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日本の歴史の始まりはこうだ(その1)

2020-09-18 18:06:22 | 古代史
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2019-02-05 12:23:00 に掲載した記事「日本建国の真相はこれだ!」を充実させて改訂します。歴史とは文字で残された史料に基づき書かれるものです。「宋史 王年代紀」に奴国歴代王名が記されていましたが、従来、それが全く無視されて神代の話として日本の歴史のはじまりがハッキリしませんでした。残念ながら即位の順のみが書かれているだけですので、ほぼ均等に年代を割り当てましたから年代は目安でしかありませんが、漠然とした神代の話ではない実在人物の話であることが重要だと思います。疑問点がございましたらコメントを頂けると幸いです。ヤマト王権が成立する日本建国まで数回に分けて掲載する予定です。最後までどうぞよろしくお願いします。(*^^)v


紀元前十一世紀頃、朝鮮半島南部において江南の呉の人々が水田稲作を始めました(半島の古代史だ!(漢四郡まで)。日本列島は少し遅れて紀元前十世紀後半ころ、唐津市菜畑遺跡や福岡市板付遺跡などで水田稲作が行われるようになり弥生時代が始まりました。大陸系の石包丁や灌漑施設が見られるようになります。水田稲作をもたらしたこの時代の人々をシナ人(Y染色体DNAハプロタイプO2旧O3)は倭人(殷(商)人系O1b2旧O2bから派生したO-47z)と呼びましたが、すでに日本列島でおよそ一万五千年前から始まった日本固有の文明を作った縄文系の人々(D1a2旧D1b:D-M55等) と徐々に混血して日本(大和)民族が形成されるようになります(半島人はシナに任せろ!)。

この頃日本で最古の鉄が福岡県二丈町曲り田遺跡で見つかっています。 日本列島でこれまで確認されている製鉄遺跡は六世紀後半ですので、それ以前の鉄はすべて外来のものだとあります(藤尾慎一郎「AMS-炭 素14年代測定法が明らかにした日本の鉄の歴史」鉄と鋼Tetsu-to-HaganeVol. 91 (2005) No. 1、しかし、すでに「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」で見たとおり、少量ですが褐鉄鉱(リモナイト)から鉄器を作った可能性もあります)。「弥生早期から前期までの間に属すると報 告されている鉄器はわずか30数点に過ぎない 。九州北部の遺跡から実際に大量の鉄器が見つかるようになるのは前期末~中期初頭になってからである。」とあり、したがって本格的な鉄器の普及は前期末~中期初頭つまり紀元前400~350年ごろだと同論文に述べられています。

紀元前473年に滅んだ春秋の呉の王族の一部が半島南部に逃亡し、倭人に助けられて生活していた模様です。おそらく、紀元前四世紀初頭(弥生中期初頭)に東アジアの寒冷化が厳しくなったことで、呉王族は一部の倭人を伴い南下し、福岡市早良平野の吉武高木遺跡に移住したようです。

「日本書紀」・「古事記」に登場する高天原の最初の神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。「新唐書」・「宋史」の王年代紀によれば、倭国の初代王は天御中主です。天(あめ)は倭王の姓です。江南の呉の人々は稲作と漁労の海洋民族ですので、「海(あま)」を意味します。これは後のヤマトの大王(おおきみ)の姓と同じです(注1)。御中主はナーガ(龍蛇神)を信奉する海洋民の主人(あるじ)の意味ですから奴国(ナーガ)国王と言う意味です。那珂、那賀などという地名も同じものです。

これらの歴史書には日本は古(いにしえ)の倭の奴国だと書かれています。第二十三代目の奴国王彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)まで代々「尊(みこと)」の号を持ち筑紫日向宮を都として筑紫城に住んだとあります。彦瀲尊の第四子が神武天皇と号し、大和州橿原宮に居すとありますから、ヤマトの大王(天皇)はもとは奴国王だということでした(注2)。吉武高木遺跡の日本最古の王墓から三種の神器も出土しています。満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している遼寧式銅剣やその他の武器型青銅器(矛・剣・戈)が半島南部を経由して北部九州に運ばれるようになります。天御中主が殷や周で行われた祭祀を行うようになったためです。


吉武高木遺跡「最古の王墓」3号木棺墓の副葬品(やよいの風公園より)


紀元前三世紀(弥生中期中頃)に福岡平野に勢力を伸ばして須玖岡本遺跡に王宮を遷し、比恵・那珂遺跡群に都市を建設しました。第四代天彌聞尊(あめのににぎのみこと)の時代のことでしょう。倭の海人(安曇族)や縄文海人(ムナカタ族)らが列島各地の産品を持ち寄り交易をおこないました。糸島市に奴国王の一族の有力者を伊都国王として配置し、今宿五郎江・大塚遺跡に華僑との 対外交易センターを置いて、交易を管理することによって倭国は隆盛になりました(【検証9】奴国時代の話(その2)

前210年頃には(弥生中期後葉)、徐福を招き、徐福に同行した冶金技術者を須玖遺跡群に集めて青銅器の官営工場を造り、青銅器文化を発展させ、列島に拡大させていきました。同行した楽師を王宮に呼び寄せて「聞く銅鐸」を用いて祭祀を整えた模様です。第七代萬魂尊(よろずむすひのみこと)から第九代國狭槌尊(くにさづちのみこと)の時代でしょう。柳田康雄「沖ノ島出土銅矛と青銅器祭祀」によると、祭祀に使う銅矛は最も神聖なものとして管理された模様で、奴国王から北部九州の奴国王族などに配布されています。細剣や銅戈は山陰や近畿地方などの縄文系部族の首長層に威信財として配られた模様です。この頃が奴国の全盛期だったことが須玖岡本遺跡D地点の巨石下甕棺墓に葬られた奴国大王の豪華な副葬品からも分かります。「日本書紀」「古事記」に神代七代の最初の神として現れる第十三代国常立尊(くにのとこたちのみこと)の時代でしょう。

紀元後(中期末)になると、北部九州では穂摘具を除いて石器から鉄器に変わります。しかし、近畿地方に鉄器が普及するのはまだ先で、二世紀頃(後期後半)のようです(藤尾慎一郎「弥生時代って、どんな時代だったのか?」朝倉書店2017、p.59)。

西暦57年(後期前葉)には華僑の権益保護を奴国王に依頼するために後漢光武帝が「漢委奴国王」の金印を奴国王に与えました。第十六代沫名杵尊(あわなぎのみこと)の時代でしょう。恐らく、伊都国の対外交易センターで華僑が入手したい物品を倭人に依頼し、倭人は列島内の産品を比恵・那珂遺跡の交易センターまで行って目的の物品を入手していたのだと考えられます。華僑を直接交易センターまで行かせなかったのは防疫が目的だったようです。現代の日本よりも古代の方が国民を護る気持ちが強かったようですよ(´・ω・`)。華僑が倭人に渡した前金を持ち逃げされないように、奴国王が対外交易に責任を持つシステムだったようです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994、pp.106-108)比恵・那珂遺跡群には列島各地から多くの人々が集まり、当時日本で一番進んだ大都市が形成された模様です。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )

(注1)Wiki「大王 (ヤマト王権)」によれば、倭の五王「武」に比定されるワカタケル王(雄略天皇)については、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘に「獲加多支鹵大王」とあり、また熊本県の 江田船山古墳から出土した鉄刀の銘文には「治天下獲□□□鹵大王」とあることから、国内において治天下大王の称号を名乗っていたと推測され、この頃(5世紀後期)には治天下大王の称号が生まれたことを示唆している。とあります。さらに、「その他、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述されている開皇20年(600年)第1回遣隋使の上奏文に「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、俀王多利思北孤の号 「阿輩雞彌」(アハケミ)が「おおきみ」を表すと考えられている。大業3年(607年)第2回遣隋使の上表文(国書)には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、対外的には「天子」の称号が使われている。しかし、国内においては「大王」(おおきみ)、「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)号が使用されていたと考えられる。」とあります。七世紀後半の天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[9]Wiki「天皇」にあり、天(あめ)という姓が使われなくなったようです。

(注2)「日本書紀」に合せて、第十九代天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)から第二十三代彦瀲尊までの王名と神武天皇以降の天皇名が書かれていますが、実際は第十五代応神天皇が初代天皇(祭祀王)で、天照大神尊以降応神天皇までは架空の王または天皇だということが分かりました。詳しくは、順に述べていきます。

王年代記に記された二十三世の王(神)
1.天御中主(あめのみなかぬし)
2.天村雲尊(あめのむらくものみこと)
3.天八重雲尊(あめのやえくものみこと)
4.天弥聞尊(あめのににぎのみこと)
5.天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)
6.瞻波尊(みなみのみこと)
7.萬魂尊(よろずむすひのみこと)
8.利利魂尊(ととむすひのみこと)
9.國狭槌尊(くにさづちのみこと)
10.角龔魂尊(つのそむすひのみこと)
11.汲津丹尊(くみつにのみこと)
12.面垂見尊(おもだるみのみこと)
13.國常立尊(くにとこたちのみこと)
14.天鑑尊(あめのかがみのみこと)
15.天萬尊(あめのよろずのみこと)
16.沫名杵尊(あわなぎのみこと)
17.伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
18.素戔烏尊(すさのおのみこと)
19.天照大神尊 (あまてらすおおみかみのみこと)
20.正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)
21.天彦尊(あまつひこのみこと)
22.炎尊(ほむらのみこと)
23.彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)

(日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】より)


次回に続きます。
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2 コメント

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Unknown (jikan314)
2020-09-18 20:41:20
紀元前十一世紀頃、朝鮮半島南部において江南の呉の人々が水田稲作を始めました
と言う痕跡はありません。
極寒で畑作地帯の黄河流域の影響が大きい半島に定着してはいない。
稲のDNAでは、半島には長江流域とは異なる。
Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2020-09-18 21:06:15
コメントありがとうございます。
半島南部の水田稲作についてはすでに1994年に後藤直さんが発表されています。
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/e3819096b6e29c2b9c1a4f2c4937f494
に図入りで引用していますので是非ご覧ください。
半島北部や紀元前11世紀より前のイネの痕跡は縄文人による陸稲栽培です。
原遥平「徹底検証 日本古代史と考古学の謎」彩流社2001,p.76 の「民族移動と気候の関係」の図によれば、気候700年周期曲線に従って紀元前11世紀頃から寒冷化するのだと思いますが、紀元前8世紀中ころには温暖化し、紀元前5世紀ごろにまた寒冷化するようです。ですから紀元前11世紀の寒冷化前に半島の南部で水田稲作が始められたと考えられます。

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