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狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆

2024-04-04 06:27:55 | 古代史
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#(注2)が間違ったままでしたので訂正しました。よろしくお願いいたします(*´Д`)
#2021-09-18 00:32:45に改訂しましたが、その後判明した日本誕生のカギを握る狗古智卑狗の系譜の大きな秘密について解明した記事を【関連記事】出雲・丹後王国の謎に追加します。よろしければ、お付き合いください(;^ω^)。

#すでに2019-09-14 14:14:20に記事にした「狗古智卑狗」について、その後の検証により明らかになったことを加えて、改訂します。最後まで、よろしくお願い致します。


出雲大社にある大国主の銅像

「魏志倭人伝」は西晋の史官陳寿によって二世紀末から三世紀前半の倭の様子を伝えられたものですので日本の古代史研究において第一級の貴重な史料です。その内容は倭国の地理と女王の住む邪馬台国への行程を記述する部分、当時の倭人の風俗などと、最終段の倭国と魏の外交交渉記録から構成されています。これらは、主として二人の魏使梯儁(ていしゅん、240年)と張政(ちょうせい、247年)の報告書や魚豢「魏略」(ぎょかん「ぎりゃく」)などの先行文献に基づくものと考えられます。

しかし報告書にあった邪馬台国の位置については、当時の魏のライバルであった呉を抑え込むために、戦略的に重要な意味がありました。倭国に朝貢させた当時の魏の実力者司馬懿(しばい、後に西晋宣帝の諡が贈られる)の功績が魏第一のものであると朝廷の人々に思わせる政治的な目的のために、邪馬台国への行程記事が事実とかなりかけ離れたものになっています。また、そのつじつま合わせから風俗記事にも中国南部の海南島付近と同じような風俗という文章も見られますが、最終段の倭国との外交交渉の内容についてはそれを改ざんする理由が特に見当たらないので史実とみてよいと思います。

つまり、卑弥呼の死(247年ころ)の後に「更めて男王が立つが、国中服せず。更に相誅殺す。当時、千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹(臺=台)与(注1)、年十三なるものを立てて王と爲す。国中遂に定まる。」は本当に起こった出来事と考えられます。

ここで景初三年(239年)六月に朝貢のために帯方郡へ訪れた大夫難升米には魏から正規軍の黄色い旗を授けられているので、倭国の軍事を預かる人物です。ですから難升米が卑弥呼の男弟であり、伊都国男王だと推理できます(詳しくは、「【検証22】難升米という人物は?(その1)(その3)」参照)。ですから元から倭国王でしたから改めて倭王に立った男王ではありません。

丁度その時期に北部九州で日没の頃に日食(伊都国では珍しい日没帯食)が見られ、狗奴国の軍勢が押し寄せる情報が難升米王に入った時期と重なります(当時の高地性集落はひとつには狼煙による情報伝達のために作られたと考えられます)。難升米王は、太陽神を祀る卑弥呼の不謹慎から起こった不吉な前兆と考えて、卑弥呼を暗殺したと推理しました。それによって倭国側についていた玄界灘を支配するムナカタ族は難升米王を見限って、北部九州に到着した狗奴国軍に降参したので、難升米王は逃亡し、倭国軍は壊滅したと考えられます。そこで狗奴国軍を率いた大将が狗奴国王を裏切って倭王に立ったので、狗奴国軍の内部で内戦になったと推理しました。

一方、現存する日本最古の正史「日本書記」は、壬申の乱(672年)で勝利した天武天皇が編纂を命じたのですが、その完成(720年)の約30年前にすでに崩御されています。時の権力者藤原不比等が、藤原氏にとって不都合な日本建国の真相を隠し、藤原氏の権力維持のために書き替えたと分かってきています。すでにほぼ完成していた内容をすべて削除して、全くねつ造したものを新たに創作することはかなり困難ですので、歴史の真相と思われる、すでに完成していた史実をベースに改ざんしたと考えられます。



上述の狗奴国軍の内戦の史実は、仲哀天皇の熊襲征伐の話に書き替えられたと関裕二氏が指摘しました。「日本書紀」の記述では、仲哀天皇は父親のヤマトタケルの死の38年後に生まれたことになります。それ故、父のヤマトタケルや祖父の景行天皇との関係も怪しく、仲哀天皇の話は真相を誤魔化すための歴史改ざんと見ていいと思います(注2)。

「日本書紀」の仲哀紀では、住吉大神の「熊襲を撃つよりも海の上に金銀などがある新羅を討て。わしを祀れば新羅は服従し、熊襲も従う」との神託を信じないために突然崩御されたとあります。卑弥呼の後に立った男王が仲哀天皇に対応します。その後卑弥呼の宗女で十三才の台与が女王に即位したわけですから、卑弥呼と同じムナカタ海人族の姫巫女の台与が神功皇后に対応すると考えられます。常に神功皇后に従う武内宿禰に対応する実在の人物が男王を討って台与を女王に立てたという推理です。

日本建国に関わる四人のキーパーソンとみられる人物(神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇)に対して「神」の文字が付く漢風諡号が八世紀に贈られています。当時の朝廷の人たちは日本建国の真相を大体知っていたと思われます。応神天皇と神武天皇は時代が全く異なりますが、どちらも九州からヤマトに乗り込み最終的に呪術を使って勝利し、ヤマトで天皇に即位するということですから、二人は同一人物と考えられます。「日本書紀」の編者が真相を誤魔化すために、初代天皇の話を時代の異なる二人の似たような話として作ったと考えられます。神武と応神の子供たちの内紛もそっくりの構図ですが、史実を誤魔化すためだと思います。詳しくは後日述べる予定です。

神武天皇が祀る皇祖神天照大御神ですが、記紀神話では高天原を支配するアマテラス女神としました。しかし、この女神は天武天皇の崩御後に優秀な皇子たちを追い落として皇位を奪った皇后鵜野讃良(うののさらら、持統天皇)の正統性を主張するために、実在の天照大神尊とすり替えたものなのです(持統の前の二人の女性天皇も前例を創作したものです)。本当の天照大神尊は、二世紀初頭に帥升(正しくは師升)ら宮廷楽師たちのクーデターで殺された「宋史 王年代紀」に記載される第十八代奴国大王素戔嗚尊の跡を継いで、吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたスサノヲの弟ニギハヤヒ天照大神尊のことです。

関裕二氏はまた、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた応神天皇(ホムダワケ)の本当の父親が、住吉大社に残された「モガリに皇后と住吉大神に夫婦の密事があった」という記紀の内容に反する伝承から、皇后に常に寄り添っていた武内宿禰を示唆する伝承だと推理しました。つまり海の神である住吉大神こそ、神功皇后を傍らで常に助けた三百歳の老人である武内宿禰ということになります。

更に、「日本書紀」の崇神紀7年に、大物主大神(大国主大神)がその子供のオオタタネコに自分を祀らせれば国も収まるという崇神天皇へ与えた神託があります。これが、住吉大神が仲哀天皇に下した神託、「海外(わたのほか)の国有りて、自ずから帰伏(まいしたが)ひなん。」とよく似ていることから、住吉大神と三輪山の大物主大神(大国主命)は同一神かもしれないと、これも関氏が指摘しています(「日本書紀」が隠し通した『天皇の正体』、廣済堂文庫、2010,p.202)。つまり、住吉大神と武内宿禰と大国主命(大物主大神)はすべて同一人物ということです。

ここでまた「魏志倭人伝」に戻ると、邪馬台国への行程記事と邪馬台国の南に在る女王が治める21カ国の国名紹介の直後に「其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗有り、女王に属せず。」と書かれています。中段の「倭国の風俗記事」の後の最終段の中に「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。」と男王の名前が紹介されました。男王よりも先に紹介された狗奴国王に仕える狗古智卑狗は狗奴国の実力者のようです。

そうすると「日本書紀」の仲哀天皇の熊襲征伐の話と「魏志倭人伝」に書かれた史実との対応を考えると、実際は狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤写か?)が邪馬台国への征討軍を派遣し、狗古智卑狗が征討軍に従い、重要な役を演じたと考えられます。

ここで卑弥弓呼王は、吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた奴国大王ニギハヤヒの直系の物部氏の祖だと推理しました。つまり、纏向遺跡のあった場所が旧(狗)奴国ということです。上述のとおり玄界灘を支配するムナカタ族が旧(狗)奴国を裏切って倭国側についてしまいました。卑弥呼(姫巫女)が伝える太陽神の神託に従う縄文系の海人族です。その為に、沖ノ島経由の半島南部の鉄素材の供給が止まってしまいました。

そこで、卑弥弓呼王は都を吉備から纏向の狗奴国に遷し、列島各地に展開している旧奴国王族らを纏向に集めました。「日本書紀」でハツクニシラススメラミコトとされた崇神天皇のモデルになった人物ということです。卑弥弓呼大王が卑弥呼の死(247年頃)の直前に派遣を決定した倭国征討軍の構成ですが、下に示した纏向遺跡へ外部から搬入された土器の出身地割合から次のように推理できます。



伊勢・東海系の土器が半分近く占めるので、倭国征討軍の主将は東海地方を支配する人物と考えられます。つまりタラシナカツヒコ(仲哀天皇)は尾張王だったと考えられます。「先代旧事本紀」によれば尾張氏は物部氏と同族で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を祖としています。吉備の楯築王墓に葬られたニギハヤヒ大王と推理しました。岡山市北区に祭神を天火明命とする尾針神社があり尾張氏の出身地と考えています(注3)。

次に北陸・山陰系と近江系の土器を併せると22%になるので、出雲から丹後半島あたりまで支配する出雲・丹波王が狗古智卑狗だと推理できます。武内宿禰のモデルです。それに従う近江・北陸から越(新潟)方面までの日本海沿岸を支配したムナカタ海人族の姫巫女が台与(卑弥呼と同じ縄文海人の一族で、母系がイザナミ)となります。記紀の神功皇后のモデルと推理できます。

「古事記」に武内宿禰が琴を弾いて神功皇后に神がかりさせて住吉大神の神託を仲哀天皇に伝えたとあります。富来隆氏によれば、狗古智卑狗の発音は、このような神事(カジリ)に使う琴が前漢時代(紀元前二世紀から一世紀)に空侯(クウコ)と呼ばれることから空侯ツ彦(クコツヒコ)かもしれないと指摘しています。そうすると狗古智卑狗「空侯ツ彦」はカジリに使う琴によって武内宿禰と一致します。

尾張王が倭王難升米を蹴散らして、卑弥弓呼大王を裏切り倭王に立とうとしたので、それに反発した狗古智卑狗らと内戦となったということです。尾張王をはじめ多数の兵士が戦死し、結局狗古智卑狗が勝者となって台与を女王に立てて倭国を支配したと推理しました。狗古智卑狗は卑弥呼の倭国(九州・四国・中国西部)を手に入れ、さらに元々山陰から越までの日本海沿岸部などを支配したので、後世に大国主と呼ばれたのは狗古智卑狗のことだと分かります。

また狗古智卑狗の読みから兵庫県豊岡市の久々比神社の祭神久々遅命(ククノチノミコト)とも考えられます。記紀の垂仁紀に登場する、口のきけなかったホムチワケ皇子の話に出てくる鵠(クグヒ、こうのとり)が神社名になっています。これは真相を誤魔化すための作り話だと直ぐに分かります。久々遅命(ククノチ)は木の霊です。現代でも行われる建物の棟上げ式の祭神です。「日本書紀」・「先代旧事本紀」によると木の神であるスサノヲの子の五十猛命(イタケルノミコト)とも属性が一致し、大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が奴国最後の第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ大王)の直系の子孫だと分かります。

Wiki「五十猛命」によれば、『古事記』では高天原を追放されたスサノヲとともに新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に天降ったのだが、スサノヲがこの地吾居ること欲さずと言ったので、一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至った。五十猛神は天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、新羅には植えずに全てを持ってきて、九州からはじめて大八洲国に植えたので、日本列島は青山に被われるようになったという神話になっています。

また神奈備「大屋毘古と五十猛について」 の中で以下のように指摘されています。

「素盞嗚尊が埴土で船を造ったが、埴土は製鉄の原料であり、鉄器を作り、造船したと云う意味。出雲の砂鉄の産地の船通山の麓に、伊我多気神社・鬼神神社が鎮座、ここは韓鍛冶の神としての五十猛を祀っている。真弓常忠氏の名著『古代の鉄と神々』では、延喜式1~15の神社を韓鍛冶の齋祀る神としている。」

以上のことから狗古智卑狗は、神功皇后を助けた武内宿禰であり住吉大神でありも大国主命のモデルともなった実在の人物だということです。

二世紀初頭に、最後の奴国王スサノヲが師升ら宮廷楽師のクーデターで敵に捕まった際、恐らくまだ幼いイタケル王子は、スサノヲの弟ニギハヤヒと共に部下のアズミ族かムナカタ族が手引きして逃亡したと考えられます。最初、イタケルはスサノヲ大王と繋がりのある半島東南部ソシモリに逃亡し、そこから海流に乗って出雲か米子に漂着したのではないでしょうか。

スサノヲの母イザナミの実家である米子のムナカタ族に引き取られて成長したのだと考えています。沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手できたのはスサノヲのコネだったのでしょう。丹後半島で鍛冶製鉄によって様々な鉄製品を製造し、倭国の領土である北部九州を除く列島各地に供給したと考えています。

鉄製の武器をスサノヲの弟ニギハヤヒに供給して吉備平定を助け、代々出雲・丹波王狗古智卑狗(久々遅彦)としてヤマト王権の基礎作りに貢献したと考えています。また、倭国を攻撃するために、熊本県の阿蘇山麓や大分県大野川流域に鍛冶工房の集落を多数つくり、熊本県菊池川の流域に最前線基地を造って、倭国大乱で活躍したのは大国主の先代の狗古智卑狗(久々遅彦)です。

つまり狗古智卑狗の名はイタケル直系の子孫の王の襲名なのです。玄界灘や日本海沿岸を支配する縄文系海人ムナカタ族の王として、奴国の再興、つまりヤマト建国に活躍した狗奴国の官ですから、記紀では五代の天皇の大臣として仕えた三百歳の老人武内宿禰のモデルとなった人物なのです。「古事記」では大国主命はスサノヲの六世孫とありますが、事実に近いと思います。

日本建国は、大国主久々遅彦に殺された尾張王(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)の子(オオタラシヒコオシロワケ、景行天皇)が物部氏の祖の助太刀で仇討し、大国主とその妃台与を殺し、大国主のすべての版図を尾張王らが武力で鎮圧して完成しました。記紀では景行天皇・日本武尊や崇神紀の四道将軍の遠征として伝えています。また、神代では出雲の国譲り神話として、藤原不比等の遠祖タケミカズチに活躍させて、本当の建国の父尾張王の功績を奪う神話を創っています。タケミカズチを鹿島神宮や春日大社でちゃっかりと祀っています(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。

また、記紀では神武天皇に反抗したナガスネヒコを殺して神武の即位を助けたニギハヤヒの話があります。ナガスネヒコは、ニギハヤヒの妃カシキヤヒメの実兄で、ニギハヤヒが降臨する前から大和・河内を支配していた人物ということです。ニギハヤヒは大国主を殺した尾張王の祖ですから、ナガスネヒコは大国主久々遅彦なのでしょう。大和・河内は元々は久々遅彦が開発した土地だったことを示唆しています。

すでに「本当は怖い七福神の謎」で、日本建国の過程で倭国王(伊都国男王)難升米に殺されたムナカタ海人族の姫巫女「卑弥呼」と狗奴国大王卑弥弓呼が追討軍を送り、実際に殺した「大国主久々遅彦」と「神功皇后台与」の霊を大和朝廷が最も畏れたと推理しました。これら三柱のヤマトを怨んで亡くなった貴人が祟り、天変地異などの災害を起こすと考えたのです。

ご皇室との関係が深い宇佐神宮ですが、祭神の八幡大神は建国の真相をあからさまにできないので、応神天皇としています。しかし真の八幡大神は応神天皇の本当の父大国主久々遅彦(狗古智卑狗)だと推理しています。宇佐神宮は大国主狗古智卑狗と神功皇后台与と比売大神卑弥呼の三柱を祀るために創建されたものでしょう。(宇佐神宮の前身は比売大神卑弥呼を祀るために造られたと推理していますが、その詳細は「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。

また、新羅王子アメノヒボコが垂仁天皇の時代に来日し、丹波に住み着いた話が「日本書紀」に残されていますが、「天日矛」と書かれ、日本の神として豊岡市の出石神社の祭神として祀られています。三世紀はまだ半島に新羅は建国されてはおらず、その前身が辰韓ということです。その住人の多くが、江南出身の海人アズミ族や列島出身の縄文海人ムナカタ族(注4)です。紀元前十世紀あたりから前者が倭人と呼ばれていましたが、半島南部で縄文人と混血して、その後縄文系も倭人と呼ばれたと考えています。言葉も倭人の言葉が使われていた模様です。

「三国史記 新羅本紀」第4代脱解王の時代から倭人が辰韓での製鉄を支配していました。恐らく奴国王スサノヲがムナカタ族やアズミ族の部下を連れて弁韓・辰韓から列島に鉄素材を供給するシステムを作ったので、その子孫である久々遅彦(狗古智卑狗)がそれを引き継いだということなのでしょう。脱解王はスサノヲ大王がモデルだと考えています(「新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆」参照)。

大和朝廷などによって幾つもの粉飾された伝承が作られて訳が分からなかった二世紀から三世紀の日本建国の真相がようやく解明されたと考えています。

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(注1)壹与か臺(台)与かがよく問題になっていますが、邪馬壹国と邪馬台国で答えが出ています。倭人語では母音が重なる発音はしなかったからヤマイチ国もヤマイー国も存在しないのです(安本美典「倭人語の解読」勉誠出版平成15年,p.15)。ではなぜ邪馬壹国と書かれているのかですが、恐らく「臺」の意味が皇帝を指す場合もあるので、東夷の女王に「臺」を用いるのは魏の皇帝に対して不敬になるので似た字「壹」をあてたというのが正解だと考えています。ですから「魏志倭人伝」の原本は残っていないのですが、原本から書かれていてもおかしくないと思います。でも范曄は魏の皇帝に気兼ねなく「後漢書 東夷列伝倭条」で邪馬臺(台)国と正しく書いてあるので、「臺」で間違いないです。邪馬台国の意味はヤマコクに居城(宮室)を持つ女王(臺)が支配する国という意味になります。それでも重母音を避けて邪馬壹(ヤマユィ)国と主張するならば、その意味は例えば「山のいで湯」の国ということですから、九州山地に数多くある温泉のある場所を指すことになります。しかし、意味的には邪馬台国か邪馬壹国のどちらが相応しいか明かでしょう。

(注2)日本書紀に仲哀天皇は成務天皇48年に数え31歳で皇太子になったとありますので成務天皇18年が生年となります。しかし、仲哀天皇の父の日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇40年に薨去しており、景行天皇60年に崩御され、1年後に成務天皇が即位していますので、仲哀天皇は日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になります。つまり、景行天皇から仲哀天皇のまでの話が史実に基づく部分があるとしても、その年代も親子関係も全く信頼できないということなのです。(2024.4.4 赤字訂正)

(注3)Wikiによれば、尾針神社の創建は不詳ですが、一帯は古くは「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地であったとあります。それでも刮目天はニギハヤヒを吉備を平定した奴国大王としているので、ニギハヤヒを祖とする尾張氏は吉備出身ということになります。伊福部氏は因幡にも関係があり、尾張王らの丹波・出雲遠征に従って、住み着いたのかも知れません。尾張王(景行天皇)に従って九州遠征を行った物部一族も北部九州に土着しています。特に宗像付近に物部氏が根を張ったようですが、ムナカタ族の再興を抑えるためだと思います。石見の物部神社も出雲のムナカタ族の再興を抑えるためです。新潟県の弥彦神社付近も同様の目的で尾張氏が土着したと考えています。

(注4)ムナカタ族は列島出身の、縄文時代からの海人族で列島や半島だけでなく、長江河口やもっと南部の越人の地域まで活動して、蛇や鳥を神とする越の文化を取り入れたと思われます。紀元前四世紀に楚によって越が滅ぼされると越人の集団の一部が出雲方面に避難して伝えた可能性もあります。米子市の角田遺跡に鳥の羽根飾りを付けて舟を漕ぐ羽人を描いた土器片が見つかっています。若狭湾東部の敦賀から北陸・新潟までの地名を越と呼ぶのも越人が入植したことを示すものと思われます。

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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