【目次】
【前話へのリンク】
第33話 挑め!準々決勝の巻
1.それぞれの試合前
白熱の高校野球東京都大会も、いよいよベスト4入りをかけた準々決勝である。ここ神宮球場では、午前中より熱戦がくり広げられていた。
この日は春の甲子園四強の谷原、さらに怪腕佐野を擁する東実が相次いで登場とあって、朝から観客は大入りである。
そして我らが墨高ナインも、第二試合での対戦が組まれていた。相手は昨夏、痛恨の完敗をきっした強ごう・明善高である。
「入場はこちらです。慌てないで、ゆっくり進んでください」
神宮球場とその周辺は、大勢の観客でごった返していた。白いポロシャツ姿の係員が、人波に飲まれそうになりながら、拡声器を片手に呼び掛ける。
「ほらそこ、押さないで。チケットは十分ありますから」
「ええと……大人二枚、子供一枚」
「あちー。試合見る前に、倒れちまうぜ」
そんな声が聴こえてきた。
「……フウフウ。へへっ、どうにか間に合ったようだな」
田所は、人波に揉まれ汗を拭きつつ、どうにか三塁側スタンドに辿り着いた。通路をゆっくりと進みながら、墨高応援団の一群を探す。
「にしても、すげぇ人の数だこと。しっかし……はて、連中はどこにいるんだ」
その時「田所さーん」と呼ぶ声がした。顔を向けると、一期下の後輩中山が、こちらへ手を振っている。傍らには、山口や太田、山本の姿もあった。
「ようっ。オメーら、先に着いてたのか」
微笑みを返し、後輩達の下へ駆け寄る。
「仕事はいいんスか?」
長身の山口が、挨拶代わりに尋ねてくる。
「ああ。どうにか朝のうちに、納品をすませてな。あいつらがいよいよ、四強入りに手をかけようってんだ。OBとして、今日ぐらい見届けてやらなきゃよ……って、あり?」
ネット越しのグラウンドに目をやり、そして腕時計を見やる。
「もう十一時じゃねぇか。なんであいつら、まだ出てこねーんだ」
グラウンド上では、球場係員による整備が行われていた。墨高だけでなく、対戦相手となる明善ナインの姿もない。
「ああ、第一試合が長引いたんですよ」
太田が答えた。日差しが眩しいのか、もともと細い目をさらに細める。
「ほほう。ここまで延びるとは、かなり熱戦だったんだな」
ええ、と中山がうなずく。トレードマークの眼鏡を汗が滴る。
「なにせ延長十二回まで、もつれ込んじゃってましたから」
「そりゃすげぇや。で、どっちが勝ったんだ?」
「専修館です。ほら、ぼくらと昨年戦った」
「もちろん忘れてないさ」
フフ、と田所は笑みを浮かべた。
「あの試合にトドメを差したのは、中山。おまえの一振りだったものな」
「い、いやぁ……覚えててくれたんスか。照れるなぁ」
おどける中山。うんうん、と田所はうなずく。
「ありゃ直前の俺のアドバイスが、よほど効いたと見えるな」
その一言に、後輩達は「あーあー」とずっこけた。
「……と、ところで先輩」
真顔に戻り、中山が問うてきた。
「このまえ谷口達と会った時の話じゃ、あまりチームの雰囲気はよくないって聞きましたけど。その後、どうなんスか?」
田所は「ああ」と、口元を引き締める。
「きのうも仕事帰りに少し寄って、そのことを谷口に聞いてみたんだが。どうやらさほど好転してないらしい。やはり初めての四強入りをかけた一戦、しかも昨年敗れた明善が相手つうことで、どうも重圧を感じてるやつが少なくないらしい」
ええっ、と後輩達が憂う目になる。
「そんなぁ。ただでさえ強敵だってのに、普段どおりのプレーができないんじゃ」
太田が首を傾げた。
「うむ、でもよ」
声を明るくして、田所は話を続ける。
「救いは……谷口のやつ、思ったより明るかったのよ。なんとかしますって」
「そんなのOBに、気をつかっただけでしょう」
中山が吐息混じりに言った。
「ま、そうかもしれん」
「だったら……」
「けどオメーら、考えてみろよ」
再びグラウンドへ視線を向け、田所は微笑む。
「谷口ってやつは、いままでも不可能としか思えなかったことを、何度となく実現してきた男じゃねーか。そうだろう」
ああ……と、後輩達はうなずく。
「だからこっちとしては、もうやつらを信じて見守るほか、ねーんじゃないか」
その時だった。周囲から、わっと歓声が起こる。
「む。おおっ、ついに出てきたか」
田所が振り向いた視線の先。墨高と明善両校のナインが、ようやくグラウンドへと姿を現した。
「なんだい、小室のヤロー。あいさつにも来ねぇでよ」
グラブを置くなり、丸井が愚痴をこぼす。
「かつて世話になった先輩や、同窓のやつもいるってのに」
三塁側。墨高ナインは各自バットを取り出し、ベンチ前にて素振りを始めた。その眼前で、明善ナインがグラウンドに散っていく。
「まぁまぁ、そう言うなよ丸井」
苦笑い混じりに、加藤がなだめる。
「それだけ俺達のことを認めて、警戒してるってことじゃないか」
「うむ……け、けどよぉ」
「ほら丸井」
まだ不満げな後輩を、キャプテン谷口が穏やかにたしなめる。
「相手を気にするより、まず自分のことだ。しっかり準備して、あの小室に、おまえの先輩らしいプレーを見せてやれ」
「あっ……は、はい!」
はりきる丸井は、二本のマスコットバットを取り出し、ベンチ手前で「うーっ」と振り回す。しかし勢い余って、その場に尻もちをつく。周囲は「あーっ」とずっこけた。
「だ、大丈夫か丸井」
心配するキャプテンに、丸井は赤面して「ええ」と返事する。
ほどなく明善ナインが、シートノックを始めた。こちらも「へいっ」「さぁ来い!」と、活気のいい声が飛び交う。
「あの川北に比べると、そこまで大きくない感じだな」
一旦素振りを止め、横井が感想を漏らす。
「ええ。その分、すばしっこそうですが」
傍らの加藤が、警戒感を募らせる。
「ランナーが出たら、かき回されないようにしないと」
「なぁに、そう心配いりませんって」
意外にもイガラシは、穏やかに言った。
「内野のサインプレーの練習なら、きのうとおとといの二日間でみっちりやりましたし。あとは……走られても慌てないことですよ。ね、丸井さん」
「おっ、おう」
ふいに話を向けられ、丸井はムキになったふうに答える。
「もちろんよ。あの小室に、目にモノ見せてやるってんだ」
「ええ、その意気ですよ」
イガラシは愉快そうに言った。
ナイン達の様子を、谷口も素振りしつつ眺める。少なくとも表面的には、いつもと変わらぬ試合前。このまま普段どおりにプレーできれば……と、胸の内につぶやく。
「よう、谷口」
その時、ブルペンから倉橋が帰ってきた。
「シートノックを見る限り、みんな動きはよさそうだな」
「うむ。昨年のように、体力で負けるってことはないだろう。松川の方はどうだ?」
「あ、ああ……ボールじたいは悪くないんだが」
倉橋は苦笑いを浮かべた。
「ちと表情が硬い。どうも気負いすぎてるようだ」
その返答に、谷口は不安がよぎる。
「そういえば倉橋。松川はフォームを気にしてたようだが、どこかバランスを崩してるんじゃあるまいな」
「いや、そこは問題ない」
正捕手は小さくかぶりを振る。
「きっと精神的なものだろう。いちおう試合が始まるまで、体をほぐしておくように指示してはいるが」
二人の視線の先。レフト線左側のブルペンにて、松川は控え捕手の根岸とストレッチを続けている。倉橋の言うように、さほど動作そのものに違和感はない。
「分かった。俺も試合中、声をかけるようにするさ」
谷口の言葉に、倉橋は「助かるよ」とうなずく。
その時だった。傍らのナイン達が、ふいにざわめき出す。数人が「なんだなんだ?」「どういうこったい」と首を傾げる。
えっ……と思い、谷口も前方へ視線を戻した。
眼前のグラウンド上。明善の一塁手が、他のメンバーより先にシートノックを抜け、なんとブルペンへ向かったのである。
「なにも、そう驚くことはあるまい」
横井が気楽そうに言った。
「あの黒木ってファーストが、リリーフ投手も兼ねてるってことは、このまえのミーティングで半田が言ってたじゃないか」
「それは、そうなんですけど」
しかし半田は、意外そうに目を見開く。
「これまでの登板は、すべて大差がついた終盤だったんです。それがこんなに早く……プレイボール前から準備するなんて」
やがてブルペンにて、その黒木がエース天野と並び、投球練習を始めた。オーソドックスな、右のオーバーハンドである。一球、二球……と、快速球がキャッチャーのミットに飛び込む。ズドン、ズドンと音が鳴る。
「球質は、エースよりも重そうだな」
戸室が感想を述べた。うむ、と倉橋も同意する。
「それにコントロールも悪くないぞ。やつがエースでも、おかしくない感じだが……たしか球種が少ないんだったな」
ええ、と半田がうなずいた。
「エースとちがって、真っすぐとカーブしか投げられないんです」
「む。それだとたしかに、ねらい球をしぼられやすい」
丸井が「だったら」と、割って入る。
「なんでこんなに早く? エースの調子が悪そうにも見えないですし」
黒木の隣では、天野も投球を続けていた。こちらも右のオーバーハンドである。しかしナチュラルに変化するカーブ、シュート。さらにスローカーブ。
「ま、フツウに考えりゃ」
淡々と倉橋が答える。
「エースがつかまった時のために、いつでもリリーフできるようにってことだろうが」
「なーるほどっ」
丸井はポンと手のひらを打つ。
「あの明善も、うちの打線を警戒してるってことスね」
「おいおい、感心してる場合じゃないぞ」
正捕手は小さく溜息をつく。
「ミーティングでも話したが……やつらは昨年も、初めて八強まで進んだうちを格下扱いせず、そうとう研究してきてたんだ。今年も同様だろう。よほど気を引きしめてかからないと、前回の二の舞になっちまう」
ナイン達の会話を、谷口はうつむき加減で聞いていた。本当にそうだろうか……と、胸の内につぶやく。
倉橋の言うように、明善が我々を警戒しているのは、間違いない。しかし、狡かつな彼らのこと。もしやほかに、なにか奇策を用意してるんじゃ……
ふとイガラシが、怪訝そうに問うてくる。
「どうしたんです? そんな浮かない顔して」
「あ……いや」
谷口は首を横に振り、苦笑い混じりに答えた。
「倉橋の言うとおりだ。ほんの少しでもスキを見せれば、彼らは必ずつけ込んでくる。しかしだからといって、臆することもない」
今度は全員へ向けて、語気を強める。
「むずかしく考えるな。いまやるべきことはなにか、自分にできることはなにか。ただそれだけを考えるんだ。いつもどおり、我々のベストを尽くそう。いいな!」
キャプテンの檄に、ナイン達は力強く「はいっ」と応えた。
「つぎ、ショート!」
掛け声と同時に、墨高の控え外野手鈴木が、ノックバットを振るう。
「へいへいっ」
「どんどんいこうぜ!」
白球へ飛び付き、送球あるいは返球するナイン達の動きは、軽やかだ。
そして一塁側ベンチ。対戦相手の練習を、明善ナインが見つめる。一見すると穏やかなムードながら、彼らの眼差しは鋭い。
「ハハ。やはり、いい守備してらぁ」
長身の天野が、乾いた笑い声を立てる。彼こそ明善の主戦投手である。
「む。昨年と比べても、だいぶ動きがいいぞ」
大柄な一塁手黒木が、吐息混じりに言った。
「というより……昨年うちと当たった時には、やつらすでに消耗しきってたからなぁ」
二塁手の町沢が、警戒の目になる。
「もしベストコンディションなら、どうなっていたことか」
そうだな、と天野も同意した。
「先輩達も墨高の底力を感じていたからこそ、どれだけ大差がついても最後まで油断しなかったものな。警戒するに越したことはないぞ」
「しかし……やつら相変わらず、小兵だな」
こちらは少し暢気そうに、黒木が言った。
「あの見てくれじゃ、とても川北や三山を堂々打ち破ったようには見えねぇが」
町沢が「ば、ばかっ」と、黒木の脇腹を小突く。
「やつらと見知りの者もいるんだぞ」
「おっと、いけね」
二人の視線の先。ダッグァウトの隅でストレッチを続けていた小室が、こちらに振り向く。アハハ、と笑みを浮かべた。
「気にしないでくださいよ。同窓といっても、いまは敵同士ですから」
バッテリーを組む天野が歩み寄り、相棒の肩に「よう」と手を乗せる。
「先輩や旧友との対戦で、やりにくいだろうが。なんとか切り替えてくれ」
「ええ、分かってます」
小室は力強くうなずいた。
「しかし小室。あいさつくらい、してきたらどうだ?」
穏やかな口調で、黒木が言った。
「久しく会ってないんだろう。俺達に気をつかうこと、ないんだぞ」
「いえ、けっこうです」
一年生捕手は、きっぱりと答える。
「かつて仲間だったことも、いまは封印しなきゃなりません。なにせ墨高は、とても手ごわいですから」
「フフ。そこまで割り切っているとは、頼もしいな」
満足げに、天野が目を細める。
「しかし小室。いつも言っているが、そう気負うこともない。おまえにできる精一杯のことをしてくれりゃいいからな」
「は、はいっ」
小室は短く返事した。
やがて墨高ナインも、シートノックを終えグラウンドから引き上げる。さらにその数分後、四人の審判団がバックネット手前に姿を現した。
そしてアンパイアが、さっと右手を掲げる。
「両チーム集合!」
合図と同時に、墨高そして明善の両校ナインが「いくぞっ」「おうし!」と気合の声を発し、グラウンドへ飛び出していく。そして互いにホームベースを挟み、素早く整列した。
「これから明善対墨谷の準々決勝を、明善先攻にて開始します。一堂、礼っ」
「オネガイシマス!!」
挨拶が済むと同時に、後攻の墨高ナインが守備位置へと散っていく。一方、先攻の明善ナインは一旦ベンチに引き上げ、初回の攻撃に備える。
2.不穏な立ち上がり
マウンド上。先発の松川が、思いきりよく速球を投げ込んでくる。バシッと、キャッチャーミットが小気味よい音を鳴らす。
「ナイスボール!」
返球して、倉橋は苦笑いを浮かべた。
「だがいまのボールは、勝負所にとっておけ。練習球なんだし、ちょい力を抜けよ」
「……は、はい」
ボールとは裏腹の、上ずった小さな声が返ってくる。
なんでえ、まだ緊張してんのか。調子は悪くないし、なんたってあの川北とも渡り合えたんだ。もっと自信を持ちゃいいものを。
倉橋はラストボールを捕り、二塁ベース上の丸井へ送球する。そして立ち上がり、各ポジションにつくナイン達へ呼び掛ける。
「しまっていこうぜ!」
すぐに「おうよっ」と、快活な声が返ってきた。
ほどなく、アンパイアが「バッターラップ!」とコールした。そして明善の先頭打者が、右打席へと入ってくる。
長身ながら細身のバッター。その眼差しは、鋭い。
こいつか。大会随一のセカンドと噂される、中町ってやつは。バッターとしても、ここまで打率六割。一発もあるようだし、注意しねえと。
やがてアンパイアが、右手を高く掲げる。
「プレイボール!」
試合開始を告げるサイレンと同時に、中町がバットを構える。その立ち姿を横目に、倉橋は思案を巡らす。
半ちゃんの話じゃ、やや内角が苦手つうことだが……明善のことだ。データを逆手に取って、ヤマをはってくるかもしれん。もっとも立ち上がりは、あまり早いカウントから打ってこないとも聞いたが。とにかく、まず探ってみるか。
初球。倉橋は、外角へカーブのサインを出す。
このカーブは、ボールでいい。ちいとでも反応してくれりゃ、やつらのねらいも見えてくるだろうぜ。
松川がサインにうなずき、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。
次の瞬間、倉橋は「なにっ」と声を発した。アウトコースへ外したはずのカーブが、真ん中高めに入ってくる。
明らかな失投。中町は、躊躇なく振り抜いた。
「せ、センター!」
マスクを脱ぎ捨て、倉橋は叫ぶ。
打球はあっという間に、やや深めに守っていたセンター島田の頭上を越えていく。ワンバウンドでフェンスに当たり、跳ね返る。
「ボール、セカン……いやサード!」
谷口が指示の声を飛ばす。
セカンド丸井が中継へ走る。しかし彼が島田からの返球を受けた時、中町はスライディングもせず三塁を陥れていた。スリーベースヒット。
「くっ……な、なんて足だ」
ボールを握ったまま、丸井は口元を歪める。
まさかの一打に、呆然とする墨高ナイン。対照的に、明善の一塁側スタンドとダッグァウトは、沸き上がる。
「中町、ナイスバッティング!」
「いきなりノーアウト三塁たぁ、幸先いいじゃねえか」
「この調子で、畳みかけるぞ」
ベンチにて、明善ナインがそんな会話を交わす。
「……た、タイム!」
倉橋はたまらず、マウンドへ駆け寄った。
「オイオイ。いくら緊張してるからって、ありゃねえぞ」
さすがに叱り付けてしまう。
「す、スミマセン……」
「まあ、すんだことはしかたない。ほれ深呼吸しろ」
先輩に従い、松川はその場で一度深呼吸した。
「少しは落ち着いたか?」
「は、はい……」
ミットで後輩の背中を軽く叩き、穏やかな口調で付け加える。
「いいか松川。なにも、そう気負うことはねえ。おまえが、ほんらいの力を出しさえすりゃ、おさえられない相手じゃないからな」
「……わかりました」
倉橋はポジションに戻り、サードの谷口と目を見合わせた。互いに「一点は仕方ない」と、意思を疎通する。
ほどなくタイムが解け、二番打者が打席に入ってきた。こちらは小柄な左バッターである。
この川島ってやつも、五割近く打ってるが……小ワザも得意だったな。スクイズしたきゃ、すりゃいいさ。ここは確実に、ワンアウトを取るんだ。
川島への初球。今度はアウトコース低め、真っすぐのサインを出す。引っかけさせて内野ゴロ。もし捉えられても長打にはならない、と頭の中で勘定する。
果たして、松川は注文通りのコースに投じてきた。川島のバットが回る。
パシッ、と快音が響く。痛烈なゴロが、一塁線を襲う。飛び付いたファースト加藤のミットの下を、ボールはすり抜ける。
「フェア!」
一塁塁審が、手前の白線を指差す。打球はライト線を転がり、さらに切れてファールゾーンのフェンスに当たる。またも長打コース。
「ボール、サードだっ」
再び谷口の指示。ライト久保と丸井の素早い中継プレーにより、三塁へ向かいかけていた川島は「おっと」と慌てて二塁へ引き返す。しかしその間、三塁走者の中町は悠々とホームベースを踏んだ。明善があっさりと、先取点を奪う。
おかしいぞ……と、倉橋は胸の内につぶやく。
川北のバッターでさえ打ちあぐねた速球、それもアウトコースの低めを、引っぱって二塁打されるなんて。いまの二番は、そこまでパワーがある打者でもねえのに。これは、よほど球威がなかったつうことだ。
眼前のマウンド上。松川は落ち着きなさげに、ロージンバックを拾い上げる。その手元に、パタパタと白い粉が舞う。
しかし、どういうこった。試合前まで、ちと表情がさえなかったこと以外は、まったく問題なかったのに。肩肘を傷めてるなら、ちょっとしたフォームのちがいで、すぐ分かるはずだが……
悩む倉橋の傍らで、次打者の三番板倉が素振りを繰り返す。彼も左バッターだ。さほど大柄ではないが、スイングは鋭くそして柔らかい。
強打者つうより、好打者っていうタイプだな。この後の四番と並んで、かなりの打点を稼いでるらしいが。まったく、さすが気の抜けない打線だぜ。
その初球。倉橋はわざとアウトコースへ、大きくミットを外して構える。
相手のことより、まずこっちのことだな。松川、いまバッターは気にするな。しっかり腕を振って、思いきり投げ込んでこい。
後輩はサインにうなずき、今度はセットポジションから投球動作を始めた。グラブを突き出し左足を踏み込み、右腕をしならせる。
バシッ。倉橋のミットが、小気味よい音を鳴らす。
「ナイスボール! いまのは、いいタマだぞ」
そう言って返球した。松川が「はい」と、僅かに口元を緩める。一方、倉橋は安堵しつつも、さらに困惑した。
いまのボールが投げられるってことは、故障じゃなさそうだ。とすると……やはり気負いで、力んじまってたのか。
二球目も、アウトコース低めの真っすぐ。ただし「つぎはここよ」と、倉橋はストライクぎりぎりのコースを要求した。む、と相手はうなずく。
松川の投球は、その注文通りのコース。板倉のバットが回る。
快音と同時に、痛烈なゴロが三遊間を襲う。松川が「しまった」と顔を歪めかけたその時、サード谷口が横っ飛びして、グラブの先に捕球した。そして片膝立ちになり、二塁走者を一度牽制してから、素早く一塁へ送球する。
「ナイスサード!」
倉橋が声を掛けると、谷口は微笑む。
「いいぞバッテリー。その調子で、思い切っていこうよ!」
おうよっ、と正捕手は応えた。
続く四番打者は、先ほどリリーフ登板の準備をしていた黒木だ。重い球質のボールを投げ込むだけあり、迫力ある体躯である。
こりゃまた、丸太のような腕しやがって。この黒木も打率五割、まえの試合ではホームランも打ったんだっけな。
「……ボール!」
アンパイアのコール。相手の四番に対し、バッテリーは慎重に攻めた。一球目、二球目とアウトコースの際どいコースを突く。しかしいずれも見逃され、ツーボール。
くっ……選球眼も悪かねぇな。かといってストライクを取りにいったところを、痛打されるのもコトだ。一塁が空いてるし、ここは歩かせるか。
倉橋は立ち上がり、はっきりと敬遠を指示した。四つ目のボールを捕球すると同時に、アンパイアが「ボール、フォア!」と一塁ベースを指さす。
ワンアウト一・二塁となり、迎える打者はエース天野である。
倉橋はマスクを被り、ホームベースやや後方に屈み込む。その傍らで、天野は二、三度軽く素振りしてから、ゆっくりと右打席に入ってきた。
つぎの五番は、エースの天野か。さほど打率は高くないが、けっこう勝負強いって話だったな。しかし気味悪いほど、脱力してやがる。こういう場面では、あまり迎えたくないタイプだぜ。さて、どう攻めるか。
束の間思案した後、倉橋はサインを出す。インコース低めの真っすぐ。
データでは、内角低めが苦手なようだし……そこを中心に攻めていくか。引っかけさせて、併殺に取れれば理想的だが。
松川はサインにうなずき、一度二塁へ牽制球を放る真似をしてから、再びセットポジションにつく。そして投球動作を始めた。
その瞬間、天野はバットを寝かせた。
谷口、松川、加藤の三人が同時にダッシュする。送りバントと思いきや、天野はボールが当たる寸前にバットを引く。アンパイアの判定はストライク。
「……もしや、こいつ」
倉橋は、ひそかにつぶやく。嫌な予感がした。
続く二球目。バッテリーは、インコース低めの真っすぐを続けた。ところが天野は、またもバントの構え。そしてやはり寸前で引く。これでツーストライクとなる。
やはり。この天野ってやつ……松川が不調と見て、揺さぶりをかけてやがる。
「松川!」
立ち上がり、マウンド上の後輩へ告げる。
「こいつにかまうな。もしバントしてきても、内野で処理する」
「は、はいっ」
後方から「松川さん」と、イガラシも声を掛ける。
「バントしたいなら、やらせましょう。ただでアウト一つくれるってんですから」
そうよ、と丸井も言葉を重ねる。
「ベースカバーは任せときな。川北戦のように、思いきっていけ!」
フフ、と思わず笑みがこぼれる。あの二人、さすが場慣れしてるな。これなら、向こうがなにか仕かけてきても、慌てず対応できそうだ。
倉橋は再び、正面を向く。そして「む」と目を見開いた。
マウンド上。松川がしきりに、手の甲で額を拭っている。大粒の汗が頬を伝い、後から後から滴り落ちていく。
なんだ、松川のやつ。あんな汗びっしょりになっちゃって。いくら暑いとはいえ、まだ立ち上がりだぞ。
迎えた三球目。なんと天野は、始めからバントの構えをした。
「気にするなよ、松川。バントは俺達に任せろ」
そう言いつつも、胸の内に不安がよぎる。倉橋はちらっと、打席の天野を見やった。ほとんど無表情。なにを考えているのか、その顔色からは読み取れない。
分かっちゃいたが、つかみどころのないチームだぜ。昨年やられたのは、どうやら俺達が消耗しきってただけじゃ、なさそうだ。
ほどなくセットポジションから、松川が投球動作へと移る。
この瞬間、天野は一転してヒッティングの構えをした。そしてサイン通りに投じられたインコース低めの速球を、掬い上げるようにして打ち返す。
「……れ、レフト!」
倉橋の声を待たず、レフトの横井は背走していた。しかし打球はその頭上を越え、ダイレクトでフェンスに当たる。エンドランが掛かっていたらしく、すでに二人の走者はスタートを切っていた。
「バックホーム……いや、投げるなっ」
谷口が叫ぶ。横井からの返球が、ようやく中継のイガラシへと渡った時、すでに二人の走者は生還していた。二点タイムリーツーベースヒット。
湧き上がる一塁側スタンドとダッグァウト。
「よく打ったぞ、天野!」
「見事な先制パンチだぜ。いきなり三点とは」
「これで墨谷も、ちっとはおとなしくなるだろう」
明善応援席から、そんな声が聴こえてきた。
バックスクリーンの上部。スコアボードの一枠がパタンと返り、明善の得点を示す「3」の数字が刻まれる。
「……くそっ、やられた」
ボスンと、倉橋はミットに右拳を打ち付けた。
「低めの速球を、あそこまで持っていかれるとは……やはり球威が」
その時である。
「た、タイム!」
ふいに一声発したのは、イガラシだった。
「松川さん、倉橋さん。ちょっと」
そしてボールを持ったまま、こちらに駆けてくる。なにやら血相を変えていた。倉橋は「どうした?」と走り寄る。
マウンドにて、松川と三人で集まる格好となった。
「こ、これ……」
後輩がボールを差し出す。その傍らで、松川はうつむき加減になる。
「ボールがどうし……えっ」
倉橋はそれを受け取り、絶句した。
イガラシに手渡された、ついさっき松川の握っていたボールは、べっとりと血に染まっていたのである。
「こ、これって……オイ松川!」
つい怒鳴り付けてしまう。後輩は観念したように、無言で右手の指を開く。その中指と人差し指は、血豆が破れ出血していた。
「……ああ」
溜息が漏れる。
「どうりで試合前……ボールは悪くないのに、なんだか顔色がよくなかったわけだ。おまえ、ずっと隠してたんだな」
はい、と松川は力なくうなずいた。
「きっと連日の投げ込みが、すぎたせいです。先輩に言われたとおり、もう少し加減しておけばよかったのですが……スミマセン」
「ま、しかたないさ。しかし……こりゃ参ったな」
倉橋は苦笑いを浮かべ、こめかみを人差し指でポリポリと掻く。
「うわっ。いきなり三点かぁ」
中山が頭を抱え、空を仰いだ。正午近くになり、日射しはさらに強さを増していく。
三塁側スタンド。墨高応援席の一角に陣取る中山、田所ら野球部OBの面々は、皆一様に顔を曇らせた。思わぬ先制パンチに、彼らだけでなく周囲の観客達から、悲鳴と溜息の入り混じった声が漏れる。
「なんだよ松川のやつ。今日は、本調子じゃねえのか」
大柄な山口が、そう言って一つ吐息をつく。
「あれだけ制球がバラついてちゃ、このレベルの相手には打たれるわな」
「いや……この五番への投球は、そう悪くなかったが」
同じ投手の中山は、後輩を庇う。
「あの低めをものの見事に打った、向こうをホメるべきだろう」
傍らで、太田が「それにしても」と細い目を見開く。
「初回に三点てのは、昨年やられた時と同じ展開だな。表とウラのちがいはあるけど」
「おい、ヘンなこと言うなよ」
中山はやや声を荒げる。
「縁起でもねえ。試合はまだ、始まったばかりなんだぞ」
「うるせーな。ほんとのことを言ったまでじゃねえか」
「それがシャクにさわるってんだよ」
なにいっ、と太田が睨み返す。
「まぁまぁ二人とも」
気のいい山本が、なだめるように言った。
「ここで俺達が言い争っても、しようがないじゃねえか」
「そ、そりゃそうだけどよ」
中山は唇を尖らせる。
「落ちついて見られる展開じゃないし」
「中山。忘れてないか」
フフ、と山本は笑みを浮かべる。
「率いるのは、あの谷口なんだぜ。やつがこれぐらいの劣勢で、ずっこけるような男じゃないってことは、おまえもよく知ってるだろ」
さすがに中山は「うむ、たしかに」とうなずく。
「ねえ、田所さん」
前席の先輩にも、山口は声を掛けた。ところが田所は、渋い表情で眼下のグラウンドを凝視したまま、反応しない。
「……た、田所さん?」
山口がもう一度呼び掛けると、ようやく「あ……ああ」と応える。
「もちろんさ。こんな状況から、いままで何度もひっくり返してきたもの」
少し笑って、田所はさらに付け加える。
「それより。オメーらがそうやって、鳩が豆鉄砲を食ったような顔してちゃ、やつらに力を与えられねえぞ。ほれ、こんな時こそ応援してやるんだ」
「は、はいっ」
山本と中山は、揃って返事した。そして「ぶっとばせー」「やっつけろ」と少々間の抜けた声援を送る。あらっ……と、太田と山口がずっこけた。
視線をグラウンドへと戻し、田所は胸の内につぶやく。
どうもヘンだと思ったら……谷口やほかの数名以外、苦しむ松川に声をかけるやつがいないじゃねーか。川北戦であんなに一丸となってたチームが、今日はなんだかバラバラだぞ。こりゃ想像以上に、深刻なのかもしれないな。
マウンド上には、松川と倉橋。さらに谷口とイガラシ、丸井、加藤の内野陣が、バッテリーの二人を囲む。誰もが険しい表情だ。
小さく溜息をつき、田所はぐっと右拳を握る。
谷口のやつ「なんとかします」なんて言ってたが、ほんとに平気なのか。ほかの連中も、オメーら三年間の集大成なんだぞ。このまま終わっちまっていいのかよ……
「外野!」
その時である。マウンド上の谷口が、さっと右手を掲げる。どうやらナイン全員を集めるつもりらしい。キャプテンの声に、外野の三人が走り出す。
3.キャプテンの檄
「ああ、こりゃひどい」
血豆の破れた松川の指先に、横井が顔をしかめる。
「どうりで、あんなカンタンに打たれるわけだ。すぐに交代しないと」
うむ、と加藤も同意する。
「気の毒だが……手負いの状態でおさえられるほど、明善は甘くないからな」
「そんなことは問題じゃない!」
ふいに怒鳴ったのは、キャプテン谷口だ。
「松川は少しでもよいボールを投げようと、一所懸命がんばってたじゃないか。なのに二、三人をのぞいて、誰も声をかけてやらないとは、どういうことだっ」
いつになく怒りの形相である。
「苦しむ仲間を助けられない。そんなチームでいいのか!」
周囲のナイン達は、さすがにビクっとして、背筋をぴんと伸ばす。
「す、スマン松川」
横井が詫びる。手負いの二年生投手は、短く「いえ」と返事した。
「……し、しかしキャプテン」
冷静な口調で、丸井が言った。
「どっちみち、こんな手負いでは……続投は厳しいんじゃ」
谷口は「どうなんだ?」と、松川に問いかける。
「松川。おまえの正直な気持ちを、言ってみろ」
しばしの沈黙の後、松川は目を見上げる。
「……行かせてください」
きっぱりと答えた。周囲は「ええっ」とざわめく。
「ここで降板すれば、ローテーションに影響が出て、準決勝に万全で臨めなくなります。そうなると、あの谷原には太刀打ちできません」
横井が「なに言ってんだ!」と声を荒げる。
「今日負けたら、つぎもないんだぞ」
「いや、横井」
谷口が割って入る。
「われわれの目標は、あくまでも甲子園だ。ここで勝っても、準決勝で試合にならないようじゃ、意味がない」
「け……けどよ、谷口」
なおも横井は食い下がる。
「リクツは分かるが、あまり点差をつけられちまうと、ばん回がむずかしくなるぞ」
谷口は「分かってる」とうなずき、再び松川と目を見合わせる。
「そうだな……四点までだ。それ以上に取られそうなら、たとえこの回でも代える」
当人より先に、加藤が「えっ」と目を見開く。
「四点までって。もう、あと一点しか」
「だいじょうぶです」
口元に笑みを浮かべ、松川は答えた。
「高めの制球はむずかしいですが、速球とシュートを低めに集めるくらいなら、どうにか。さっきの五番には、ねらったコースより少し高かったので、もっと低く投げます」
「うむ。その意気だ、松川」
少し口調を柔らかくして、谷口は後輩を励ます。そして全員の顔を見回した。
「彼の闘志を、後押ししてやろうじゃないか。みんなで松川を助けるんだ。いいな!」
ナイン達は、力強く「はいっ」と声を揃えた。
やがてタイムが解かれ、再び野手陣は各ポジションへと散っていく。
倉橋がマスクを被り、屈むのと同時に、明善の六番打者小室が右打席へと入ってきた。一年生のわりに大柄な少年は、快活に「おねがいしますっ」と一礼する。
「ど、ドウモ」
短く返事して、倉橋は思案を巡らせた。それにしても……と、胸の内につぶやく。
松川のやつ、変わったな。一年前はまったく同じ状況で、怖じ気づいて自ら降板を申し出てた男が。あいつもだんだん、次期エースとしての自覚が芽生えてきたようだ。
横目でちらっと、バッターの握りを見やる。
ほう、短くバットを持ったか。いかにも一発のありそうな体つきだが……なるほどイガラシの言うように、堅実なタイプらしい。さほど怖さはないが、こういうピンチの場面では、なかなか厄介だぞ。
アンパイアが「プレイ!」と右手を掲げた。ワンアウト二塁からの試合再開である。
「……まず、ここよ」
初球。倉橋はアウトコース低めに、シュートのサインを出した。松川は「む」とうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
果たして――投球は要求したコースより、内側に入ってきた。倉橋は唇を歪める。
「うっ。甘い……」
小室のバットが回る。バシッ、と小気味よい音がした。速いゴロが松川の足元をすり抜け、二塁ベース右を破る。センター前ヒット。おおっ、と一塁側の明善ベンチが湧き立つ。
「ボールバック!」
谷口が叫び、ファールラインを出てベースカバーに下がる。その間、二塁走者の天野は三塁を蹴り、一気にホームへ突っ込んできた。
センター島田が鋭いダッシュから、やや上体を屈めて捕球する。
「中継……いや、直接ホームだっ」
丸井の指示よりも早く、島田は捕球した勢いのままバックホームした。明善の三塁ベースコーチャーが「つ、つっこめ!」と叫ぶ。
ワンバウンドのストライク返球が、倉橋のミットに吸い込まれた。そこへ、ランナー天野の左手が伸びてくる。本塁上のクロスプレー。そしてアンパイアの声。
「……あ、アウト!」
ワアッ、と歓声が起こる。倉橋はすかさず、二塁ベース上へ転送した。
「し、しまった」
すでに二塁を回り、三塁をも伺っていた小室は、完全に逆を突かれる。飛び付いたその背中を、セカンド丸井のグラブがはらう。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
二塁塁審のコールと同時に、墨高ナインはベンチへと駆け出す。三失点を喫した直後にも関わらず、その足取りは軽い。
「ナイスプレーよ島田!」
横井の一声に、島田は「ドウモ」と照れた顔になる。
「さすが倉橋、ナイスブロック。松川もよく投げたぞ」
キャプテン谷口が朗らかに言った。一方、小室は膝立ちになり、右拳で土を叩く。
「……く、くそうっ」
その頭上。丸井が「どうだ見たかっ」と、雄叫びを上げる。
「ま、丸井さん」
「あわよくば、つぎの塁を……と思ってたんだろうが、そうは問屋がおろさねーぜ。やられっぱなしで、終わるわけないだろう」
挑発的に言いながらも、丸井は右手を差し出す。フフと笑みを浮かべた。
「しかし初球から、思いきりよくねらったな。その調子で、遠慮せず向かってこい」
「は、はい。そちらこそ」
小室は立ち上がり、ぺこっと一礼した。
<次話へのリンク>
※感想掲示板
【各話へのリンク】