【目次】
【前話へのリンク】
第35話 流れはどっちだ!?の巻
<登場人物紹介>
小室:元墨谷二中のレギュラー捕手。昨年はイガラシや久保と共に、墨二の中学選手権優勝に貢献した。やや融通の利かないところはあるが、堅実なプレーが光る。
(以下はオリジナル設定)
墨高への進学を希望していたが、入試直前に体調を崩したことが原因で不合格となる。その後、二次試験を経て野球の強豪明善高へ入学。正捕手の負傷離脱により、レギュラーの座を射止めた。
※小説版オリジナルキャラクター
天野:明善高の主戦投手。バッティングセンスもあり、五番打者を務める。
フォーム自体はオーソドックスな右投げオーバーハンドながら、昨年のエースと同様、ナチュラルに変化するボールを武器とする。これにスローカーブも混ぜ、相手打者に的を絞らせない。ただ制球がバラつきがちで、球質も軽いという弱点がある。
黒木:明善高の一塁手にして四番打者。大柄な体躯と鋭いスイングは、相手に威圧感を与える。バットコントロールも巧みで、勝負強い強打者である。
またリリーフ投手も兼任。真っすぐとカーブの二種類だけながら、コントロール抜群。さらに球質も重く、しっかり捉えないと内野の間を抜けていかない。
中町:明善の二塁手にしてトップバッター。抜群の身体能力を生かした好守備で、大会隋一のセカンドと噂されている。バッターとしても、六割の打率を記録するほどの好打者。
1.無念の降板
墨谷対明善の準々決勝は、明善優勢で試合は進んだ。
三回表、明善はまたもランナーを出し攻め立てる。しかし松川の粘り強いピッチングと、バックの再三の好守により、かろうじて無失点で切り抜けた。
その裏。墨谷は目のさめるような快打を連発したものの、すべて明善野手陣の好守備に阻まれ、けっきょく三人で攻撃を終える。
三塁側ブルペン。井口は、控え捕手の根岸とキャッチボールしていた。
「思わしくない展開だな」
渋い顔で根岸が言った。
「毎回ピンチの連続だし、攻撃では適時打(てきじだ)が出ねえ」
む、と井口はうなずく。
「この分だと井口。終盤あたり、代打で出番があるかもよ」
「そうだな……」
山なりのボールを捕り、井口はふとグラウンドを見やる。視線の先では、墨高ナインが守備位置へと散っていく。
「どうした?」
訝しげに根岸が尋ねる。井口は振り向いて「座ってくれ」と返事した。いつになく生真面目な表情である。
え、と根岸は目を丸くした。
「座るって……井口おまえ、まさか投げる気じゃあるまいな」
一年生左腕は口をつぐむ。
「分かってるだろうが、準決勝まで中一日しかねえ」
諭すような口調で、根岸は話を続けた。
「万全なコンディションで臨まないと、谷原にはとても通用しないぞ。それに先発が早く降板した時は、イガラシが行くと決まってる」
イガラシか、と井口は独り言のように言った。
「なんだい井口。イガラシのリリーフに、なにか不安でもあるのか」
「いや、そういうわけじゃねえが」
山なりの投球を続けながら、胸の内につぶやく。
谷原戦。イガラシだけは何イニング投げるのか、読めねえ。あまり考えたくはねえが、もし俺が初回につかまれば、ロングリリーフもありうる。それなら今日投げて、次戦に疲れを残すのは、ちとマズイな。
「なに考えてるんだ、井口」
根岸が訝しげに問うてくる。
「え……いや、なんでもねえよ」
苦笑い混じりに、井口は答えた。
「念のためさ。少しは投げとかないと、体がなまっちまうからな」
「そ、それならいいんだが」
渋々と根岸は承諾し、屈んでミットを構えた。
「まずは七割……いや、六割くらいでな」
「む。ほれ、いくぞ」
井口はうなずき、振りかぶった。
試合は四回表。明善の攻撃は、一番中町からである。
インコース低めをねらったシュートが、打者の膝を掠める。
「デッドボール! テイクワンベース」
コールして、アンパイアは一塁ベースを指さした。
「いまのは仕方ねえ。切りかえろよ、松川」
すかさず倉橋はマスクを脱ぎ、粘投の後輩を励ます。
「は、はいっ」
マウンド上。心配させまいと、松川は笑顔を見せる。それでも肩を上下させ、額やこめかみには大粒の汗が噴き出す。明らかに苦しげだ。
「がんばれ松川! みんながついてるぞ」
ファーストの加藤が掛け声を発した。
「どんどん打たせるんだ。あとは俺達が、なんとかしてやるっ」
レフトの横井も続く。さらにセカンドの丸井も「気合でいけ!」と声援を重ねる。ナイン達を頼もしく思いながらも、倉橋はひそかに溜息をついた。
しかし、メンドウなやつを出しちまったな。こりゃかき回してくるぞ……
次打者の二番川島への初球、やはり一塁ランナーの中町がスタートを切る。倉橋はミットを外へ外していたが、なんと川島は右足を踏み込んで、強引に引っ叩く。
「なにいっ」
思わず倉橋は声を発した。その眼前で、イガラシが二塁ベースカバーに入り、がら空きになった三遊間をゴロが抜けていく。
「……く、くそう!」
イガラシが身を翻し飛び付くが、さすがに及ばず。その間、ランナーの中町は二塁ベースを蹴り、一気に三塁へと向かう。
「へいっ、レフト」
素早く中継に入ったイガラシが叫ぶ。しかしレフト横井からの返球を捕った時、サード谷口から「投げるなっ」の声が掛かる。
中町はスライディングもせず、楽々と三塁を陥れていた。ヒットエンドラン成功、ノーアウト一・三塁。
「な……なんてこった。まさか初球エンドランとは」
倉橋は唇を歪めた。
「やつら前の回まで、あまり早いカウントから手を出してこなかったというのに。もう松川は限界と見て、たたみかけるつもりだな」
迎えるは三番板倉だ。軽く二、三度素振りして、左打席に入ってくる。
倉橋は一瞬、谷口と目を見合わせた。そして「外野バック!」と指示を出す。また内野陣にも、深めに守るよう伝えた。
一点は仕方ねえ。近いトコで、かく実にアウトを取っていくんだ。
板倉への初球。倉橋はアウトコースへ真っすぐのサインを出し、またも外にミットをはずして構えた。ところが松川の投球は、真ん中に入ってくる。
「し、しまった!」
パシッ。火を吹くような打球が、センターへ抜けていく。それを見て三塁ランナーの中町が、ゆっくりとホームに還ってきた。
「やったぞ」
「板倉、ナイスバッティング!」
一塁側ベンチとスタンドが、大いに湧き上がる。そしてスコアボードが二箇所、ぱたんと捲られた。明善の得点を示す枠が、「3」から「4」へと変わる。
ここまでだな、とキャプテン谷口はつぶやいた。
「た、タイム!」
一つの決断を抱え、アンパイアに伝える。そしてマウンドへ向かった。
マウンド上。松川を囲むように、倉橋、谷口、イガラシ、丸井、加藤。墨高のバッテリーと内野陣が顔を揃えた。
「松川、よく投げてくれたな」
ねぎらうように、キャプテン谷口は告げる。
「……す、すみません」
しばし間を置いて、松川が絞り出すような声を発した。その表情に、無念さが滲み出る。
「なーに。こういうアクシデントは、つきものさ」
後輩の背中を、倉橋がポンと叩く。谷口は「それに」と、言葉を重ねた。
「おまえの力投のおかげで、ナインの闘志(とうし)を呼び覚ますことができた。みんな松川に勇気をもらったんだ」
「いえ、そんな……」
悔しいだろう、と丸井が割って入る。
「その悔しさ、決勝まで取っておけよ」
「丸井の言うとおりだ」
声に力を込め、谷口は言った。
「まだ終わりじゃない。しっかり治して、つぎこそ万全で投げられるように、ちゃんと準備しておくんだぞ」
「は、はい!」
短く返事して、松川はベンチへと駆け出す。
「……さて、こうなったら」
傍らの一年生を、谷口は見やる。
「予定外だが、いけるか?」
「もちろんです」
淡々と、イガラシは答えた。
「先発が早く降板した時は、ぼくが投げると決まってましたから。こういうことも想定して、今日も試合前にちょっと投げてるので」
「む、それは頼もしい」
言葉とは裏腹に、谷口は複雑な思いだった。
できれば今日のところは使いたくなかったが。二イニングとはいえ、明善のことだ。イガラシの全力投球を逆手にとり、体力を奪おうと揺さぶってくるはず。それに屈する男ではないが、次戦以降に影響が出るだろう。しかしこの際、いたしかたないか……
その時である。
数人が「なんだ?」「どういうつもりだい」と、戸惑いの声を発した。えっ……と、谷口は顔を上げる。
三塁側ブルペンより、なんと井口がグラブを手に、こちらへ駆けてきた。
2.志願のリリーフ
「おい井口、待てよ」
背後から根岸が呼び止めるも、聞く耳を持たない。
「……きゃ、キャプテン」
マウンドに来ると、井口はいつになく真剣な表情で言った。
「俺に投げさせてください」
丸井が「なんだてめえ」と、険しい眼差しになる。
「のこのこ出てきやがって。出番じゃないことぐらい、知ってるだろ」
まあ待て、と倉橋が制止する。
「こいつの言い分も聞いてやろうじゃないか。勇んで出てきたからには、それなりのわけがあるんだろう」
井口が「はい」とうなずく。
「谷原と当たる準決勝まで中一日です。展開しだいで、イガラシはロングリリーフもありうるし、翌日の決勝も投げなきゃいけません。ですから今日投げさせて、疲れを残すのは、あまり得策じゃないと思います」
「なに言ってんだ」
今度はイガラシが反論した。
「おまえこそ疲れを残しちゃマズイだろう。谷原戦の先発は、おまえなんだぞ」
いいや、と井口は首を横に振る。
「俺は長くても五イニングだ。いっぽう、おめえは準決勝、決勝と連投になる。明善のねちっこい攻撃に消耗させられたら、後に響いちまう」
「こら井口」
幼馴染を睨み付ける。
「俺を見くびってんのか。それぐらい、どうとでも……」
「その、それぐらいが問題なんだよ」
語気に力を込めて、井口はさらに付け加える。
「優勝するためにはな」
思わぬ迫力に、さしものイガラシも目を丸くした。
「い、井口」
「谷原を倒して、終わりじゃねえんだ。翌日の決勝も勝たなきゃ。そのためにはイガラシ、おめえには無事でいてもらわなきゃ困るんだっ」
「……オイオイ、二人とも」
傍らで、倉橋が苦笑いを浮かべる。
「上級生を差し置いて、勝手に話を進めるんじゃねえよ」
「あっ。す、スミマセン」
井口はぺこっと頭を下げ、気まずそうに頬を引っ掻く。
「ま……こいつの言うことも、一理あるが」
フフと笑い、倉橋は真向かいの谷口と目を見合わせる。
「どうする?」
谷口は「む」とうなずき、しばし思案を巡らせた。
予定外のリリーフは、打ち込まれる危険がある。しかし井口の言うように、後のことを考えれば、ここでイガラシを投げさせたくないのもたしかだ。点差を広げられた嫌なムードをふりはらうためにも、ここは彼の闘志(とうし)に賭けてみよう。
「……分かった」
顔を上げ、井口に告げる。
「そこまで言うのなら、やってみろ」
後輩は「ありがとうございます」と、頬をほころばせた。その脇腹を、すかさずイガラシが小突く。
「テッ、なにしやがる」
「よろこぶのは、おさえてからにしろ」
丸井も「おうよ」と、言葉を重ねる。
「チーム方針にさからったんだ。しっかりおさえないと、承知しねえぞ」
「もちろんです!」
鼻息荒く、井口は答えた。
「な、なんだって」
一塁側ベンチ。井口の登場に、明善ナインは戸惑いの声を発した。
「まさかやつが出てくるとは」
「ブルペンで投げてたのは、てっきり次戦を見すえてのことと思ってたが」
中町が「しまった」と唇を噛む。
「今日の出番はないと思って、あまり井口の対さくはしてねえぞ」
「向こうも予定外なんだろう」
冷静に言ったのは、エース天野だ。
「マウンドで話し込んでたのは、そのせいじゃないか。見るからに鼻っ柱の強そうなやつだからな。おおかた自ら登板を志願して、周りが折れたってトコだろうな」
そういやあ、と次打者の四番黒木がうなずく。
「ちとウォーミングアップが慌ただしいな。あれじゃ、ほんらいの投球はできねえかも」
やがて井口が投球練習を終え、アンパイアが「バッターラップ!」と声を掛けた。
「ようし。やつの出鼻を、俺がくじいてやる」
黒木は二、三度素振りして、右打席へと向かう。
「プレイ!」
アンパイアのコールと同時に、キャッチャー倉橋がサインを出す。そして「ここよ」と、外角低めにミットを構えた。井口はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
初球。倉橋の構えよりも高く、快速球がミットに飛び込んできた。黒木はスイングしたが、完全に振り遅れてしまう。
「は、はええ……」
あれが一年坊のタマかよ、と胸の内につぶやく。
二球目はシュート。真ん中付近だったが、鋭い変化にバットを思わず止めてしまう。決まってツーストライク。
「井口!」
しかし倉橋は、険しい眼差しで叫ぶ。
「タマが高いぞ。もっと低くおさえるんだ」
「は、はい」
黒木は一旦打席を外し、両手にロージンバックの粉を馴染ませる。
「なるほど。天野の言うように、本調子ではないようだ。しかし打席で見ると、こんなに速いとは。あの西将相手に力投しただけあるな」
そして三球目。またも真ん中付近だったが、速球とほぼ同じスピードで投じられたシュートに、黒木のバットは空を切る。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアが右拳を突き上げる。黒木は「やられた」と舌打ちした。その傍らで、倉橋は渋い顔になる。
「おい井口。ちっとも構えたコースにきてないぞ」
「す、スミマセン」
井口は力を抜こうとするのか、左肩をぐるぐると回した。
続く五番天野も、右打席に入る。ゆったりとバットを構え、鋭い視線をマウンドへと向けた。眼前では、井口がスパイクで足元を均す。
その初球。外角高めの真っすぐに、天野のバットが回る。
ガキ、と鈍い音がした。ホームベースの数メートル後方に、高いフライが上がる。倉橋がばっとマスクを脱ぎ、すかさず二、三歩後退してから顔の前で捕球した。
うーむ、と天野は僅かに首を傾げる。
コースは甘かったが、かなり手もとで伸びてきたな。しかし思ったより、球質は軽いぞ。ミートさえすれば飛びそうだが……
天野と入れ替わりに、次打者の小室が駆けてきた。すれ違い際「おい」と、こっそり耳打ちする。
「打ち損じちまったが、どうにもならないほどじゃないぞ」
ええ、と小室は返事した。
「いまいちコースに決まってないようですね」
「うむ。二死を取って、やつらはホッとしかけている。ここで叩けば、一気に流れを引き寄せることができるぞ」
「はいっ」
力強くうなずき、打席へと向かう。
「……こりゃ、バレてるぞ」
マスクを被り直し、倉橋は小さく溜息をついた。
「さすがに抜け目ねえな。井口のコントロールがよくないってこと、さっそく後続に伝えてやがる。ただ下位打線だし、ここは力で押し切ってもらうしかあるまい」
初球。真ん中付近へのシュートに、小室のバットが回る。チッと音を立て、ボールはバックネット方向へ転がった。
くそっ、いきなりチップさせたか。そういやコイツ、中学時代に井口の江田川と戦ってたんだったな。どうりで目が慣れてるはずだ。いくらやつのシュートでも、あまり続けると危ないぞ。
続く二球目は、スローカーブ。その軌道に、倉橋は一瞬「うっ」と目を瞑りかける。
本調子であれば低めいっぱいに決まるはずが、真ん中高めに入ってきた。しかし小室は手を出さず、ツーストライクとなる。
「ばかっ、あぶねーぞ」
倉橋は思わず怒鳴った。失投は自覚しているらしく、井口は神妙な顔で「スミマセン」とうなずく。
一方、小室は「やはり」とつぶやいた。
天野さんの言うとおりだ。中学で対戦した時のような威圧感(いあつかん)が、今日の井口からは感じられない。
三球目は、内角へのシュート。倉橋は低くミットを構えたが、やはり高めに浮く。
小室は肘を畳み、曲がり端を捉えた。カッと小気味よい音。しかし三塁線を切れて、ファールボール。速いゴロがスタンド下のフェンスに当たって跳ね返る。
「……くっ、思いきり振ってきたな」
腰を浮かせつつ、倉橋は唇を歪める。
あれだけ引っぱれたということは、目がついていってるつうことだ。シュートを続けるのは危険だな。打ち気のようだし……ここは吊り球で、空振りを誘ってみるか。
速球のサインを出し、右手の動きで「高めに外せ」と伝える。井口はうなずき、すぐに投球動作を始めた。
次の瞬間、倉橋は「またまたっ」と声を発した。
ボールにしたはずの速球が、ストライクコースに入ってくる。小室は躊躇いなく、踏み込んでフルスイングした。パシッと快音が響く。
「ら、ライトバック!」
倉橋の指示よりも早く、久保が背中を向けダッシュした。そしてフェンス際で振り向き、目一杯グラブを伸ばす。しかしボールは、その遥か上を越えていく。
スリーランホームラン。明善応援団の陣取る一塁側スタンドが、ワアッと大きく湧き上がった。対照的に、墨谷の三塁側スタンドは静まり返る。
「……な、なんてこった」
右拳を握りしめ、倉橋は前方を睨んだ。彼の視線の先、スコアボードの一枠がぱたんと返り、明善の得点が「7」と示される。
「すげえぞ小室、よく打った!」
「これで七点差。ほとんど勝負は、決まったな」
観客のそんな会話が聴こえてくる。
「……倉橋、おい倉橋!」
しばし呆然としていた倉橋は、自分を呼ぶ声にはっとした。顔を上げると、キャプテン谷口が「タイムを取るんだ」と手振りで伝えてくる。
「た、タイム!」
倉橋はアンパイアに告げ、マウンドへ駆け寄った。
一塁側ベンチ。やや戸惑ったふうに、小室が帰ってくる。
「ナイスバッティング!」
「エースを打って助けるとは。さすがキャッチャーだぜ」
上級生達の賞賛に、殊勲の一年生は「ど、ドウモ」と照れた顔になる。
「小室、よくねらい打ったぞ。見事なホームランだ」
エース天野も、後輩を讃えた。
「いかに墨谷といえども、この三点のダメージは軽くないだろう。彼らに立ち直るきっかけを与えないよう、この後しっかりおさえていこう」
「は、はいっ」
素直に返事すると、小室は捕手用プロテクターを装着するため、一旦ベンチ奥へと引っ込む。その背中に、天野は「ふぅ」と一つ吐息をついた。
ふつうの相手なら、これで勝負ありだが……なにせ墨谷だ。ちょっとやそっとのことで、あきらめるチームじゃない。むしろ開き直って、無心で向かってくるかもしれん。以後も気を引きしめてかからなければ。
マウンド上。内野陣だけでなく、墨高ナイン全員が集まっている。
「開いた口がふさがらねーぜ」
辛辣に言ったのは、イガラシだ。
「勇んで出てきたはいいが、ろくにウォーミングアップもできてなかったじゃねえか。なんのためのリリーフだよ、このバカ」
さすがにショックだったらしく、井口は一言も返せない。
「こら井口。てめえ、なんとか言ったらどうなんだ」
「……も、もういいじゃねえか」
丸井が珍しく、井口を庇う。
「四番、五番は打ち取ったんだし。後続がおまえと同じく、こいつのタマに慣れてる小室だったのが、ちと不運だったんだよ」
そうだよ、と加藤も同調した。
「井口はそもそも、おまえを気づかって登板したんだし」
イガラシは「だからって打たれちゃダメでしょう」と、唇を尖らせる。その傍らで、谷口はひそかにクスと笑った。
これはイガラシ。機先を制して、井口がみんなから責められないようにしたな。
「……なあ、みんな聞いてくれ」
谷口はそう言って、こちらに全員の目を向けさせる。
「すまなかった。これは、俺の責任だ」
深く頭を下げた。ナイン達は「ええっ」と、戸惑った顔になる。
「準備が不十分なのは、俺も気づいてたんだ。しかし今日よりも、つぎの試合のことに目がいって、井口の登板を承知してしまった」
「や、やめてください!」
声を上げたのは、井口だった。
「打たれた俺が悪いんス。けっしてキャプテンのせいじゃ、ありませんよ」
丸井が「そ、そうですよ」と言葉を重ねる。
「こいつをマウンドに上げたのは、キャプテンだけじゃなく、みんなで決めたことですから。責任とおっしゃるなら、俺っちにも……ここにいる全員にもあります」
「まあまあ丸井、それにみんなも」
ふいに横井が割って入る。
「あまり深刻になるのは、よそうぜ。たしかに七点差はキツイが、考えてみりゃ……まだ四回だ。ちょっとずつ返していけば、どうにかなるだろ」
三年生の前向きな発言に、ナインの表情が和らぐ。
「うむ、そうだな」
キャプテン谷口は、強くと首肯した。
「横井の言うとおりだ。気落ちするには、まだ早いぞ。ひとまず……この回、後続をしっかりおさえよう。そして流れを作っていくんだ」
ナイン達は「おうよっ」と、快活に返事した。
その後、井口は七番打者をサードゴロに打ち取り、ようやくチェンジとなった。
この回いっきょ四点、〇対七。それでも墨高ナインは、いつものように力強くベンチへ駆けていく。
「……ああ、終わったな」
三塁側スタンド。墨高野球部OBの中山が、溜息混じりに言った。
「守備の堅い明善相手に、いくらなんでも七点差はキツイな」
うむ、と太田も同調する。
「俺らの時とちがって、危なげなく勝ち進んでたから、今年はひょっとして……と思ってたが。そう甘くはなかったか」
傍らで、山本が「まあでも」とうなずく。
「いい夢見させてもらったよ。試合が終わったら、精一杯ねぎらってやるか。今日こそウナギでも食わせて……」
「ば、バカヤロウ!」
後席から、長身の山口が怒鳴る。周囲の観客が「ひぇっ」と、驚いた声を発した。
「あ……ドウモ、すいませんね」
やや声を潜めて、山口は話を続けた。
「まだ半分も終わってねえってのに、応援する側があきらめちまってどうすんだ!」
「うるせえ。俺だって、あきらめたくねえよ」
中山が怒鳴り返す。
「考えてもみろ。あの谷口だって、準々決勝を突破したことはないんだぞ。それに相手は、昨年まるでスキを見せなかった明善だ」
ああ、と太田が力なく言った。
「それに今年の明善は、要(かなめ)のキャッチャーが、谷口達と昔チームメイトだったやつらしい。こりゃどう考えても、お手上げだよ」
山口は「うっ」と声を詰まらせる。
「ま、仕方ねーさ」
苦笑いを浮かべ、中山は慰めるような口調になる。
「二年連続の都大会ベストエイト。これだって弱小だった過去からすりゃ、十分すぎる快挙だ。俺はやつらを誇りに思う……ねえ、田所さん」
前列に座る田所は、まるで話を聞いていなかった。
中山は「さすがに気落ちしたのかな」と思いかけたが、どうも違うらしい。目を大きく見開き、驚いたようにグラウンド上を凝視している。
「……なんだ、谷口のやつ」
後輩達には聞かれない声の大きさで、田所はつぶやいた。
気のせいか? いや……ちがう。たしかにあいつ、笑いやがった。それに、ほかの連中もだ。かなりキツイ状況だってのに、下を向いて引き上げていくやつは、一人もいなかったじゃねえか。
戸惑い目を見合わせる中山らをよそに、田所はフフと笑いがこみ上げてきた。
3.第二のイガラシ封じ
四回裏。小室は二塁送球の後、立ち上がり掛け声を発した。
「しまっていこうよ!」
すかさず上級生から「オウッ」と、力強い声が返ってくる。
ホームベースのやや後方に屈み、先頭打者を待つ。ほどなく墨高の四番谷口が、右打席に入ってきた。
「やあ」
顔を上げると、谷口は穏やかな笑みを浮かべている。
「あっ。ど、ドウモ」
「明善のような強豪校(きょうごうこう)で、がんばってるじゃないか。あまり言いたくないけど、さっきはナイスバッティング」
「は、はぁ……」
戸惑いつつ、小室はマスクを被る。
「プレイ!」
アンパイアのコールと同時に、谷口はバットを短く構えた。今しがたとは一転して、鋭い眼差しをマウンド上の天野へ向ける。
どうしたものか、と小室は胸の内につぶやく。
谷口さんの打率は、ここまで五割近く。どのコースもかたよりなく打ち返してる。ただ点差はあるし、ここは思い切って攻められるぞ。
初球、小室はインコース低めを要求した。天野はうなずき、すぐに投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、右腕をしならせる。
ところがボールは、小室の構えよりも真ん中寄りに投じられた。谷口は迷うことなくスイングする。そして小気味よい音が響く。
「あっ……」
打球はレフト頭上を襲う。飛距離は十分。だがポール際で僅かに切れ、ファール。小室はホッと胸を撫で下ろす。
「ああ、惜しいっ」
「ほんの……あと数センチくらい」
さっきの一発で意気消沈したかに思えた墨谷ベンチが、活気づく。
「す、スマン」
マウンドにて、天野が苦笑いした。
あぶなかった。ナチュラルに変化する分、天野さんは時々こういうボールがある。それに墨高、また士気を高めてきたぞ。やはり谷口さんに一発浴びると、試合の流れが変わってしまいそうだ。
二球目。小室はアウトコース低めに、スローカーブのサインを出す。
天野さんはカーブの方が、コントロールがつけやすいからな。これを引っかけてくれれば儲けものだが。もし打たれても単打までなら、後続のバッターをおさえりゃいい。
天野はサインにうなずき、要求通りスローカーブを投じた。
だが、谷口は「やはり」と言わんばかりに左足を踏み込むと、バットをはらうようにして振り抜いた。パシッと小気味よい音。
しまった、ヤマをはられた……
痛烈なゴロが、一塁線を襲う。飛び付いた一塁手黒木のミットを掠め、打球はライト線に転がった。右翼手が懸命に回り込み、すかさず中継の二塁手中町へ返球する。しかしその間、谷口は二塁ベースに右足から滑り込んでいた。
ツーベースヒット。立ち上がった谷口は、小さく「よしっ」と叫ぶ。
「よく打ったぞ谷口」
「さすがキャプテン。たった一振りで、嫌なムードを断ち切った!」
三塁側ベンチより、墨高ナインの声が聴こえてきた。
「く、くそうっ」
ミットに右拳を叩き付ける。
「小室!」
ふと呼ばれ、はっとした。眼前のマウンドにて、エース天野が「落ちつけ」とばかりに、首を二、三度横に振る。
そ、そうだ……と、小室は自らに言い聞かせた。
上位打線に打たれるのは、仕方ない。後続をおさえて最少失点で切り抜けられれば、うちなら得点差で上回れる。予定どおり、あとを封じていこう。
「けっ。俺を封じるために、わざわざご苦労なこった」
ネクストバッターズサークル。イガラシは、溜息混じりにつぶやいた。
「これを毎度、やるつもりかよ」
眼前のマウンド上では、黒木がこの日二度目の投球練習を行う。ズドン、ズドンと小室のミットが鳴る。やはり球質は重そうだ。
重いマスコットバットで素振りしつつ、イガラシは思案を巡らせる。
ノーアウト二塁か。ここは外角をねらって、センター方向へ打ち返すのが定石だが……やつらの守備だ。とくに、あの中町っていうセカンド。よほどうまく打たないと、さっきのように捕られちまう。
ほどなく、アンパイアが「バッターラップ」と声を掛けた。
右打席に入り、イガラシはじろっと小室を睨んだ。元チームメイトの相手捕手は「なんだよ」と言いたげに、苦笑いを浮かべる。
初球。黒木はカーブを、外角低めいっぱいに投じてきた。捉えられるボールだったが、あえて見逃す。
「ストライク!」
アンパイアの右手が上がる。
小室。おまえが俺の打球方向に合わせて、野手陣へ守備位置のサインを出してるのはお見通しだ。そう何度も、同じ手を食うと思うなよ。
マウンド後方より、二塁ランナーの谷口がコースを伝えてきた。つぎも外角か、とイガラシは備える。
二球目と三球目は、やはり外角低めの真っすぐ。いずれも際どいコースだったが、しっかり見極めた。これでツーボール、ワンストライク。
ちぇ、小室のやつ。コースは知られていいと、隠しもしねえで。しかし外を三つ続けるとは、どうしてもあのセカンドに捕らせたいのか……むっ。
つぎは内角よ、と谷口のサインが示す。イガラシは意外に感じた。
な、内角だと。てっきりセカンドへ打たせるのに、こだわるのかと思ったが。ただの見せ球かもしれないが……もしストライクにきたら、ねらってやる。
そして四球目。果たして黒木は、内角高めに投じてきた。しかもストライクコース。
「き、きたっ」
イガラシは肘を畳み、コンパクトに振り抜いた。
小気味よい音が響く。鋭いライナーが、レフト線を襲う。墨高の三塁側ベンチとスタンドから「やった」と、歓声が上がりかける。
ところが、明善の左翼手はまるで図ったかのように、ほぼレフト線上に守っていた。そこから十メートルほど下がり、軽くジャンプして捕球する。
「く、くそうっ」
ランナー谷口は、慌てて頭から帰塁した。素早い中継プレーからの送球が、二塁ベース上へ投じられる。しかしこれは及ばず、セーフ。三塁側ベンチとスタンドから、今度は「ああ……」と溜息が漏れる。
一塁ベースを回りかけたところで、イガラシは引き返した。
なるほど、これも読んでたのか。俺が内角高めを打てば、レフト線へ飛ぶと。言うのはシャクだが、やってくれるぜ。
まいったね、と苦笑いする。その傍らで、小室がまたもタイムを取り、黒木と天野がやはりポジションを戻す。
イガラシが三塁側ベンチに帰ると、井口がまだ背中を丸め座っていた。
「こら井口、いつまでショゲてるんだ」
うるせえ、と幼馴染は怒鳴り返す。
「ひとの気も知らねえで……」
「おまえの気なんて、知ったことじゃないが」
苦笑いして、前方のネクストバッターズサークルを指さす。
「つぎの打席は、誰からだよ」
井口は「あっ」と顔を赤らめ、バットを手にそそくさと外へ出ていく。周囲からクスクスと笑い声が漏れた。
ガッ、と鈍い音が響く。
「し、しまった」
六番打者の横井が、顔を歪めた。ファースト方向へ力のないフライ。
「オーライ!」
黒木がベースより数歩下がっただけで、難なく捕球する。
二塁ベースのやや後方。中町が「ツーアウト!」と、二本指を立てた。その傍らで、墨高のキャプテン谷口は、顎に手を当て渋い顔になる。
「くそっ。ここは一点でも返しておきたいが、そうカンタンには破れないか。イガラシが封じられると、どうしても打線がつながりを欠いてしまう」
ツーアウト二塁。松川と代わり七番に入った井口が、ゆっくりと左打席へ入っていく。そして無言のままバットを構えた。
キャッチャー小室がサインを出す。天野がうなずき、投球動作へと移る。
初球。インコース低めの速球を、井口はフルスイングした。バシッと快音が響く。その直後、火を吹くような当たりがライト頭上を襲う。
「おおっ」
静まりかけていた墨高ナインとスタンドの応援団が、再び湧き上がった。
<次話へのリンク>
※感想掲示板
【各話へのリンク】