代となり、眼前を墨高ナインが引き上げていく。
「……やはり変えてこなかったか」
田淵は、こっそり唇を噛んだ。
ちょっとメンドウだな。打たれてもパターンを変えないということは、なにかべつの意図があるということだ。松川のボールを頼みにして、そのアテが外れたのなら、いくらでもつけ入るスキはあったが。
「一点取った後の守りだ、しっかりいこう」
エース高野が、周囲に声を掛ける。
「四番からだ。しっかり頼むぞ、バック」
キャッチャー秋葉も続いた。川北ナイン達は「おうよ!」と力強く応え、二回裏の守備へ飛び出していく。
「高野、秋葉。ちょっといいか」
バッテリーを、田淵は呼び寄せた。二人の「はいっ」という返事が重なる。
「思ったより、墨谷はしぶとい。こうなったらガマン比べだ。すぐに追加点とはいかないかもしれんが、辛抱してくれ」
「分かってます」
高野は即答した。
「一点ありゃ十分です。墨高のやつらに、ホームベースは踏ませませんよ」
「俺も同感です」
傍らで、秋葉もうなずく。
「たしかに粘っこい打線ですが、高野から一振りで点をもぎ取れそうなバッターは、見当たりません。どっしり構えてりゃ、向こうは消耗してくるはずです」
「うむ、その意気だ」
二人の肩を、田淵はぽんと叩く。
「しかし油断は禁物だぞ。なにせ過去、何度も番狂わせを起こしたチームだからな」
バッテリーは再び「はい!」と声を揃え、グラウンドへと駆け出した。
後輩達の背中を見送り、ひそかに溜息をつく。
番狂わせか……と、田淵は胸の内につぶやいた。試合前から抱えていた、もう一つの不安が、じわじわと頭をもたげてくる。
せめて……あと二日早く、合流したかったな。じっさいの所、墨谷のチカラがどれくらいなのか、俺もちゃんと分かっていない。後手に回らなきゃいいんだが。
2.墨高打線対川北バッテリー
ロージンバックを、高野は足元に放った。
その眼前。墨高の四番打者・谷口が、右打席に立つ。やや短めにバットを構え、こちらに鋭い自然を向けている。
「プレイ!」
アンパイアのコールと同時に、秋葉がサインを出した。高野はうなずき、すぐに投球動作へと移る。左足を踏み込み、上半身を屈め、第一球を投じた。
ズバン。インコース高めに、快速球が決まる。谷口はぴくりとも反応しない。
やれやれ……仰け反るどころか、目が座ってら。だいぶ速球には、目を慣らしてきたようだな。ま、それぐらいやってくれないと、はり合いはねぇってもんよ。
二球目は、アウトコース低めの速球。あえてボール二個分外す。谷口は一瞬ぴくっとするも、やはりバットは出さない。
「ナイスボールよ、高野!」
秋葉がそう言って、返球してくる。
ふん。反応したところを見ると、こいつも低めねらいだな。もっともボールに手を出さないのは、ちゃんと見きわめてるってことか。うちの六番とはエライちがいだぜ。
三球目。今度はカーブを、アウトコース高めに投じた。決まってツーストライク。四球目もカーブを続けたが、これは見きわめられる。
イーブンカウントか。こいつも、なんだかんだ粘りやがる……むっ。
すぐにでも決めにかかりたかったが、秋葉のサインにはっとする。正捕手の要求は、インコース高めのカーブ。
なるほど。もういっちょ高めで押す、ということか。ボールは見きわめられても、バットに当たるとは限らねぇもんな。
サインにうなずき、高野は五球目を投じた。スピードのあるカーブが、バッターの肩を巻き込む軌道を描く。ほぼねらったコースだ。
ところが、谷口はあっさりカットした。
ハーフライナーの打球が、三塁側の内野スタンドに飛び込む。キャッチャー秋葉が、一瞬顔を歪める。高野もつい舌打ちした。
ちっ、カンタンに当てやがって。やはりメンドウなやつだぜ。
六球目は、さすがにドロップのサインが出される。高野はアウトコース低めをねらい、要求されたボールを投じた。谷口のバットが回る。
パシッ。大飛球が、センター頭上を襲う。
「……な、なにぃっ」
思わず驚嘆の声を発した。
「センター!」
秋葉の声よりも先に、中堅手が一直線に走る。そしてフェンスに背中を付けた。しかし、そこから数メートル前進する。
「……アウト!」
二塁塁審がコールする。思いのほか打球は伸びず、途中で失速した。どうやらボールの下を叩いていたらしい。
あぶねぇ……細いナリして、けっこうパワーあんな。ジャストミートされていたらと思うと、ぞっとするぜ。つぎから気をつけねぇと。
返球を捕り、高野は額の汗を拭った。
引き上げてくる谷口を、イガラシは「キャプテン」と呼び止めた。
「思ったより、ドロップが落ちなかったようですね」
「うむ。そうなんだ」
我が意を射たりと、谷口はうなずく
「どうも落差にバラつきがある。もしかしたら、コースによってちがうのかも」
「分かりました、たしかめて来ます」
それだけ言葉を交わし、イガラシは打席へと向かう。いいヒントをもらったぜ……と、胸の内につぶやいた。
「さぁ来い!」
右打席に立ち、気合の声を発した。
すぐに川北のエース高野が、投球動作を始める。ダイナミックなアンダーハンドのフォーム。その右腕から、第一球が投じられた。
快速球が、胸元に飛び込んでくる。決まってワンストライク。
なるほど……思った以上に、手元でホップしてくるな。しかも、ちゃんとストライクに入れてくるあたり、さすが名門のエースだぜ。やはり並のピッチャーじゃないな。
握りを短くし、再びバットを構える。
もっともコントロールがいいってことは、それだけ計算もしやすい。ボール球にさえ手を出さなければ、けっしてどうにもならない相手じゃないぞ。
次の二球は、アウトコース高めにカーブを続けてきた。一球は見逃し、もう一球はカットする。あっさり当てられたせいか、高野が一瞬唇を歪める。
もう高めは見きわめた。きわどいコースは、いまみたいにカットすりゃいい。問題は、あの低めをどうするかだが。
四球目。速球が、アウトコースの低めに投じられる。
これをイガラシは、カットした。高野が驚いた目になる。ここまでの傾向から、当然打ちにくると思ったらしい。
さらに五球目。真ん中低めに投じられたボールは、さほどスピードがない。すぐにドロップだと分かる。バットをはらうようにして、これもカットした。その時、あることに思い至る。
これは、けっこう落差あったな。ひょっとして……
続く六球目は、インコース低め。またもドロップを投じてきた。ところが、五球目よりも落差がない。いまだっ……と、胸の内に叫ぶ。
パシッ。低いライナーが、三遊間を抜けていく。レフト前ヒット。
イガラシは一塁ベースを回り、二塁へ行きかけたところで引き返す。やっぱりね、と一人ほくそ笑んだ。
「ナイスバッティング!」
一塁コーチャーを務める高橋が、声を掛けてきた。
「高橋。後続のバッターに、伝えてくれ」
囁くように、伝達事項を話す。
「あのドロップは、真ん中だとけっこう落ちるが、内外角だとあまり落差はない」
「む。分かった、そう伝えてくる」
高橋は急いで、次打者の横井の所へ向かい、こっそり耳打ちした。
マウンド上。高野は、強く左拳を握りしめた。
くそっ……あの一年坊、最初からドロップをねらってやがった。しかも、あんなカンタンに弾き返すとは。おまけに、どうやらこっちの弱みを見抜かれたらしい。一塁コーチャーのやつが、後続に耳打ちしてたのは、その件だろう。
「た、タイム!」
秋葉がアンパイアに合図して、こちらに駆け寄ってくる。
「やられたな。あのイガラシってやつ、ドロップが落ちなかったところを」
ああ、と高野はうなずく。
「さらに厄介なのが、どうやらコースによって落差がちがうのを、見抜いたようだぞ。それで真ん中のドロップはカットして、インコース低めをねらったんだ」
「まだ一年生だというのに、いい目と反射神経してやがるぜ」
「オイオイ。敵に感心してる場合じゃないだろ」
つい怒鳴ってしまう。正捕手は「まあ落ち着けって」と苦笑いした。
「ここから下位打線だ。ほかのやつまで、おまえのドロップが打てるとは限らん」
無言で、高野はうなずく。
「それでなくても、たった一本打たれただけで、慌てて策を講じるのもシャクだろう。さっきも言ったが、どっしりと自分のピッチングをするんだ」
「ああ、分かってる」
ほどなく秋葉がポジションに戻り、試合が再開された。
続く六番打者の横井は、すぐにバントの構えをした。小兵揃いの墨高ナインの中では、比較的上背のあるバッターだ。しかし細身で、さほどパワーはなさそうである。
ワンアウトから送りかよ。ま……こいつの力量じゃ、仕方ねぇよな。
初球。おやっ、と高野は思った。キャッチャー秋葉が、いきなりドロップのサインを出している。一瞬戸惑ったが、すぐに意図は理解できた。
なるほど……バントを仕損じさせて、併殺をねらうってことか。たしかに、いやーな流れになりかけてるからな。ここらでナイン達の気分を変えてやんねぇと。
うなずき、投球動作へと移る。同時に一塁手と三塁手がダッシュした。
ところが……その瞬間、横井はヒッティングに切り替えた。そして掬い上げるように、ドロップを打ち返す。
「なにっ、バスターだとぉ!」
高野のジャンプした頭上を越え、センター前に落ちる。連打となり、ランナー一塁二塁。墨高応援団の三塁側スタンドが沸いた。
ちきしょう、下位打線にまで。なんてザマだ!
「……た、タイムっ」
秋葉が再び、こちらに駆けてくる。
「スマン高野。いまのは、俺が欲ばりすぎた」
「なに、こっちも同じ考えだったからな。ただ……どうも小細工が、裏目に出てる」
「こうなったら……あれこれ考えず、真っ向勝負に出ようか」
「む。その方が、賢明だな」
タイムが解け、次の七番打者が右打席に入ってきた。先発の二年生投手、松川だ。こちらもすぐに、バントの構えをする。
ここは送ってくるだろう。まさかピッチャーにまで、小ワザをさせるってことはねぇだろうからな。しかし、そう易々とは決めさせてたまるか。
初球は、インコース高めの速球。松川はすぐにバットを引く。
ふん。やはり高めには、そうカンタンに手出しできないか。だからこそ、低めにねらいをつけてるんだろうがな。
二球目もインコース、今度はカーブを投じた。
「……な、なんだとっ」
ところが、松川はバットを立て、右手を引きながらコツンと当てた。ちょうど三塁線とマウンドの間に転がる。
「ファーストだ!」
キャッチャー秋葉の指示が飛ぶ。
「くそうっ」
高野は慌てて打球を処理し、一塁へ送球した。間一髪アウト。しかしツーアウト二塁三塁とピンチが続く。
あ、あんなカンタンに当てやがって。やつら高めは避けてたんじゃないのか。
返球を捕り、ボールを握る。それをパシッと、思いきりグラブにぶつけた。くくっ……と、笑いが込み上げてくる。
「どうやら、おまえらを見くびっていたらしい。やるな墨高。だったら……うちも、ここからは決勝のつもりで行かせてもらうぜ」
続く八番打者の加藤は、左打席に入った。やや短めにバットを構える。
「高野!」
マスクを取り、秋葉が声を掛けてくる。
「ツーアウトだ。ここはもう、バッター集中でいい。思いきりこいっ」
「ああ、いくぞ!」
高野は、初球から立て続けに速球を投じた。いずれもインコース高めに決まり、あっという間に追い込む。
しかし三球目のカーブは、カットされた。続く四球目と五球目は、アウトコースの速球とカーブを見きわめられる。これでイーブンカウント。
下位のくせに、こいつも粘りやがる。だが……それに屈すほど、俺も甘かねぇんだ。
そして六球目。秋葉がインコースに、カーブのサインを出す。うなずき、高野は投球動作へと移った。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を強くしならせる。
速いカーブが、バッターの胸元を抉る。相手のカットしようと差し出してきたバットをかいくぐり、ボールは秋葉のミットに飛び込んだ。
「ストライク、バッターアウト! チェンジっ」
アンパイアが右手を高く突き上げる。傍らで、三振を喫した加藤が「すげぇカーブ……」とつぶやきを漏らす。
「どうだっ、見たか!」
ぐっと右拳を握りしめ、高野はマウンドを駆け下りた。
三塁側ベンチ。加藤がさすがに、うなだれて帰ってくる。
「す、スミマセン。一打逆転のチャンスだったのに」
谷口は「なぁに」と、明るく答えた。
「川北相手に、こんなすぐ点を取れるとは思っていないさ。それに……あれだけ粘ったんだ、向こうもラクじゃなかったろう」
そう言って、全員を見渡す。
「みんなもいいか。リードされたからといって、なにも慌てる必要はない。試合は九回まであるんだ。じっくり攻めて、少しずつ相手を追いつめていこう。いいなっ」
「は、はいっ」
ナイン達は快活に返事した。重くなりかけていたムードが、また明るさを取り戻す。
「バッテリーよくしのいだぞ」
一塁側ベンチ。ピンチを切り抜けた川北ナインが、足取り軽く引き上げてきた。
「ナイスピッチングよ、高野!」
高野は、力強く「おうよっ」と応える。
「流れはこっちだ。つぎは追加点といこうぜ」
一連の光景を、田淵は遠巻きに眺めていた。ひそかに溜息をつく。
ここまでの展開は、あまり良くないな。先制できたものの、まだ相手ピッチャーを攻りゃくしたとは言いがたいし、用意してた策も封じられている。早く追加点を取らなければ、こっちが追い込まれてくるぞ。
その時、田淵は「おや?」と気付く。キャッチャー秋葉が、どうも浮かない様子だ。すぐにベンチ奥へと呼び寄せる。
「おい秋葉」
囁くように問うてみた。
「いま悩んでいるのは、ドロップのことだろう?」
「え、ええ……」
頬を引きつらせ、正捕手は返事する。
ま、仕方あるまい。日に備えて、せっかく隠しておいたボールが、こんな序盤でねらい打ちされてるんだからな。だいぶ計算がくるったろう。
「あまり考えすぎるな」
ぽんと肩を叩き、田淵は端的に告げた。
「それよりも、じっくりバッターを観察するんだ。さっき八番を仕留めたようにな」
「な、なるほど」
「ドロップを使うかどうかは、相手の反応によって決めりゃいい。ぜんぶ計算づくで運ぼうとすれば、かえって苦しくなるぞ」
そこまで言って、さらに付け加える。
「もし困ったら、高野のいちばんのタマを投げさせろ。向こうの策を気にするまえに、相棒の良さを引き出してやれ。あとはエースを信じるんだ」
「……わ、分かりました!」
少し迷いが消えたのか、秋葉に血の気が戻る。
眼前のグラウンド上。墨高ナインが、各ポジションへと散っていく。絶好のチャンスを逃した後にも関わらず、こちらも軽快な足取りだ。
「おまえ達もいいかっ」
田淵は全員を見渡し、語気を強める。
「もう薄々感じているだろうが、墨谷はかなり手強い。しかし、いまバッテリーが見せたように、こちらの百パーセントの力を発揮すれば、やつらをねじ伏せられる。三年間きたえてきた、われわれの気迫と底力を、いまこそ見せてやるんだ!」
後輩達は、力強く「はいっ」と答えた。
ここから試合は、ますます緊迫した様相を呈してくる。
強打を誇る川北は、三、四回と続けてチャンスを作ったものの、墨高バッテリーの意表をつく投球とバックの堅守に阻まれ、追加点ならず。
いっぽう墨高も、ねらいダマを定めたしぶといバッティングで、毎回のように塁上をにぎわせる。しかし、川北エース高野の気迫あふれる投球と、野手陣の鍛えられた守りにより、こちらも得点を奪えない。
両チームの白熱した攻防戦に、スタンドの観客達は息つく暇もなかった。双方一歩も引かない、まさしくシード校同士の試合にふさわしい戦いである。
四回を終えて、〇対一。まったく予断を許さない展開となった。
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