刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「邪馬台国はどこか?」へコメント(その1)

2019-07-29 01:23:03 | 古代史
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 続倭人伝 邪馬台国はどこか?
この記事の目次

魏志倭人伝の里数と日程
近畿説「大宮殿が発見された纒向遺跡」
九州説で主張される主な7つの根拠
女王がいた「伊都国」最大の銅鏡が出土
九州王朝説「倭の五王は九州にあり」
熊本は狗奴国か?それとも、、、
出雲説「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」
吉備王国こそが邪馬台国
邪馬台国発見のカギは?
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読者からのコメント


刮目天 一(はじめ) | 2019年2月6日 at 7:12 PM REPLY ↓
多くの有用な情報をありがとうございます。
邪馬台国の位置問題を「魏志倭人伝」だけで解決するのは無理だという証明が皆さんによってなされたと思います。何故なら、「魏志倭人伝」はこてこての政治文書ですから、邪馬台国への行程記事は置きたい場所に置くためのつじつま合わせです。倭国の政治の実権を握っていた伊都国男王の策略だったのですが、魏の実力者司馬懿や部下の帯方郡太守らの事情や陳寿の作成目的を考えずに、いくら自説に都合の良い解釈しても真実から離れるばかりでしょう(^_-)-☆
実は、女王国に対する政治的思惑のない范曄が「後漢書 東夷列伝倭人の条」に残した「自女王国東度海千餘里至狗奴國」(女王国から東に海を渡ると千里余り=約450kmで狗奴国に至る)という記述を信じると、後は考古学などによって狗奴国を特定すれば、全ての謎が氷解しますよ(*^▽^*)
「正史」は「かくあるべし」の理念で書かれた編纂当時の権力者にとって都合の良い歴史でしかなく、不都合な事実は隠ぺいされて真相は抹殺されているという真理に気付けば、何が事実でどこがウソかを科学的に推理して全て解決ですよ(*^▽^*)
詳しくは刮目天の古代史にどうぞ!https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20190205

匿名 | 2019年3月6日 at 9:56 AM REPLY ↓
次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…

漢書で「百余国」とあり、それを受けて三国志東夷伝で「旧百余国。今使訳通ずる処三十国」とあるわけで
混乱期の短命王朝であった魏が、同じく「大いに乱れ」た倭の全ての国と通商関係を結べていなかったというのが自然な読み方だと思われます。
では残り70国はどこにあるのか、が問題になるかと思うのですが、これは「使訳通ずる処」の更に向こうであるのがわかります。
つまり魏から見た場合一大国から近場の辺り、女王国に服属しているらしい範囲が外交圏で、そこから外についてはせいぜい、当時の女王国の主敵である「狗奴国」が出てくるくらいで全く不明。
これは変な気もしますが、陳寿さんの立場とすれば前王朝の残した数十年前の外交資料をひっくり返して、そこに書いてあることを要約しているわけですから、仕方がないのかもしれません。
なお、例えば女王国の首府が畿内にあり、一大国=壱岐から畿内までを丸々版図としていたとすれば、前漢の時代に確認されていた70余ヵ国はその更に外側、関東や北陸、九州南部ということになります。
女王国は九州にあり、版図自体も九州の一部から大部分だったとした方が、単純な数量的には妥当な気がしますが、断定はできないですね。


刮目天 | 2019年7月28日 at 11:00 PM REPLY ↓ Your comment is awaiting moderation.
>次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…

カオスになっているのは本当ですが、その理由は簡単ですよ(^_-)-☆
陳寿たち関係者は邪馬台国が呉を圧迫する会稽郡東冶県の東の海上に在ったことにしたいので、誰かが考えたつじつま合わせを基に邪馬台国へのデタラメな行程記事が書かれているからですよ。多くの研究者が、それに気づかずに、自説の都合の良いように行程記事を解釈し、ほとんど自説に不都合な記述は説明抜きで無視する厚かましさから起こっているのです(;一_一)

匿名の方に反論するのもどうかと考えましたが、陰謀史観という一言で取るに足らない荒唐無稽な説のように誹謗したので一応反論しておきますね( ^)o(^ )

ご自分で陰謀史観と言っておきながら「陳寿さんの立場とすれば」と書き、それでいて陳寿の立場がどういうものか、編纂の真の目的も理解していないようなので簡単に説明しておきます(^◇^)

陳寿は当時の西晋の実力者である張華に引き立ててもらった人物で、張華の顔を立てるために「三国志」を編纂したのですが、一番書きたかったのが西晋の宣帝(魏の司馬懿)の功績を持ち上げるための「魏志倭人伝」だったのです。倭国は238年に大夫難升米らを使者として帯方郡に送りましたが、魏からの返礼が親魏倭王の金印紫綬などであり、当時皇帝の補佐役だった司馬懿が書かせた詔勅の全文が「魏志倭人伝」に書かれているから熱の入れ方が分かります。「三国志」を正史にしたのは張華の力だったと、このあたりの事情は東洋史家の岡田英弘さんの「日本史の誕生」(弓立舎)に詳しいですので、是非お読みください。

陳寿は倭国のことを二人の魏使の報告書に基づき書いているのですが、倭人の風俗は海南島あたりの越人のものと変わらないとしているのは、邪馬台国のあるべき位置を強調するためだと推理できます。さらに、実際の邪馬台国の位置と違う位置に置いた発案者は、魏を後ろ盾にして敵対勢力を抑えたい伊都国の男王だと推理しました。互いに敵対するどういう勢力が女王を共立して和解したのかも説得力のある説はいまだに出ていませんが、卑弥呼は権力を持った女王ではなく、巫女(シャーマン)であって、太陽神のお告げによって実権を持つ男王(=男弟)が政治を行う形態で、シナの目を引くために卑弥呼を女王だと記載したものと推理しています。その他、通説には誤解が幾つかありますが、「日本は古の倭の奴国」という「新唐書」・「宋史」の記述を仮説として、科学的に推論を重ねて日本建国の真相を明らかにしました。もちろん邪馬台国の真の場所も卑弥呼の墓も発見しました。詳しくは拙ブログでどうぞ。

繰り返しますが、科学文献ではない古代の正史に隠された真の編纂目的を考えずに、いくら文章を解釈しても正解にはたどり着けないですよ。これは「日本書紀」なども同様ですが、普通の権力者はその権力の正統性を主張し、将来に渡って子孫が権力を維持するために正史を編纂する訳ですから、不都合な真実は隠ぺいし、歴史を改ざんし、真実に基づいた内容も歪曲されるものと考えない方がどうかしてますね(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

編纂の真の目的を推理し、考古学や民俗学や正史に矛盾する伝承などを頼りに記述の真偽を判定する検証と推論によって、ようやく真相が解明されるのですよ(^_-)-☆




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