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【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)

2021-11-24 17:57:24 | 古代史
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2019-10-14 08:51:39に掲載しましたが、余り読まれていないので、若干改訂して、再度掲載いたします。北部九州における対外交易の拠点の移動について考古学者の早野浩二先生が「東海系土器を基軸とした東西広域編年の実際」(「弥生時代の東西交流」(六一書房)2020.5、pp.199-204)で話題にされていました。【付録】に同書付録第3表の「北部九州から東北・北海道までの編年併行関係表」に刮目天が作成した年表を加えたものを掲載しました。ちょっと長くて恐縮ですが、よろしくお願い致します。

「魏志倭人伝」に登場する伊都国は倭国の中でも、とても重要な国のひとつだ。邪馬台国までの行程記事から考えて、魏使は伊都国までしか行かなかったという解釈もあるくらい倭国の中心的な場所なのだ。通説では唐津に比定される末盧国から南東に陸行五百里で到着するとなっているので、東南という方角は変だが、「イト」国という地名の一致と、後で詳しく見ていくが、立派な王墓や対外交易センターと見なせる遺構や遺物が出ていることから伊都国が糸島平野で間違いない。



弥生時代の北部九州に出現した王墓や主要な首長墓を時期ごとに整理した一覧を下に示す。赤枠で囲った代表的な王墓について時代順に簡単に説明する。

まず、弥生中期初頭から前葉(紀元前4世紀末から前3世紀初頭)に日本で最初に早良平野に造られた吉武高木王墓群だ。まだこの時代は倭国王として十分に王権を確立していないとは思われるが、「宋史 王年代記」にある初代王の天御中主から数代の王墓だ(【検証9】奴国の大王は凄かった(*^^)v【付録】参照)。

次も前回のブログで説明したとおり、奴国が大いに発展した弥生中期後葉の王墓だ。多分、第13代奴国大王の國常立尊(くにのとこたちのみこと)かな?(^_-)-☆ 副葬品から考えてこの頃には十分に倭国王と呼べる権力と実力を持っていたのだろうね。そして同じ時期の伊都国王の墓が三雲南小路遺跡の王墓だ。奴国王家の血筋の有力な人物だと考えている。代々の伊都国王もここに眠っているはずだが、王位は奴国大王の認可を受けた世襲だと思う。

伊都国の井原鑓溝(いはらやりみぞ)王墓は、2世紀初頭(後期中葉)に奴国を乗っ取った師升の墓だと考えている(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。三雲遺跡を新たな王都としたことは室見川河口で発見された日本で作られた最古の金石文「室見川銘板」から分かった(「弥生時代にすでに漢字が!」)。

最後の平原王墓は、後で詳しく述べるが、倭国が西晋に朝貢した266年から、西晋に呉が滅ぼされる280年までに大国主の倭国がヤマト勢の追討を受けて、伊都国で戦死した女王台与の墓だと推理している(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆)。


前述のとおり弥生時代中期後半から伊都国は対外交渉の拠点・対外交易センターの役割を担っていた。弥生時代中期後半から掘削された環濠集落の今宿五郎江遺跡だ。対外交易の拠点と考えられる遺物(楽浪系土器、三韓系瓦質土器、鋳造鉄斧など)が多数見つかっている。


(2019.10.15 改訂)



弥生中期後半から北側に拡張し、中期末から後期初頭にかけて南北約270m東西約200mの大規模な環濠集落(右図のSD1は幅3m、深さ約1.5m前後の逆台形断面の溝)となっていた。潟湖を形成していた北西側は環濠が途切れている。環濠の東側に一か所だけ陸橋が作られ、出入り口となっていた(図1のJ地区)。東側には水田が広がっていたようだ。

弥生時代の対外交易だが、弥生中期中頃まで半島南部の勒島に弥生系土器が集中していたが、楽浪郡が設置される紀元前108年以降の弥生中期末から後期後半にかけて伊都国・原の辻(壱岐)を経由する対外交易に変わった(注1)。つまり、奴国大王が倭国側の対外交渉の窓口として伊都国王をあて、今宿五郎江・大塚遺跡を対外交易センターとして交易を管理するようになったのだ。それによって弥生時代中期後半の伊都国王墓に、奴国大王と張り合うくらいの豪華な副葬品が見られるようになるのだ。伊都国王が「魏志倭人伝」に出てくる政治権力を持つ刺史のような役割の一大率だったと考えると納得できる。

楽浪郡と倭国の交易が盛んにおこなわれるようになり、57年後漢光武帝が奴国大王に金印を贈って倭国王に封じ、華僑の商売を保証させたということだ。後漢の外交使節や華僑が乗り込む構造船を今津の北側の外洋側に停泊させ、今津湾から潟湖を通って丸木舟で下賜品や交易品を運んだようだ。

しかし、2世紀初頭(後期前半)に奴国の宮中楽師の師升らがクーデターを起こし、奴国の時代が終わった。新たに倭国王となった師升は、上述のとおり対外交渉に便利な伊都国を倭国の都とし、井原地区に王墓を造ったと考えられる。

師升王はさらに今宿五郎江・大塚遺跡を対外交易だけでなく、倭国内の産品の交易センターに拡大したと考えられる。というのも奴国の隣の不弥国(うみこく、新宮町から宗像市までの玄界灘沿岸地域に比定)から東側は師升王の倭国とは敵対関係になったからだ。だからその時代に伊都国に持ち込まれる交易品は九州西部・南部・沖縄などのものだったはずだ。弥生後期から終末期の外来土器がたくさん出土しているが、後期の肥前型器台がこの時期かもしれない(大塚遺跡6、福岡市埋蔵文化財調査報告書1185、2013年、p.124)。そこで環濠集落の外にも集落群を建設して(青木遺跡・谷遺跡など)、この地区が都市に発展したのもこの時期ではないかと考えている。

「魏志倭人伝」にあるように師升王から7・80年は一族が伊都国で王として倭国を支配していたが、後漢王朝の内部抗争の影響で半島支配が弱まり、濊人・韓人が暴れたので、楽浪郡と倭との交易に支障が出た。すでにクーデターを逃れて出雲・吉備などで力を付けていた旧奴国王族がこの頃に倭国と抗争を始めた。第一次倭国大乱だ。

この大乱で最も活躍したのはスサノヲ直系の狗古智卑狗(ククチヒコ)だった。スサノヲの子イタケルから直系の出雲・丹波王が代々ククチヒコと名乗ったようだが、その配下の縄文系ムナカタ海人族を使い、半島南部の鉄素材を沖ノ島経由で入手して鉄製の武器や農工具などを作り、旧奴国王族に配布していた。勢力を蓄え、師升一族の倭国に対抗できるまでになったようだ。倭国の南側の菊池に軍事拠点として鍛冶工房の集落を造り、鉄鏃を大量に作って筑後川周辺の倭国の領域を荒らしたものと考えている。開発したククチヒコの名に因み「菊池」という地名となったのだと思う。

その後、遼東太守公孫氏が半島に進出して混乱を収め、204年に帯方郡を設置して倭国との交易が正常化したと考えられる。そこで勢いを取り戻した倭国王である伊都国の男王は、旧奴国王族の勢力拡大を抑えるために不弥国(うみこく)のムナカタ海人族を懐柔し、野麻国(やまこく、宇佐市安心院町下毛字三柱山「三女神社」)に疎開していたムナカタの姫巫女「卑弥呼」を女王に立てた。それによって、九州東部から中国西部・四国を含む領域が倭国に加わった。敵対する東側の旧奴国王族へ鉄素材供給を阻止した。

そこで狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟で吉備を平定し奴国大王位を継承した天照大神尊ニギハヤヒの直系の大王)が纏向に旧奴国王族を集め、政治都市を建設した。各地の首長クラスが集まり、倭国懲伏の祈祷を盛んに行って倭国攻略の軍議をしていた模様だ。大型建物が見つかっている(【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!)。

238年に公孫氏が魏に滅ぼされた。魏はライバルの呉に圧力を加えるために東夷の大国である倭国の朝貢を促した。政治の実権を握っていた伊都国男王は魏を後ろ盾として倭国を統治するため、早速、大夫難升米らを派遣した(孫栄健さんは「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎 2018,pp.300-302)で難升米と伊都国男王は同一人物だと指摘しているが、そうかもしれないね(^_-)-☆)。魏は親魏倭王の金印などを女王卑弥呼に与えた。男王は魏の朝廷の興味を惹くために、魏使梯儁には、邪馬台国を呉の東方海上に置くためのつじつま合わせの行程を教えたのだろうね(【新説】邪馬台国はここだ!)(^_-)-☆

男王の策略どおり魏との外交は大成功だった。伊都国の男王は女王に逆らうヤマトの旧奴国の勢力をバカにして犬コロの奴国の意味の「狗奴国」と呼んだのだ。卑弥呼が鬼道によって倭国を統治する女王と考える方が多いようだが、実際はシャーマンとして太陽神のお告げを男王に伝える巫女なのだ。これも魏の朝廷の興味を惹くために女王という肩書を男王が魏使に報告させたものと推理できる(注3)。

チョットおさらいが長くなったが、ヤマトがようやく倭国追討軍を送るころ、247年の日食で卑弥呼が殺された。狗奴国の倭国追討軍の構成は纏向の外来土器の分布から、尾張王が主将で、出雲・丹波や近江・北陸の勢力が中心のようだ。卑弥呼の後に尾張王が倭国王に立ったのだが、出雲・丹波王ククチヒコらが承服せず、内戦になって千人くらいが死んだ。結局ククチヒコが尾張王を殺し、ムナカタ族の姫巫女で13歳の台与を女王に立て、倭国を治めた。ククチヒコは邪馬台国連合倭国に加えて日本海沿岸部などを版図にしたので、後世「大国主」と呼ばれたのだ。大塚遺跡の外来土器に山陰系の土器などが数多く見られるのはこの頃のことだろう。

265年に魏王朝を乗っ取った司馬懿の孫の司馬炎が晋を建国した。すかさず台与は朝貢し、後ろ盾とした。狗奴国ヤマトはこのままでは倭国に呑みこまれるので、恐らく呉を後ろ盾としたのではないかと考えられる(呉が魏についた倭国と対抗する勢力を味方にしようと活動していた記録があり、その頃作られた呉鏡も近畿以東で見つかっている)。ククチヒコ・台与の裏切りと尾張王殺害の復讐で再度倭国に追討軍を送ることになる。鳥取の大量虐殺事件はこの時期に起こったのだ(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。

倭国追討軍を二手に分けた模様で、尾張勢が大分方面から攻め、河内・播磨などのヤマト勢は玄界灘沿岸部から攻撃した模様だ。尾張勢は豊後大野で待ち構えていたククチヒコ軍に撃退され、西都原に南下して人吉から島原半島南部・阿蘇・菊池を攻略し、最終的に高良山に立て籠もるククチヒコが戦死した。恐らく、高齢の父の大国主ククチヒコと共に戦っていた台与との間の子ホムダワケ(250年頃に生まれたから280年頃応神天皇として即位したのが30才くらい。台与が西晋に朝貢したのが266年だから16才から30才の間だ。)は有明海から小舟で南九州に逃亡したのだと関裕二さんは推理している。さらに多分台与が立て籠もっていた吉野ヶ里が尾張勢に陥落させられそうになったので、台与は背振山を越えて今宿五郎江に逃げて立て籠もったのではないかな。しかし、ヤマト勢が押し寄せて、ここも陥落し、台与も戦死した。ホムダワケも台与と同行していて、台与が亡くなったので小舟で脱出したのかも知れない。

ついつい想像を逞しくしてしまったが、図1の今宿五郎江・谷遺跡で銅鏃が出土した地区記号を赤枠で囲った。弥生後期の北部九州や日本海沿岸部などは比較的鉄が豊富なので戦闘用には鉄鏃を使用していると考えられる(注7)。なので、そこで出土する銅鏃は外来(東部瀬戸内・近畿・東海)のものだと推理できるのだ。大塚遺跡の図2Ⅳ地点でも鉄の鍛冶工房が見つかっている(森本幹彦「今宿五郎江・大塚遺跡」[西谷正編「伊都国の研究」]学生社,2012,p.226)。また銅鏃は溝やその付近から出土しているので外部の敵が矢を打ち込んできた戦闘の痕跡と考えてよいと思う。

ということで東側から河内などのヤマト勢が押し寄せた痕跡が図1のJ地区の環濠で出土した柳葉型有茎銅鏃だ((注4)に示す大阪市平野区長原遺跡、橿原市四分遺跡、姫路市長越遺跡出土の銅鏃に似ている)。図1のI地区の環濠からは吉備物部勢(倉敷市上東遺跡出土の逆刺型)や河内物部勢(八尾市亀井遺跡出土)と思われるものなどが15本も出土しているのだ。外来土器についても前述のとおり、弥生後期後半から終末期の近畿西部系の器台や古墳時代初頭の布留式系の甕などが出土しているのでこの時期にヤマト勢が押し寄せた証拠になると思う。



環濠の外側の図2のⅡ地点の「遺構の時期は弥生終末期前後を中心とする。ⅢからⅣ地点の集落域も当該期に成立するものである。環濠の埋没が進む弥生終末期前後には中心集落域の拡大(Ⅰ・Ⅱ地点)と、分村(周辺集落)の増加(Ⅲ~Ⅳ地点)がみられるのである。これらは古墳時代前期前半を最後に一度衰滅するが、その背景には列島規模での拠点集落の再編を指摘するむきもある。(森本幹彦,前掲書,pp.220-221)

この第三次倭国大乱で、ほぼ100年続いた日本建国に関わる騒乱の時代が終了した。ヤマト勢の吉備または河内の物部氏が北部九州を占領支配したために、多くの拠点集落の再編が起こったと考えられるのだ(注5)

これによって伊都国の対外交渉窓口・対外交易センターが閉鎖されて、代わりに東側の西新町遺跡を新たに対外交易センターとした模様だ。福岡市早良区の砂丘上にあり、弥生時代前期から人々が生活していたのだが、3世紀後半から4世紀初頭の古墳時代前期の半島から渡来した人々の集落跡が見つかっている。半島系特有の両側に耳が付いた甕などの土器が出土している。またそれまで日本にはなかった『食事のための煮炊きをしたり暖をとったりするための「炉」や「カマド」竈(かまど)』のある住居跡が見つかっている(注6)。

では、なぜ伊都国をそのまま対外交易センターに使わなかったのだろうか?

一応、謎じゃないのかな?

博多に近い方に移した方が便利だから?

ブッブ~

やはりニギハヤヒを祖とする物部氏が作ったヤマト政権にとって、伊都国は恨みのある裏切り者の元楽師「師升」が都とした地域だから、縁起が悪いと考えたからだろうか?

それもあるかもしれないが、本当は怖い七福神の謎(;一_一)で推理したとおり、やはりヤマト政権が神功皇后台与を殺してしまった事実は当時のヤマトの人々にとって大きな心のキズとなり、精神的な負担になったようなのだ。つまり高貴な方が恨みを持って亡くなったら祟ると考えたからだ。それによって地震や津波や火山噴火や台風や疫病などが起こると当時の人々は考えた。台与は平原王墓に手厚く葬られ、台与の亡くなった伊都国から離れた場所に対外交易センターをつくったのだと考えられるのだ。そういえば戦死した大国主ククチヒコにもピラミッド状の立派な祇園山古墳が造られ丁重に葬られた。後に筑後国一之宮高良大社が創建されいている。祭神を高良玉垂大神としているが、地名が久留米市御井=「巳(ミイ)」だから大国主大神だとすぐに分かる。しかし、殺した敵の大将をこれ程丁重に扱う国は日本以外で他にあるのだろうか?

現代人はそんなの迷信だと言うかもしれないが、天罰を怖れていた古代の人々の方が、怖いもの無しの占領憲法で汚染された無神論の日本人よりも人間としてはまともですよね。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆




(注1)石丸あゆみ「朝鮮半島出土弥生土器から復元する日韓交渉」東大考古学紀要(25),(2011,p.65)によれば、「この時期に原ノ辻が交易の拠点となり環濠集落が成立する。勒島においてもこの時期に弥生土器が最も多い。」

久住猛雄『「博多湾貿易」の成立と解体・再編』第20回加耶史国際会議 金官加耶の国際交流と外来系遺物,2014,p.5 によれば「中期末以降に楽浪人が三雲遺跡群(伊都国)に居住し、「政治的な交渉」が行われたことを指摘する。→「原の辻=三雲貿易」(久住2004)へ。
「「原の辻貿易」ではおもに北部九州の倭人が活躍し・・・瀬戸内・畿内への物資のもある程度制御していた」
→後期も楽浪土器・三韓土器がともに多い原の辻が「交易機構」の中心とするが、楽浪土器は北部九州に徐々に広がることに注意する(逆に三韓土器は広がらない)。また楽浪土器の機種変化にも注意。後期後半には楽浪との交渉が政治主体から交易主体に変化した可能性を指摘。さらに、楽浪人は西日本の交易機構に大きな変革を迫ることなく、・・・・それを利用することで交易を」成立させたとした。」

後期後半は第一次倭国大乱の時期なので、伊都国男王が交易をコントロールできていないことを言っているのだろう。この混乱の時期でも華僑は列島と交易していたということか?

(注2)帯方郡との交易で勢力を盛り返した伊都国男王が菊池を攻めて、ククチヒコが戦死したのではないかと考えている。これに動揺した九州東部のムナカタ海人族が伊都国男王に懐柔されたのではないかと思う。このククチヒコは大国主の先代だが。

(注3)西晋の官吏陳寿に「魏志倭人伝」の中で邪馬台国へのいい加減な行程記事を書かせたのは、邪馬台国が江南の呉を圧迫する東方海上に位置に在るとしたいためのつじつま合わせなのだ。魏使にそのような報告書を書かせたのは、元々は伊都国の男王だったと見ていい(詳しいことはシリーズ【新説】邪馬台国はここだ!(その1~5),シリーズ 邪馬台国 水行陸行の謎?(その1~6最終回)を参照)。

2世紀初頭に奴国の宮廷楽師師升らがクーデターを起こし、第18代国王素戔烏尊(スサノヲノミコト)を殺して倭国を乗っ取り、奴国王に替わって支配権を得たことを後漢に承認してもらうために107年に朝貢したものと推理している。

「魏志倭人伝」に「其(そ)の国、本亦(ま)た男子を以って王と為す。住(とど)まるところ七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴(へ)たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰(い)う。」と書かれたが、年代を考えると范曄の「後漢書」原本に書かれたと思われる師升王の「倭面土国」は「倭の回土(ヱト、weitu)国=伊都国」が正解だったようだ。つまり伊都国男王は師升王の後裔と言うことになる。

(注4)銅鏃の型式分類


(注5)527年ヤマト王権に反抗した筑紫の磐井は千年村プロジェクト岡山県に磐井郡磐井郷の地名があることからこの時期に筑紫を占領した吉備出身の物部一族だと思う。岡山市北区三門に祭神を大国主命とする國神社があり、そこの氏子が岩井だった。厳井という地名も使われているようだ。その東の方の備前市麻宇那にかわいい磐井神社が祇園神社とペアで並んでいた。祇園神社の祭神はスサノヲだが、大国主の墓が祇園山古墳だったのなら真の祭神はスサノヲ直系の大国主だったのかも。とすれば、大国主ククチヒコを殺したのは吉備物部の磐井一族だったのではないだろうか?ちょっと古代妄想気味かな?でも、吉備の磐井郡磐井郷はどちらかだろうね(^_-)-☆

(注6)渡来人ということで通説では韓国人またはその先祖と考えているようだが、前にも指摘したとおり間違いだ。半島南部は江南出身の倭人・越人や列島出身の縄文人が支配していたので、彼らが列島に渡来して外来文化を伝えたと考えられる。倭人の言葉を話さない韓人・濊人が日本に渡来して文化を伝えたとは考えにくいからだ。現代韓国人の男性のルーツだが、Y染色体DNAから、8割以上が中国大陸由来の人々でありシナ語を話していた(秦の圧政から逃亡した陝西語を話す人々やその後の大陸の戦争難民だろう)。韓国人が祖国の英雄と考えている広開土王などのツングース系北方アジア人をルーツとする男性は1割以下しかなく、ほとんどの男性が中国大陸由来なのだ(半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆

(注7)井尻B遺跡出土の銅鏃鋳型について、 青銅器鎔范残欠(井尻B遺跡出土)に記載されているが、戦闘用の銅鏃としてはサイズが大き過ぎて実用的でないようなので、祭祀用ではないかと考えられる。

また、この頃の銅鏃鋳型の出土例が全国で5例しかないとあるが、すべて奴国の領域で在ることを考え合わせると、奴国の領域以外の戦闘用などの実用品として使用する銅鏃の鋳型はほとんど(注4)25に示される連鋳式になっていたので、製造のたびに鋳型を破壊して取り出していたのではないかな(^_-)-☆

なお、夜須町ヒルハタ遺跡の鋳型は一枚の石に5面それぞれ別の鋳型が彫られている極めて特殊なものだった。五面鋳型解説によれば、銅鏃は2個連鋳式だし、戦闘用に作ったものではないようだね(*^▽^*)

さらにネットで調査したところ、以下のとおり鳥栖市・藤木古墳で銅鏃鋳型が見つかっていたが詳細は不明だ。
鳥栖市・藤木遺跡 弥生時代後期の青銅器の鋳型出土
2014-06-12 04:54:43


 鳥栖市教委は6日、同市藤木町の藤木遺跡から弥生時代後期(西暦50~100年)の小型青銅器をつくる石製鋳型4点が出土したと発表した。
 ①輪型の銅釧用鋳型(破片) 1点 (福岡県など3府県で出土例がある)
 ②ほぼ完全形の銅鏃用鋳型 2点 (福岡県で出土例がある。 1点は祭祀用の矢じりか)
 ③装身具の銅釦(どうこう)用の鋳型 1点 (全国初)



【付録】日本列島の土器編年併行関係表と年表

(左クリックで拡大)


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