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日本の歴史の始まりはこうだ(その2)

2020-09-20 10:34:32 | 古代史
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ここで、弥生時代を特徴づける古代の鉄については、幅広く相当深い情報がありますのでとても十分にまとめきれませんが、重要だと思う点についてまとめてみましょう。専門用語が出てくるので難しく感じるかもしれませんが、古代史の解明で特に大事なポイントですので、どうぞ最後までお付き合いください(^◇^)


弥生中期初頭「前4世紀前葉に可鍛鋳鉄系の鉄器が現れても200年ほどはノミ、刀子(とうす)などの小鉄器がほとんどで、その用途も木製品の細部加工に用いられるのが主で、開墾や大量の木材の加工に鉄器が用いられたわけではない。石器が主で鉄器が保管する関係が200年ほど続いたものと考えられる。
 なお、前3世紀(中期前半)になると北部九州に軟鉄系の鍛造鉄器が現れ始める。鉄器が本格的に使われるようになるのは九州北部でも前2世紀以降(中期後半)からである。まず武器では剣が鉄器化したことが、殺傷人骨の残された傷の痕からわかる。鉄の先端が骨にあたっても石剣や青銅剣のように切先が折れずに骨をえぐることができるため、殺傷能力が増したと思われる。」
とあります(藤尾慎一郎「弥生時代って、どんな時代だったのか?」朝倉書店2017、pp.84-85)。

更に、弥生中期に現れた奴国の大都市比恵・那珂遺跡では鉄製品が大量に見つかっており、「特に開墾用の鉄製鍬先の装着率が100%をほこり、これぞまさしく生産力を可能とした直接の証拠とされる鉄器(打鍬、鉄刃農具と呼ばれている)である。」とあり、前述のとおり北部九州では中期末に穂摘鎌を除いてすべて鉄器化するとあります(【検証9】奴国時代の話(その2))。

この時期から北部九州で板状鉄製品が見られますが、すでに述べたように半島南部からのものです。「朝鮮半島南部では前4世紀中頃から九州北部の弥生土器が出土するようになり、中には鍛冶遺構で見つかる場合もある。」とあり(藤尾p.68)、西日本で鉄器が現れる時期と一致しており、倭人が半島南部に渡って入手していたことを示しています。また前3~前2世紀(弥生中期中葉~末葉)には半島南部慶尚南道の勒島遺跡で高温鍛冶作業が行われ、鉄器の素材となる板状鉄製品を作られていたとあり、高温炉での精錬工程が存在した可能性もあると指摘されています。

北部九州では弥生中期末葉に竪穴遺構を工房とした鉄器生産が開始されており、さらにこの頃「誕生する鍛冶工人は、三韓人による直接技術指導を受けたとしても、その内容をそのまま厳密に維持することはできず、みずからの趣向を反映させた、いわば弥生的な鍛冶技術を生み出したこととなる。」と指摘されています(村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」青木書店2007,p.291)。しかし鉄戈に関しては、半島南部から招いた鍛冶工人によって長さ50cmほどの長いものまで後期初頭まで生産していたとあり、「鉄戈消滅の時期を境に、大陸からの生産技術の影響がなくなり、その後の北部九州は自力での維持ないしは変容を見せるしかなかった」と指摘されています(村上p.292)。

中期末葉ではまた、日本海沿岸部や瀬戸内海沿岸部などへ技術伝搬が起こり始めます(村上、p.293)。「ただし、日本海沿岸の人々が直接大陸におもむいたというのではなく、その交渉の舞台は北部九州にあったのだろう」と他の研究者の論文を引用しています(村上p.293)。しかし、日本海沿岸の縄文海人は日本列島周囲を活動範囲としており、勒島でも活動した形跡が見られるます(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)。縄文海人ムナカタ族が丹後半島の拠点集落(奈具岡遺跡)などへ鉄素材を運び、奴国の人々が鍛冶工房を営んだと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。松山平野や徳島平野などでも拠点集落では鉄器の保有量は豊富とあります(村上、p.294)。江南をルーツとする北部九州の海人アズミ族が朱を求めて立ち寄り、集落を営んだと考えられます。瀬戸内航路だけでなく四国の太平洋側の高知への航路も集落も、鉄器と共に中期後葉に見られる青銅祭器(中広形銅矛・中細形細剣)が出土していることからアズミ族が作ったと考えられます。

また中期末葉以降、日本海沿岸部を除く近畿以東の地方などでも出土するようになりますが、「鏨切り製鉄鏃、板状鉄斧、鉇(やりがんな)、鑿など扁平な製品が卓越し、それに鋳造鉄斧や重厚な板状鉄斧のような舶載鉄器が稀に加わる。また、農具の鉄器化は見られない」とあります(村上、p.97)。

弥生後期になると全国に普及していきますが、北部九州・中九州・東九州で出土する量が最も多く、次いで中国地方や北陸です。その他の地域と比べると圧倒的に多く、ヤマト王権の起こった奈良県ではほとんど見られませんので、土中で腐食してなくなったという「見えざる鉄」という説もあります。しかし、後でまた述べますが、ヤマト勢が鉄の流通を制限していた「北部九州から鉄の覇権を奪い取り、日本国家形成へと進んでいったとのシナリオが最近では 広く語られるようになってきた。」とあり(和鉄の道2011 1.「幻の鉄器の時代 鉄器は出土しないが、急速な鉄器化」との考えに疑問符)、本格的な鉄の普及は古墳時代に入ってからだというのが正しいと思います。

後漢末期(弥生後期後葉、二世紀後半)において「三国志 魏書東夷伝弁辰条」に「国は鉄を出(い)だし、韓・濊・倭皆従いて之を取る。諸(もろもろ)の市買(しばい)には皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如(ごと)くして、又以って二郡(楽浪・帯方郡)に供給す」とあります(藤堂明保等「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.85)。

「半島南部へ渡った倭人の積極的な鉄製品の入手活動があって、開放的であった弁辰側のマーケットの存在を示唆しているが、弁辰側が惜しみなく鉄を与えたわけでない。そして技術に対しては製鉄、精錬、鋳造、鍛造のいずれをとっても厳しく管理されていた。」とあります(村上p.293)。北部九州での弥生時代の鉄戈を除く鉄製品は、始まりのタイミングを考えると主として前210年頃来日した徐福に同行した青銅器の冶金技術者が、その後は主としてその弟子たちが鍛冶技術を継承して生産したと考えられます。

弥生後期の段階では専門技術者から教えられた一般の人々が鍛冶工房で働きだすと思われていますが、後で述べる倭国大乱期における熊本県北部の方保田東遺跡、西弥護免遺跡などの鉄鏃(鉄製の矢尻)を生産する遺跡は軍事拠点と考えられます(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚))。下図に示す淡路島の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)でも矢尻が多数出土していますので、生産者は兵士ではないでしょうか?



【参考記事】
鉄と鋼
弥生時代鍛冶工房に関する基礎論


次は日本民族が誕生するきっかけとなった国生み神話になります。
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