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「長い放課後」#鈴木彩子リクエスト

2020年03月19日 | その他(鈴木彩子,アマビエ様風味?,雑記など)
2020年SAIKO SUZUKIアニバーサリープロジェクト」の、 Twitterとインスタグラムでの #鈴木彩子リクエスト の関連で。

Twitterでは書ききれない分・・・ というか、 書かなくてもいいようなことを書いたもの x x x


長い放課後 / 鈴木彩子

美しいメロディーの上で、 重く悲しい情景が 静かに強く 真っ直ぐに歌われる、 ・・・というか、語りかけられる、といった印象の曲。

この詞には、 重さを緩和するような “救い”も 描かれない。
それを 真っ直ぐに歌われれば、 聴く側は、 自身の感情を 曖昧にごまかしてやり過ごすのは 難しい。

この曲は、 共感する人には、 曲そのもの あるいは むしろ これが制作されたこと自体に対して 鮮烈な?痛烈な?胸が絞めつけられるような?・・・表すのは難しい 複雑な感情での 大きなインパクトを与える力が あるだろう。
そして、 その共感は、 この曲が「好き」になるというよりは、 この曲とアーティストが 自分にとって「大切」な存在になる、といった感覚なのでは?

でも、 世の中の全体での割合では 少なからず・・・ たぶん とても多くの人にとっては 受け入れ難く、 それは、 何かの機会に この曲に接したら、 日々 各所で無数に接している音楽の殆どのように 気に留めることもなく 何も聴かなかったのと同じに 何も残らずに通り過ぎていくよりも、 明確に 不快感や拒絶反応を示されるような、 嫌悪されるものかもしれない。

こういう作品は、 歌い手だけではなく 関わる人たちに 相当な“気持ちの腕力”がなければ できないと思う。
それを 実際にやったという事実には、 それだけでも 敬意を持てる価値がある、と思える。
そして、 そこには、 歌手や演奏者などを指して一律に“アーティスト”と呼ぶ 慣行的な名詞のような感覚とは 少し違った、 「表現」の手法として 芸的な術を用いることを “アーティスト”と表される 本質的な意味を感じる。


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