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悲劇の女王台与のはなし(その4)

2020-03-21 12:52:43 | 古代史
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実は一柱騰宮の伝承はあと二か所ある。そのひとつは宇佐神宮の横を流れる寄藻川に架かる呉橋の南側の神宮寺弥勒寺跡付近の謄隅(あがりくま)に在ったという説も卑弥呼が宇佐神宮の亀山に再葬されたことを誤魔化すために作られたものだろう。

もう一つが宇佐市上拝田の足一騰宮跡の石碑が建っている場所だ。その隣に神武天皇遥拝所の石碑が建っていて和尚山(かしょうざん)を遥拝するようになっている。この山は弥勒寺を建て別当になった法蓮上人が籠って修行したと言われる。ここから東側の駅館川(やっかんがわ)の対岸にも弥勒寺の塔頭のひとつとして法蓮が建立した観音寺(現在の薬師堂)の奥の院鷹栖観音堂が残っている。

この法蓮上人だが、日本建国の真相を伝える人物というのか、真相を隠そうとする意図が見えるのだがそれによって逆に真相が分かってしまう感じで、古代の謎を解くキーマンのひとりだ。この人物については宇佐神宮創建に関わるので、その話の時にしたい。

さて女王台与の話に戻すが、神功皇后の伝承は北部九州に特に多いというか、膨大なのだ( ^)o(^ )

神功皇后伝承地は北部九州で3000ヶ所、福岡県だけで750ヶ所となる。一番南は日向の都農神社で、北は対馬の突端部である。河村哲夫「北部九州における神功皇后伝承」第334回邪馬台国の会,2014.11.30)



台与が247年かその翌年に女王に立って最初に宮を置いた場所は前回述べた宇佐市安心院町妻垣神社辺りだろうと推理したが、その後は、台与が巡った先にそれぞれ伝承を残したということなのだろうか。特に、神功皇后を主祭神として祀る神社で有名なのは福津市の宮地嶽神社だが、福岡県内10カ所の宮地嶽神社もゆかりのある場所なのだ。台与が最後に宮を置いたのは、伊都国で戦死して平原王墓(注1)に埋葬されたと推理した糸島市の伊都国宮地嶽神社だろう。台与はヤマト勢に取り囲まれて自ら武器を持って奮戦した最期の場所は【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)で述べた今宿五郎江遺跡内だと考えている。そこから舟を出して逃亡するつもりだったのではないか。

神功皇后の妹豊姫(淀姫)を主祭神とする佐賀市の肥前国一宮與止日女神社や佐賀県を中心として北部九州にいくつも在る淀姫神社もまた女王台与ゆかりの神社だ。妹と言っても名前がトヨを引っ繰り返しただけの淀姫だから、実は台与だということをあからさまに言えずに祀ったものだと直ぐに分かる。特に嘉瀬川流域には與止日女神社を含め6社もあり、この辺りには長く逗留したのではないかと思われる。吉野ヶ里遺跡に居住したかも知れない。

大国主久々遅彦は高良山で戦死し、墓は祇園山古墳に葬られたと推理したが、高良大社正殿に高良玉垂大神、左殿に八幡大神、右殿に住吉大神が祀られ、御客座に豊比咩大神が祀られている。先に述べたように住吉大神が応神天皇の実の父だと暴露した住吉大社の伝承から分かる。また、本当は怖い七福神で述べたように真の八幡大神は大国主だった。応神天皇ということにしたのは先程の法蓮上人が大国主をカモフラージュするためだと推理している。つまり本殿の三柱はすべて大国主なのだ。

高良山を倭国の穀倉地帯である筑後平野の防衛拠点として大国主が神籠石を積んで山城を築いたと考えている。ヤマト勢が倭国に侵入した第三次倭国大乱(266年直後から数年後か)では台与と子のホムダワケ(応神天皇)も一緒に立て籠もったのではないかと当初考えたが、伊都国の平原王墓を台与の墓だと考古学的にも分かった(注1)。台与は與止日女神社辺りを居城にしていて、大国主が高良山で戦死した後にヤマト勢に襲われたので、先述のとおり伊都国から海へ逃亡するために背振山を越えたのではないかと推理した。高良山では一時期台与は大国主と一緒に過ごしたのだろうか。ホムダワケは、台与が247年か遅くてもその翌年に13歳で女王になって数年後に大国主と結婚して生まれた最初の子だとすれば、この時点で10代後半だと思われる。父の大国主と共に戦って、父が戦死したので南九州方面に逃亡し、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)に落ち延びたのではないだろうか。八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。Wiki「鹿児島神宮」より)

時代は戻るが204年、公孫氏によって帯方郡が設置され半島の混乱も落ち着き、倭国が勢力を取り戻した。先代の久々遅彦はすでに菊池に軍事拠点を築き、度々筑紫平野を攻撃していたのだろう。それに頭を抱えていた、伊都国を居城としていた倭王難升米が菊池の軍事拠点を攻撃をした。先代はそこで戦死し、旧奴国王族側の軍事基地が解体されたためにムナカタ海人族は衝撃を受け、倭王の懐柔によって姫巫女卑弥呼を女王として共立し、邪馬台国連合倭国が成立したと推理した。

その後、纏向に狗奴国ヤマトが造られ、旧奴国王族が集合して倭国追討を行い邪馬台国を滅ぼした。上述のとおり247年頃に13歳で台与が女王に立てられた。近江・越を拠点とするムナカタ海人族の姫台与に巫女の霊力があったのでこの倭国遠征軍に同伴させられたのだろう。

台与と結婚した大国主だが、先代の父久々遅彦と一緒に戦いに参加していたとすると204年頃は20歳前後だろうし、もっと若かったとしても10歳くらいだったのならば、6・70歳の老人だったようだ。白髭の武内宿禰のイメージどおりだ。となると大国主はその20年後ころ8・90歳で戦死したのだろう。そうすると台与は30歳前後で死んだのだ。女王とは言っても権力者ではなく、宮室で度々神憑りを強要される巫女なので、決して良い人生ではなかったようだ。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)で述べたとおり、後世の羽衣伝説の天女とされた。羽衣を老人に奪われて返してもらうために結婚したという気の毒な物語なのだが、福を呼ぶ吉祥天としても描かれている。「日本書紀」などでは男勝りの女傑として、自ら斧・鉞(まさかり)を持って新羅征伐を行ったり、また仲哀天皇の皇子たちを呪術で殺して応神天皇を即位させたヤマト朝廷の英雄としても描かれているがこれらは創作だ。こういう神功皇后が実はヤマトに祟り、天変地異を起こすと信じられていて、その都度、朝廷は神階や田などを加贈したことが「三代実録」などに記録されている。祟るはずのない人物が実際には祟っているのは、祟られた大和朝廷側に後ろめたいこと、すなわち伊都国で殺害した台与であったからだと自身で暴露しているのだ。

関裕二さんによれば、古くから伝えられている「カゴメ歌」は悲劇の女王台与を哀れんだわらべ歌だと推理しているようだが、その歌詩は謎めいている。

かーごめ、かごめ、
篭の中の鳥は、いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だ~れ?


かごめは籠目=正六角形=亀甲を表し、現在の出雲大社の神紋は、亀の甲羅(こうら)をかたどった、六角形の枠の「亀甲紋( きっこうもん)」を二重にし、その中に「剣花菱(けんはなびし)」を入れたデザインなのだ。つまり大国主を表しており、亀甲紋の中の剣花菱、剣を持った花が大国主に閉じ込められた台与を表しているようだ。篭の中の鳥は前回見たとおり、鳥の姿の姫巫女台与のことで、一体いつになったら台与は解放されるのだろうかと嘆いているようだ。



夜明けの晩というのは七夕の夜(7月7日午前1時頃)のことのようだ。古来から多くの 神社で神事が執り行われるようだ。「七夕の里」で知られる福岡県小郡市の媛社(ひめこそ)神社では毎年8月7日に「七夕神社の夏祭り」が行われる。祭神は織姫こと栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)だが、本当は宗像神道主貴(むなかたのかみみちぬしのむち)だからムナカタの姫巫女台与のことなのだ。ちなみに七夕神社の東側を流れる宝満川の対岸には、菅原道真公と牽牛神の天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祭る老松神社(小郡市稲吉)がある(注2)。牽牛神は牛頭天王スサノヲ、つまりその直系の大国主のことなのだ。高良山の在る久留米市御井はミイ(巳)で蛇=竜蛇神大物主大神(大国主)のことなのだ。だから祭神をアマテラスの子の天忍穗耳尊とするのは真相を誤魔化すために作られた「日本書紀」に基づく伝承なのだとわかる。(2020.3.28 赤字訂正)

大分県の姫島(東国東郡姫島村)の比売語曽社(ひめこそしゃ)の祭神は神功皇后の祖先である新羅王子の天之日矛(あめのひぼこ)の妻で、大己貴命(大国主)の女である下照姫命ということになっている。これも、大国主と結婚した台与であることをカモフラージュするための伝承だと直ぐに分かる。至る所で「日本書紀」でねつ造された伝承が造られているので、そのまま信じると訳が分からなくなるのだ。

カゴメ歌に戻るが、鶴は物部神社の神紋が日負い鶴だから物部氏のヤマト勢を指し、亀は大国主。すべるは退べると考えて、ヤマト勢と大国主が退場した後に「後ろの正面」つまり、真後ろにいるのは誰?は、ヤマト勢と大国主が去った後に誰(の魂・霊)が残ったの?

これが悲劇の女王伝説を伝えるカゴメ歌の意味じゃないかなと思う。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆


(注1)平原王墓については女王台与の最初の墓だと推理した。方形周溝墓で、割竹形木棺(丸太を半分に割り、中をくり抜いて再び合わせた木棺)の埋納が検出されている。通説では弥生後期から終末期(二世紀から三世紀前半)ころの伊都国の女王の墓としているが、その時代は師升の一族が倭王として伊都国に居城を置いていた。このような豪華な副葬品から台与に匹敵するような女王であるはずだがその記録は残っていない。

刮目天は割竹型木棺に着目した。古墳時代の初期(三世紀末から)に盛行した形式なのだ。通説では二世紀ごろの滋賀県野洲市の市三宅東遺跡に見つかっているとのことで平原王墓を弥生後期ころとする根拠にもなっている。だが、近江の様式が糸島で見られるのは説明できない。北部九州の倭国が近江などと対立することは纏向遺跡の外来系土器に九州のものがほとんどないことから分かる。
出土したのは全長3・5m、幅45-65cm、厚さ約4cm、高さ29cmの半円筒形に加工したスギ材。厚さが薄く、蓋と判断した。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はない。水分の多い水路跡にあったため、保存状態が良く、鑿など工具の削り跡も残っていた。野洲市・市三宅東遺跡 最古の割竹形木棺の蓋?)とあり、平原王墓の木棺の直径は0.9m、長さ3mと比べて長さは同程度だが、幅が少し狭いし、本体部分も見つかっていないので木棺の蓋なのかは確定していないと思う。市三宅東遺跡が見つかる前までは、最古級は大阪府八尾市久宝寺遺跡1号墳の木棺だった。大和を中心に大型前方後円墳が続々と造営されつつある時期にあたる古墳時代初頭が築造期で(270~280年)、墳丘の形状も平原王墓と同じ方形周溝墓なのだ。平原王墓は台与のものだろう。

(注2)小郡市上岩田にも老松神社があり、ここのご祭神は以下の三柱となっている。
菅原眷属神(すがはらけんぞくのかみ)
高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
住吉大神(すみよしのおおかみ)
神功皇后が山門県の田油津姫(たふらつひめ)を殺す話に関係する神社だ。関祐二さんは田油津姫を邪馬台国の卑弥呼と考えているが、卑弥呼は日食のために宇佐市安心院町で殺されたと突き止めたので、真相を誤魔化すための説話だと考えている。(2020.3.28 追加)

まだ書き漏らしたことはたくさんありますが、一旦これで終わりにしたいと思います。
さいごまでお付き合いありがとうございます。

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