刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ(^^)/

2021-11-16 15:47:29 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【付録】のとおり日本列島の土器編年併行関係と対応する暦年代(年表)の図を改訂しましたので、2020-05-24 10:28:04 に掲載した記事を大幅に修正しました。合わせて関連する図も修正しました。 前々回から久住猛雄「3世紀のチクシと三韓と倭国」によって検証しています(順次、改訂予定です)。少し専門用語が出て来て分かりにくいかも知れませんが、刮目天のような土器の素人でも分かる内容です。仮説の重要な検証ですので、もしも気が付かれた点があれば更なる解明に繋がりますので、遠慮なくお寄せ下さい。よろしくお願いします。(*^▽^*)

3.3世紀前半〜後半(弥生終末期新相/古墳早期〜古墳時代初頭)の北部九州と「狗奴国」の再検討
(1)奴国の台頭と博多遺跡群の鍛冶工房群
 「伊都国」の平原1号墓が、<初代>「卑弥呼」墓である可能性を示したが、その後の北部九州ではなぜか「奴国」が主体的勢力となる(久住 2004・2012b)。それを示すのがⅠB期新相築造の全長 85m の那珂八幡古墳である(図 23)。


すでに「卑弥呼の墓は見つかってるよ」で述べていますが、卑弥呼の墓は宇佐市安心院町三柱山の直径約150mの円墳です。方形周溝墓である平原1号墳は卑弥呼のものではなく女王台与が270年頃(ⅡB期新相)に戦死して葬られた墓です(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」)。

那珂八幡古墳の図23は【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?で示しましたが、纏向勝山古墳と驚くほどきれいな相似形なっています。



那珂八幡古墳は纏向型前方後円墳ですから狗奴国(纏向遺跡にあったヤマト王権の国、以下単に「ヤマト」とも記すが狗奴国のことです)の勢力が伊都国に侵入して台与を殺し、北部九州の倭国を占領した時期のヤマト勢のものだと分かります。大国主と台与を殺し、倭国を滅ぼして北部九州を占領したヤマトの将軍の墓としてⅡB~ⅡC期に築造されたものです。

 ⅠB期の比恵・那珂を中心とした福岡平野中枢部(博多、比恵・那珂、雀居)では、畿内大和中枢(纒向遺跡群周辺)の土器様相の影響を受け、真正の庄内甕を伴う「庄内式」(筆者の「C系統」)を受容し始める(久住 1999・2017)(図 25)。大和型庄内甕の技法系譜下にやや変容した「筑前型庄内甕」が作られ、普及し始める。ただしⅠB期では比恵も含めて在来系土器が優勢である。ⅡA期になり畿内系土器群が優勢になり、筑前型庄内甕を母胎に大和の「布留0式」甕(布留傾向甕B類)の影響を受け「北部九州型布留甕」が成立する(図 25)。



このように北部九州に畿内の土器が相当出ていますが、纏向には九州の土器がほとんど出土していません。 九州の勢力が大和に来たという神武東征や邪馬台国の東遷説は事実ではないとわかります。そして、纏向のヤマト王権が一方的に北部九州の倭国を攻め滅ぼしたとする刮目天の仮説を支持するものなのです。以下の文章に沿ってもう少し詳しく説明します。

このⅡA期までの分布は福岡平野の一部と筑前・筑後北部・肥前東部(佐賀平野の「夕ヶ里式古相」)での点的分布に留まる(久住 2017、蒲原宏行 2017)。畿内系土器群への変容を畿内勢力の「入植」や「征服」の証拠とする論者もいるが、たとえば比恵・那珂に多い井戸祭祀は庄内式の受容時期のⅠB期は伝統的な在来系壺主体であることや(ⅡA期に変化する)、比恵・那珂の首長墓への土器供献が、
①在来系主体+「B系統」少数(ⅠA期の比恵 120 次周溝墓)→
②在来系+畿内系(B・C系統)半々(ⅠB期古相の比恵 36 次周溝墓)(①②は図 16)→
③畿内系(B・C系統)主体+在来系少数(ⅠB期新相の比恵6次ほか比恵1号墳、那珂八幡古墳)→
④畿内系土器群(C・D系統)のみ(ⅡA期の那珂 62 次 SX028 周溝墓ほか)、
という段階を経ている事実をそうした説では説明しにくい。在地の文化変容とするのが穏当である(久住 1999・2005)。


下の年表の右にこれらを描き入れましたので、①~④について順に見て行きましょう。



①は卑弥呼が女王に擁立された時代です(実際に倭国を統治していたのは伊都国男王の難升米で、239年の魏への朝貢の際に政治的な理由から卑弥呼を対外的に女王としただけ。卑弥呼は倭国内では太陽神のお告げを伝える姫巫女で宇佐市安心院町三柱山が居城です)。「魏志倭人伝」に記された奴国の長官兕馬觚(しまこ)などの有力者の墓なので、ほとんど在来系土器が供献されています。少数の「B系統」ですが、畿内系の伝統的V様式の系統ということだとありました(次山淳「古墳出現期の社会と土器の移動」2014,p.27)。卑弥呼のムナカタ海人族は狗奴国を裏切って倭国側についたので、少数の畿内の人が卑弥呼側に加わったということだと思います。

②は倭国が魏に朝貢して強力な後ろ盾を得た時代で、国内外の交易センター(帯方郡との交易は伊都国、半島南部や列島内の交易は奴国)を整備した模様ですので、畿内の人々も交易にやって来る人が増えたようです。在来系の「A系統」と畿内の土器(「B系統」と「C系統(庄内式)」)が半々ということですから、畿内の人が「魏志倭人伝」にある奴国長官クラスの有力者に何らかの縁故があり、その葬儀に訪れたということを示しています。多分、奴国の長官は赤坂比古配下のムナカタ族だったので、そのつながりで畿内の人々の奴国への出入りを許可していたからでしょう。また、纏向の初期段階(関川1・2式)で阿波・讃岐の土器が出ていますが3式では見られませんので(注1)、交易センターにやって来て倭国側に将来性があるとみて狗奴国を見限ったものと思われます。

③は卑弥呼の死の直後に狗奴国ヤマトの倭国征討軍が到着し、在地系の人々が奴国から逃げたことを示しています。邪馬台国連合倭国が解体され、ヤマト勢が北部九州を占領し、征討軍の主将だった尾張王(仲哀天皇のモデル)が倭国王に立ったが、それに反発した山陰・北陸・近江勢や狗奴国大王に近い河内・吉備勢が大国主久々遅彦(狗古智卑狗)の軍勢に加わり内戦状態になり、かなりの人数が戦死しました(第二次倭国大乱)。尾張王も鳥栖市で殺されたと推理しました(「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」)。結局内戦に勝利した大国主が近江・北陸を支配する縄文海人ムナカタ族の姫巫女台与を女王に立てて倭国を支配したので、大国主に味方した河内や吉備の兵士が居たので、かなりの畿内系の土器が流入したということです。すでに、「【検証1】佐賀に近江の土器が?」/で見たように、近江の将軍が使用する手あぶり土器や近江・尾張が起源と考えられる前方後方墳の出現によって、この時期(ⅡA期)に近江や東海勢が北部九州に来たことは分かっていました。

写真は古墳時代初頭に持ち込まれたS字甕と呼ばれる土器です。東海地域にみられる口縁部が「S」字状に屈曲する脚台がつく煮炊き用の甕で、この時期に尾張勢が北部九州に来たことを示す貴重な証拠です(早野浩二「東海系土器を基軸とした東西広域編年の実際」『西相模考古学研究会・兵庫考古学談話会編「弥生時代の東西交流」六壹書房2020.5』 pp.199-204)。この時期の東海系土器は列島各地に移動していますので、「日本書紀」 崇神紀の四道将軍や景行紀の天皇九州遠征・日本武尊の遠征などの記事は、尾張勢が日本建国で中心的な役割を果たした史実から創作された作り話だということが分かります(注1の図参照、「【検証19】日本建国のための戦いだ!」)。

東海地方のS字甕 (福岡市埋蔵文化財センターより)


④は、さらにヤマト勢が大国主・台与の倭国を滅ぼした時期(ⅡA~B期)の話です。ヤマト勢が北部九州を完全に支配しました。ヤマト勢の将軍クラスの墓は前方後円墳です。方形周溝墓であればそれらの被葬者は大国主か台与の部下の将軍たちの墓でしょう。台与の平原1号墓も方形周溝墓でした。

以上の説明から、在地の文化変容が何故起こったのかについて、ヤマト勢が北部九州の倭国を滅ぼして支配下に入れたとする刮目天の仮説によって説明できました。さらに、久住氏により当時の鉄器生産などの以下のような重要な指摘がされてますので、仮説の検証を続けます。

 ⅠB期までの須玖岡本に「弥生系」青銅器の生産集中があるが、ⅠB期の中で終了する。その代わりに奴国の「基幹産業」となるのが鉄器生産である。弥生時代中期末以来、須玖岡本周辺で、レベルの高い鉄器生産が行われた可能性があり(鉄戈や剣類の製作など)、それに関連する工房遺跡があるが(赤井手、仁王手、須玖唐梨)、大規模で集約的な生産ではなかった。しかし、ⅡA期に始まる博多遺跡群での鍛冶は生産規模(工房範囲)が大きく(久住 2007、比佐陽一郎2010、次山淳 2015)、さらには断面蒲鉾形羽口を用いて原料鉄の精錬鍛冶も行ない、その推定生産量から古墳前期の各地鍛冶遺跡は「博多遺跡群経由の鉄素材への依存度も高かった」と評価される(村上恭通 2000)。

この時期は台与を女王に立てた大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が卑弥呼の倭国の版図に山陰・北陸・近江を加えた列島のほとんどの地域を支配した時代に該当します。大国主は半島南部からレベルの高い鍛冶製鉄の技術を取り入れ須玖岡本周辺で工房を造ったのだ。大分県大野川流域から熊本県阿蘇西山麓と菊池川流域で多数の鍛冶工房を作り鉄鏃などの武器を生産する軍事基地を維持し、狗奴国への備えとしました(「【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ」)。

「【検証11】定説の根拠を疑え」ですでに述べましたが、纏向勝山古墳で見つかったこの断面蒲鉾形羽口の破片ですが、270年頃(ⅡC期)ヤマト勢が北部九州を占領し、纏向に持ち帰ったものです。

「ヤマト政権」が「配布」したともされる古墳副葬品鉄器も、たとえば定角式鉄鏃については博多遺跡群で製作されている(久住 2007、比佐 2010)。定角A1・A2式、定角B式(川畑純 2014)、大型柳葉式、圭頭鏃は確実に生産し(図 26)、さらに大型砥石(50㎝長)の存在から刀剣類も生産された可能性がある。

おそらく古墳副葬品の鉄製品には、直接各地首長が博多の「市」で入手したものと、ヤマト政権(倭王権)が一括注文して、各地に再配分したものの両者があるだろう。

ⅡC期以後の話です。この頃に三角縁神獣鏡が作られて、ヤマトに従う地域の首長墓などに恭順の証として副葬させたのだと考えられます。だから景初三年と正始元年の紀年銘ある三角縁神獣鏡が見つかっていますが、ヤマト政権が卑弥呼を継承した倭国だと偽装するために作ったものだと考えています。つまり、纏向をヤマトと呼んだのと同じ理由からなのです(「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」)。

弥生終末期〜古墳前期に北部九州から中国四国地方に分布する「曲げた剣」は、畿内にはほとんど出土せず、その製作技術の高さ(村上恭通 1998)や、那珂(62 次、ⅠB期?)や博多(62 次、ⅡB期)での出土から、須玖岡本や博多での製作が考えられる。唐津の中原 SP13231(ⅠB期)にもこれがある。この場合、古墳前期も含めてヤマト政権が関与しない副葬鉄器の交易があり、おそらく「奴国」が基点となる首長間の贈与交換の存在は確実である。

これも上で述べたように、250年から270年頃(ⅡB期後半)、大国主がその支配下の地域の首長に与えたものでしょう。この時代は大国主が狗奴国(纏向ヤマト)を裏切って対立していたので纏向付近では出土しないはずです。狗奴国は西晋との交流は勿論ないですが、呉が後ろ盾になっていたと考えられます。呉の紀年銘の鏡が二面だけ見つかっています。

「三国志」には直接狗奴国と接触した記事はないですが、229年呉の皇帝となった孫権が翌年列島内の勢力を味方にしようと部下を派遣したが、失敗したので部下を処刑したという記事があります。ですから、その後狗奴国と呉が同盟していた可能性があります。一方、魏は正規軍の旗を倭国の大夫難升米に与えたわけですから、狗奴国をライバルの呉が支援する列島内の一大勢力と見ていたのでしょう。倭国と狗奴国の抗争は魏と呉から見ると代理戦争だったと考えられます。

 博多でⅡA期に始まる高度な鍛冶は、ⅡA期かその直前に新たに朝鮮半島からもたらされた新技術であるが(村上恭通 1998・2000)、その技術はすでに須玖岡本遺跡群で受容されていた可能性がある。

上述のとおりⅡB期後半に大国主が半島南部までも支配して、半島の製鉄技術を北部九州に導入していたが、270年頃(ⅡC期)にヤマト勢に大国主・台与の倭国が滅ぼされたので、畿内にそれがもたらされたということです。

なお次節で述べるが、「博多湾貿易」最盛期を象徴する西新町遺跡への韓半島系土器の集中と多数のカマド付住居の造営はⅡB期(≒布留0式新相)以降であり(ⅡA期のカマドはごく僅か)、博多の鍛冶工房群の開始が先行し、時系列的に捉える必要がある。

ヤマト勢が北部九州を占領した270年頃(ⅡC期)から、伊都国の対外交易センターが使われなくなって、福岡市の西新町遺跡に対外交易センターを遷したことは「【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?」)で説明しました。

これからもまだ細かい検証は続きますが、次回もよろしくお付き合いください。

【付録】日本列島の土器編年併行関係表と年表

(左クリックで拡大)

(注1)纏向の外来系土器を見ると1・2式の段階で西部瀬戸内となっているのが、正しくは阿波・讃岐とあります。しかも、今まで讃岐のものだったのが阿波のもので、阿波10点に対して讃岐は1点の割合とあります(石野博信「大和・纏向〔第三版〕」学生社2011,pp.468-470)。

(左クリックで拡大)

また、第二次・第三次倭国大乱期(250年ー280年)の纏向3式には阿波・讃岐と和歌山は全く消えているので、その前段階の卑弥呼が魏に最初に朝貢する239年頃にはすでに倭国側に寝返って247年の内戦で勝利した大国主の倭国にそのまま従ったと考えています。というのも、270年ころに尾張王オオタラシヒコオシロワケ(景行天皇)が九州遠征を行い大国主と台与を討ち取った後に、尾張勢は大和に戻り、倭国側についた諸国の遠征を行っていることが鉄鏃・銅族の出土状況から分かりました。


(左クリックで拡大)

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆


お疲れさまでした。最後までお付き合いありがとうございました。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。